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【小説】『マダム・タデイのN語教室』2/10

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(10回中2回目:約2900文字)


LESSON1 取りかかりすら掴めない

 動機なら十二分にあるぞ、と夫のアツムは、2年前から時々新聞を広げる拍子に呟いている。
 ステファニーが住み出すようになって、ちょうど入れ替わるようにお隣のお宅からは、ご主人の、お父様の姿が見えなくなった。
「ステファニーを連れて帰った途端にっ、出て行ってしまいましたっ」
 とご主人は、やけに笑顔であのはずんだ調子で話していたけれど。
「おかしな話じゃないか。一人息子が嫁を連れて来て、気を遣うのはまぁ分かる。しかし元の家を離れるのは普通、息子夫婦の方だろう」
「あの家は、息子さんが買った息子さん名義だって、話していたじゃない」
「それを証明するものは何も無い。ただ息子一人がそう話しているだけなんだよ、お前」
 お前に「お前」と呼ばれるのは長い夫婦生活で慣れてはいるけど腹立つわぁ。
 しかもこの人がそう呼んでくる時って、普段読みはまっている古典ミステリー文学の、探偵気取りでいる時で、せめてワトソンくん風にセツコくん、ああイヤだわそれもムカつくわ。
「手広く事業を興して海外にも別荘を、いくつも所有していたと聞くお父様だ。名義は確かに息子だとしても、父親の援助は受けているだろうし、見たところ、二十二、三過ぎまで育つ間に、学業でも勤め先でも優遇されてきただろうさ。となると」
 小太りのバーコード系ハゲ親父が格好を付けて、口ヒゲの先をいじりながら語っているけど、
「父親の財産を奪い取り、父親本人は言葉巧みに引退に追い込むか、病気と偽って入院させるかして、体よく追い出したのかも分からない」
 分からない、のよ結局。他所様のお宅の内側の事は。
「現に今の彼はどうだ。頭のネジでも一本外れたんじゃないかってくらいに、やたら明るく笑ってくるようになったが、父親がいた間は父親の影に隠れて、挨拶する時も笑顔すら見せずに薄気味が悪かったじゃないか」
 それは夫の言う通り、どうしちゃったのってくらいに人が変わっちゃったけれど、美人な奥さん掴まえたらそりゃあ毎日が楽しくて仕方がなくなるのかもしれないわ。

 ご主人がいたからその場では、水曜日の午後1時から、って決めた日時を通訳してもらって、って思っているのにご主人は相変わらずN語のままで、
「通訳してくれる気があるのかしら?」
「ああ。ステファニーはっ、僕が話す事だったら何でも伝わってくれるのでっ」
 んなわけあるかい。何の夫婦の以心伝心やねん、って呆れていたけど奥さんは本当に約束した日時にやって来た。
「コンニチワ」
「おはようございます」
 言ってみると大きな茶色の瞳を瞬かせて、首を傾げながら壁の時計を指差してくる。
「ああ。うん。今の時間は、そうね。こんにちは。他にどれだけ知っているかしら、と思って」
 壁の時計に差した指を、数字に沿って6まで動かして、
「こんばんは」
 言ってみると、もっと先の数字を指差して、
「オヤスミ、ナサイ」
 って返してくる。
「はじめまして」
「アリガトー」
「さようなら」
 そこでステファニーからは出て来なくなったけど、普通に暮らす分には充分だと思った。
「うん。挨拶はひと通り知っているのね」
「アイサツ」
 知っている単語みたいで笑顔になって、
「オハヨウ。オヤスミ」
 下唇に、指の先を当ててはにかんでくる。
「ロウ。アイサツ」
 ああはいはい。あの旦那、新婚か! ってそう言えば新婚だったわ。
「ロウ、ってご主人のお名前だったかしら」
 肩から下げていた紐も金属製で細い、小さなお出かけ用バッグから、メモ用紙を二枚取り出してテーブルに置いてくる。拾い上げて見たら「Mix Law」って書いてあって、危うく吹き出しそうになった。
 もう一枚は、漢字で書かれた「御樟みくす ろう」で、抑えていた笑いがまた込み上げてくる。
「カンジ」
 下げた眉を寄せて、手を振ると同時に首まで振ってくる。そりゃそうね。難し過ぎるわよね。
 用意しておいたお茶を出して、ダイニングのテーブルに向かい合わせに座る。テーブルクロスを敷いて一応はノートも用意して、専門家じゃないどころか勉強を教えた事自体ないんだけど、普段使っている言葉くらいなんとかなるでしょって、まずは自分を指差して、
「私」
 ステファニーを、指差すのは失礼だから手のひらを向けて、
「あなた」
 と言ってみた。
 そしたらステファニーは、全く同じ動作を繰り返しながら、
「ワタシ。アナタ」
 と言ってきたから「そう」って笑顔で頷いたけど、ステファニーの方では首を傾げて次は、自分の胸に手を当てて、
「ワタシ?」
 と言ってくるから、あれ? と思ったけど「そうよ」って頷く。
「ケスティオン」
 クエスチョン、かなと思ったから「どうぞ」って微笑んだら、ステファニーは自分を指差して言ってきた。
「ワタシ……、イッヒ? ナーゼ? イッヒ、ウントナーゼ?」
「ごめんっ」
 気が付いてステファニーの前で手を合わせたけど、その仕草と音にびっくりしたみたいでおろおろしている。
「(なんで、何も無いところ叩いたの? 虫とかが飛んでいたの?)」
「ソーリー、って、ああ英語も伝わらないんだったわ。だけど気持ちで伝わって下さい。すみません間違えました」
「(なぜ、貴方が謝るの……? 私が間違えているんじゃないの……?)」
 向こうも分からないままに話し続けているけど、そっちは私の方で理解できない。自分の指先をしっかりと鼻に付けて、
「ハナ」
「ハナ」
 そしたらステファニーは、キョロキョロとダイニングを見渡して、まさか、とは思っていたけど花瓶に挿してあった花を指差してくる。
「ああ。うん。それも『ハナ』なんだけど、えー……っと、カンジ、は分かるんだったわね」
 首を勢い良く振ってくるけど、そういう意味じゃない。カンジ、というものの存在は知っているかって話で。
「ああ違うの。分からなくてもいいの。ちょっと待って。ウェイト」
 だから英語も通じないんだってば、って、言いながら自分にツッコミが入るけど、顔の絵を描いて真ん中のパーツに矢印を引いて、鼻、の隣に、チューリップの絵を描いて茎の先に矢印を引いて、花、を描いたページを見せる。
「これが、ハナ。こっちも、ハナ。音は同じ。でも、違う漢字で、違う言葉」
 もう全部がN語になっちゃっているけど、なんとか気持ちで伝わってくれないかしらって、願っていたらステファニーは、左右両方の絵に目線を動かしていたけどそのうちに、涙目になってきて、テーブルにゆっくりと顔を伏せてコトリと音が立つ感じに額を置いて、出してくる声は涙混じりになってきた。
「(一体この国の文字は何種類あって、数は全部でどれだけあるの……?)」
 ご主人が2年もの間、教える事を放棄していた気持ちが、残念だけど理解できた。

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