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絶望のフチにたたずむ

 はじめましての人も、
 前から知ってる方も、
 ごきげんよう。

 偏光です。

 「自分ばかりを大事に考えるな」と、
 散々「生き直し」を迫られてきた私ですが、
 「己自身への敬意」をまずは抱きましょうと訴えたい。

 そんなものこそ真っ先に捨てなくては、
 身勝手に振る舞うようになってしまうと、
 我が身や我が子を案ずる声に取り囲まれそうですけれど、
 いえいえいえ。

 己の尊さを自覚しているからこそ、
 「それは尊さに相応しい振る舞いか?」
 立ち止まり振り返る余裕が持てるものです。

 絶望に落ち切らず沈み込む手前で、
 しがみつける何かを見出せるのです。

 そこで
 「しがみついているから苦しいのだ」
 「手を放して流れに身を委ねれば楽になる」
 などと教えてくれる人もわりと多くいます。

 しかしながら、
 やめられず後を引くお菓子だの、
 仲間が多くあって安心できる事だの、

 そういった事柄への執着と、
 命そのものあるいは命の尊厳への執着とは、
 種類も力の入れ具合も全く異なるものです。
 見て分かれ馬鹿。
 (失礼。つい怒りが。)
 (しかし心得た方は「命は別だ」と、
  きちんとひと言添えてくれていたりします。
  それにより全体は分かりにくく、
  伝わりにくくなったとしても。)

 「人は誰一人見ていなくても、
  お天道様は見ていてくれる」と思えていたのも、
 「自分へのこの扱われ方は不当」だと、
 心の奥底では気付いていたからに他なりません。

 「何も出来ないダメな子だ」となじられるが、
 毎日やって出来ているお手伝いなど見られていない、とか、

 「友達出来ない」と嘆かれるが、
 あんな家の子と友達になっちゃダメ、
 そんな付き合い方本当の友達じゃないわ、
 と認めようとしない(そしてその態度こそ失礼)、とか、

 何より聖書は家で読んで来てはいけないと、
 教会で皆と共に学ぶものだと教えられる。

 「現実を見ろ」と毎日冷笑を浴びるが、
 確かに見えている現実には違いがあるとしても、
 私の側からそちら側に、
 「目覚めよ!」などと不躾な要求はしていない。
 現実を見極めようとしているのは私の方ではないか。
 
 もう一度冒頭の質問を繰り返したい。
 まずは己自身に敬意を払えた上で。

 各人の胸に改めて問い直してもらいたい。
 「それは尊さに相応しい振る舞いか?」

以上
ここまでを読んで下さり有難うございます。

 (だけど2年と約2ヶ月も続けば、
  心は折れて折れた側は絶望に沈み込んで、
  感情無くしちゃいましたっ♪

  そして感情の塊は、
  周りが望む通り純粋に、
  こんなクソゴミカスなんか死んでくれと本気で願う、
  クロコちゃんになっちゃったよ♪
  感情は真っ先に失わされるから気を付けてねっ♪)

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