見出し画像

【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ六(4/4.5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3400文字)


 今日も番台は埋まっていたので、楠原は隅の卓に座って、卓の上に徳利だの、猪口だの、煙草の空き箱だのを並べ出した。
 流行りの小唄でも口ずさみながら、頭の中で作り上げた地図に合わせて、煙草の箱を指先で、はじいて倒す。しかし倒したその箱を、今度は徳利の裏側へと、わざわざ持って行って立て直し、にんまりとした笑みを広げる。
 腹の底ではひとしきりぼやいてもいる。
(春頃に、潰した娼宅が、元の木阿弥別の建物で、女達もそのまま、甦りましたとさ……)
 傍目には目を細めてクスクス笑っているだけで、主人からも客達からも、大して気にされていないが。 
(こういうのが、面白いって思ってたんだ。俺。みんなが見たくねぇような場所に、わざわざ潜り込んでって、昼の日向では取り澄まして歩いてやがる連中が、隠したがってるような事、わざわざ覗いて、引きずり出してよ……)
 指先でピン、とまた、煙草の箱を倒す。
(面白くねぇな)
 箱を掴んで、握り潰す勢いに任せて立ち上がった。 
(ちっとも面白くねぇじゃねぇか馬鹿野郎!)
「親父! 勘定、置いとくよ」
「おう」
 番台を離れて主人は、店先に出たばかりの楠原に声を掛けたが、
「おい。釣りは」
「いらねぇって」
 振り向きもせずそう答えて歩き続けた。蒸し暑い夏の宵の空気が、ベッタリと重たくのしかかってくる中を、行き先も考えず歩いて歩き続けて、路地に入る角を曲がったところで、
(何だ?)
 と足を止めた。
 暗い。先が見えない。足が容易には踏み出せない感じに。
 常人ならごく当たり前に身に馴染んで、心得てもいるはずの感覚だが、楠原には、今ここで生まれて初めて知るものだ。怖い。
(ちょ、と待ってくれ。なんで……、何も、見えないんだ? ってかなんで、今、急に)
「いつまでもオレの言ってること聞いちゃくれないからさ」
 耳元で聞こえた声にゾクっとなる。振り返るがそこには誰もいない。そう思いたいところだが分からない。何も見えない。今し方曲がってきた角すらも。
 本当に暗い。
「誰だよお前」
 フフッ、と吹き出した声に振り返るが早いか、
「うわっ!」
 足元をすくわれたらしく地面に両膝を付いた。
「何……」
 言い掛けた言葉も飲み込むしかない強さで、頭が押し込まれる。
「言葉に気をつけろ」
 背中側からの力で下手に抵抗するよりは、背を丸めて大人しく、身を屈めておいた方がいい。
「冗談だろうが本気で言ってようが、オレは心底ムカついたぞ」
 実を言うと楠原には心当たりがあった。しかし声の主は、これまではずっと、身の内にいて声だって内側から聞こえ続けていたもので、外側から響いて来たのは、外側から力まで加えて来たのは、今のこの場でが初めてで。怖い。
 怖い。呼吸が浅くなって少しずつ、上手くは吸いにくくなっていく。
(なんだ? なんだってコイツ外に出て、今更よりにもよって「俺」に攻撃してくんだよ。チクショウお前だって「俺」なんだろうが!)
「なぁ。なぁ覚えてるか?」
「あぁ?」
 荒っぽい声を出した途端に押し込んでくる力が増した。しかし、どういう理屈だか分からないが、声に出さなければ向こうには、聞こえていないらしい。
「まだ、実家にいた頃さ。親父の書斎に忍び込んで読んだだろ? あの本。何て書いてあった?」
(何の、話してんだよ今頃……)
 路地裏の道端に膝立ちのまま、頭も押さえ込まれて不服ではあったが、黙っている間も力が加えられてくるので思い返すしかない。
「『姦淫を』……」
 口を開けて自分で出していると言うよりは、目の前の暗闇から、浮かび上がってくるように感じられた。
「『為す者は、夕闇を待ち構え、』……『誰の目も我を見る事は無からん、と言いにき。』……。『そしてその顔に覆う物を当てる。』……、って」
 背筋にゾクっとくる感じが一際強くなる。
「ウソだろ! おい! 俺、そんな……、一回見ただけで覚えちまえるほど普段から、頭良かねぇって!」
 クスクスと、子供っぽい笑い声が余計に癪に障る。
「そりゃあ、『まるで自分のことみたいだ』って、思ったからな」
 何だガキか、と気を落ち着けようとしたが、いやガキだって事は分かっていたはずだ、と頭に浮かんでかえって鎮まらない。所詮はガキだと侮り続けてきたんだ。泣こうが喚こうが、どれだけ足掻こうが、ずっと表で動き続けている俺の方が、よっぽど強いし偉いんだって。
「続きが、あったんだ。覚えてるか? 笑えるぞ。今のお前、あそこに書かれた通りみたいになってやがる」
「……」
 覚えている事を分かり尽くした上で訊かれているのは悔しかったが、力を緩めてもらえたらしく吸いやすくなった息を吸い入れて、思い返す間は目を閉じた。
「……『夜になり、家を穿つ。
  彼は昼間は籠り居て、暁を知らず。
  げに彼にとりて暁は、死の陰の如くなり。
  これ死の陰の恐ろしきを知ればなり。』……」
 目を開けて、今見えている空間の方が真の闇で、今口にした言葉の方は、声に変えてみればそれほど恐ろしくも感じなかった。
「へはっ」
 喉の奥を吹き払うような、笑い声も出た。
「何だよ『死の陰』とか。ピンとこねぇなちっとも」
 指先は細かく震えているくせに、わざわざ悪態までついてみせる。
(こんなのは、ただのこじつけだ。何も大した意味なんか無いって。そうだろ)
 そう思った瞬間まるで連動するかのように、暗闇の奥から突風が吹いた。巻き上げられた塵がたった今の思念を罰するかのように、目に入って刺さる。
「……って!」
 陽の光の下でなら、それほど大きな塵でもなく、頬を流れているのも反射的な涙と分かったはずだが、真の闇の中で研ぎ澄ませていた感覚には、激しい痛みに感じた。
 脳が『危険』と判断するほどの。眼球が本格的に傷ついて、このまま視力を失いそうなほどの。
 手を突いてじんわりと身を起こし、手探りで触れた壁を伝い歩きながら、頬を濡らしている液体も、今は、血液であるように感じている。
「おい……」
 声は聞こえない。ついさっきまで低く続いていた笑い声も、なくなっている。
「おい! 返事しろよそこに、いるんだろ!」
 自分一人だ。その通りだ。最初からそうだった。それでも呼びかけずにいられない。
「助けてくれ……。助けを……、誰か呼んでくれるか俺に、呼ばせるかさせてくれよ……。俺……、嫌だよこのまま何にも、見えなくなるの……!」
 チッ、と舌打ちの声がして、むしろ笑みを浮かべた楠原が、振り向いたところを拳が頬に食い込んで来た。
「ちょっ……!」
 何も見えない中を拳は、頬へと頭へと、続けざまに襲って来る。
「てっ……! 痛ぇって! え……? って何だ? これ……」
 頭の中に浮かんでいる絵柄は、外側から正面からソイツに、タコ殴りにされている自分だけれど、同時に身体からの感覚で分かる。拳を固く握って振り下ろして来るのは、自分の腕だ。
「ぐぅっ……!」
 腹に拳が入って吐きそうに、なった頭を、額辺りの髪の毛掴んで引っ張り上げられた。と言うより自分の腕が、引っ張り上げている。
 気持ちが悪い。感覚がおかしい。吐き気がする。自分の意思じゃないのに、とか、俺怖い。気持ち悪いし耐えられない。
「思い出せ」
 嫌だ。
「オレは、オレに戻りたい」
 嫌だ!
 嫌だ俺思い出したくない! 思い出したくない絶対にあんなもん、たとえほんのちょっとだって思い出すもんか!
 何だよこれいつもとは、まるで逆じゃねぇか。いつも腹の底で、時々えづき出すくらい見苦しく、泣きじゃくりまくってたのはそっちの側だったくせに!
「オレだけに見えてるもん、さんざん利用して、良い気になりやがって」
 薄く開いてきた目の先で、相変わらず暗闇の中で、俺を睨みつける二つの目が薄赤くギラついて光って見える。
「いいかげんで気付きやがれ。オレにはもう、てめえなんかいらねぇ」
 暗くて見えてはいないけど、口元には、薄ら笑いを浮かべていやがる事も分かっている。何でって、だって、だからコイツ、俺だから。
「どこにいたっていつ何時だってオレは、てめえくらい殺せるんだ」
 意味分かんねぇ。分かんねぇんだってさっきから! 分かんねぇし分かりたかねぇんだ俺には、チクショウ何もかも分かんねぇぞ!


 |  |  | 4 | 4.5


いいなと思ったら応援しよう!

偏光
何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!