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『張山光希は頭が悪い』最終話:薫と光希

第1話(末尾に全28話分のリンクあり)
(文字数:約3400文字)


最終話 薫と光希

 小石川の家に生まれ育ったものだから、真剣に本気を出せば、朝の早い時間から動き出して、寝静まっている家の中の人たちを、誰一人起こさずに、身繕いして準備しておいた荷物を持って靴も履いて、家を出るくらいは本当に、朝飯前だった。
 仏壇に手は合わせ切れてもお鈴までは鳴らせないから、玄関を出て家の外側から仏壇の方角に向かって頭を下げて、正面にも下げて、作業小屋の方にも軽く手を振って、無機物じゃなかったら手を振り返されているのを感じながら、玄関前のアプローチを通り抜けて道路に出た。
 少しひんやりした夜明け前の空気は薄暗くて、車もほとんど通らない時間帯だけど、張山の家はカーブのそばで油断も出来ないから、横断歩道に行き当たるまでは山肌に沿って歩く。坂道を下り切った先に見える橋を渡って、左手側が鬼神楽の舞台にもなるお寺、正面に進むと無人駅だ。
 階段を上って出るホームは無人駅にしては広い。この山を切り開いて線路を敷いてきた偉業を讃えて、鉄道会社の歴史や車両関係資料の展示スペースがある。線路に向かって並べられたベンチ、だから、僕からは背もたれ側が見えている、その一つの背もたれの向こう側に、元から茶色っぽい髪の毛が見えた。
 わざと足音を立て気味に、近寄って行くと、気が付いて振り向いて、立ち上がってくる。その格好を見てちょっと呆れた。水色の縦ストライプのパジャマでいる事はともかく、ハダシだ。
 僕の視線に気付いて足元を見て、ちょっと赤くなってくる。
「靴、履いてたら薫には、気付かれちゃうかなって」
「だと思って」
 荷物と一緒に持って来た、光希のスニーカーを差し出した。
「靴入れ覗いたらあったから、持って来た」
「ありがとう」
 受け取って、素足をそのままスニーカーに入れて、
「誰にも何にも言わずに行っちゃうんだ」
 屈み込んで紐を結びながら言ってきた。
「茉莉花にも、おじいちゃんおばあちゃんにも、お父さんとお母さんにも多分、実家の御両親にも」
「お弁当にめはり寿司もらったよ」
「ホントに?」
 こっちも苦笑しながら言ったけど、光希もつられたみたいに笑って、背を起こしてくる。
「夜中のうちに。ってじゃあ、光希は誰から聞かされたの」
「エンデの『中の人』と、僕SNSでつながってる」
「あぁあ」
 そう言えば動画送ったとか話してたのすぐ横で聞いてた。
「フィッシャーの、ブレッドは持ってる?」
「もちろん」
 晃おじさんから高校の、入学祝いにもらったボールペンだ。宇宙空間でも書けるってヤツで、光希とは色違いのおそろい。
「街の方が替え芯手に入れやすいだろうから、多めに買っといて張山の、家にも送る」
「今時ネットで買えるよ」
「そのネットが使いづらい環境に住むんだろ。これから」
 くっきりしたふた重の目を、純粋に見開いて、
「そうだった」
 って今更みたいに言ってきたから、呆れた。
「言わせてもらうけど光希、頭悪いよな」
 見開いたままの目を二、三回、瞬きさせてくる。
「あんなとこ、面倒だし大変だし、色々しんどいって、僕もっとちっちゃな時からずぅーっと、毎年夏休みが終わる度に、話してただろ」
「うん。だけど……」
 ちょっとの間、目線を逸らして頬を掻いて、
「紫さん、天女様みたいにキレイだしっ」
 両手組み合わせてどこか空中を仰ぎ見て、ポワンとしてきやがる。
「あからさまに色香に迷って目を眩まされてんじゃねぇよ」
「まずはそれ理由にしとかないと」
 ぱ、と組み合わせた両手はすぐに離してきた。
「呪い、なんかは置いといて本当のところ、僕の妻、にさせちゃうんだから」
 しかも実年齢の十八になってすぐ、もしかしたら高校も在学中にって、現実を見たら文字通り、洒落にならない。
「ウソでも思いっきり喜んでいないと、この先生まれる子供とか、それこそウソになっちゃうから。『自分は幸せだ』って『自分が幸せを作るんだ』って、しっかり思い込んでおくんだよって、お父さんからは言われた」
「思い込み、でいいの」
「信仰、みたいなものだって。お父さんにとっては」
 じゃあ仕方がないなって、僕には分かるはずがないって事が、分かってしまって溜め息をついた。
「それに、『花一輪一輪の声を聴く』とか、僕ちょっとやってみたいなって、もしかしたら、僕にも出来るんじゃないかなって、思えちゃったって事は僕がやるしかないのかなって。だって、普通は思いもしない事なんだから」
「そうだな」
「あと」
 立ち位置を変えてホームの入り口側に背を向けて来たから、僕も合わせて位置を変えて、線路側に背を向けて、
「僕は、薫を閉じ込めておけないよ」
 山の方から下りてくる風に、光希が立ちふさがる形になった。
「山の上だけじゃなく、ふもとにだって。薫はカッコいいんだから、僕は、薫をもっとたくさんの人に知ってもらいたいから」
 言いながら光希の目にはどんどん、涙が溜まって行って、口元は嬉しいみたいに笑っているけど、どっちもウソじゃないものだからこぼれ落ちる。
「だけど、誰かがここに残っていなきゃ、出て行こうにも行けないじゃない。この辺りだっていつかは、どうなってくれるか分からないけど、今ってまだまだ、そうだから。そんな感じだから」
 僕たちが生まれた辺りからちょっとずつは増えてきたけど、まだまだ田舎で、過疎地域で、おじいちゃんおばあちゃんの方が多くて、若者は貴重な働き手で、他所では誰も知らないようなお祭りを、細々と守り続けてそのために、人生を捧げるような人もいて、人どころか家も集落もあって、
「だから……、頭悪いって言ってんだよ」
 その中に光希は、入り込むんだ。僕が出たくて本当はずっと逃げ出したくて、仕方が無かった場所に。
「どうして他人のために自分の人生、投げ出せるんだよ」
 言いながら僕の片目からも、涙が落ちていて、光希は両目からあふれ続けているのに僕は片目から二、三粒なんだなって、その時点でどこか負けた気がした。もちろん、勝ち負けじゃないけど。
「うん。だから薫は」
 手の甲で光希は自分の涙を、一旦拭って、口元の笑みを強めてきた。
「『人生差し出して良かったな』って、僕に思わせてくれなきゃ」
「とんでもない重荷背負わせてくれるよな」
「うん。だけどさ」
 素足に履いたスニーカーで、もう一歩、僕に近付いて言ってくる。
「出来るよね。薫」
「当然だろ」
 光希から今この場所に、僕は引き出されてしまったんだから。
 両手を開いて向けられたら、僕もつい合わせて、だけど、叩き鳴らさずに両手とも、しっかり繋ぎ合わせていた。
「僕たちは、ふふっ、子供の頃からずーっと一緒」
 笑う拍子にも光希の頬からは、涙がこぼれ落ちて、
「どこに行って、何をしていても、薫は薫だ」
 僕はせめてうつむかずに、その涙を見つめていようと思った。
「愛してるよ」
「うん。僕もだよ。光希」
 多分この先また会えたって、今ここにいる光希の方が、ずっと、比べものにもならないくらいに。

 両手を離したら光希は、くるりと僕には背を向けて、そこからはもう一度も振り返らずに、ホームを改札口に向かって行った。入場券を改札に通して、階段に差し掛かった辺りでは見えていた、光希の背中に髪の毛が、一段ずつ下りるごとに見えなくなって、足音だけがしばらくは聞こえ続けていたけど、それもすっかり無くなってから僕は、線路に向かった。
 踏切の音がして、始発の鈍行が二両編成でやって来て、乗り込んでからも僕はホーム側の窓から目を逸らしていた。列車が走り出して、山の中を木々の緑の間を通り抜ける。日の出の時刻は過ぎているのに太陽が、この山を乗り越えて上るまでは日が差さない。
 これまで受け取って来たものを、身体は離れたってこれからもずっと受け取り続けるものを、僕は行く先々に伝えて響かせ続けなきゃならないんだって、大変だ、って正直思ったけど、やらないわけにはいかなくなった。光希が残ってくれるんだから。そのうち言葉を使わない「声」まで放つようになるんだから。
 窓の外で開けてきた景色に、車両の中にも日が差し込んで、僕の目には明るく感じたって、きっと張山の家は薄暗いままだ。
 家族じゃないけど家族。生まれた時からの仮住まい。光希がいなくなったら僕には、もう「帰る」感じでもなくなる場所。
 そこがどこよりもあたたかい。


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