聖書読書記録(26週目182日間)
2023年6月25日~7月1日
イザヤ書29−1〜51−16
内容:
王国が分裂した後、
ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、
預言者イザヤが見た幻。2週目。
ヒゼキヤの時代の、
アッシリア王センナケリブの攻撃は、
「列王記」「歴代誌」で見覚えがあって、
読み直してみたら確かにそっちにも、
イザヤの名前が出ている。
ざっくり感想(実にざっくり):
アッシリア、エジプト、エドムが神の審判にあって、
センナケリブが倒れてヒゼキヤの病気は治ったけど、
バビロンから征服される事が預言される。
間違ってたら相当にごめんなさいだけど、
「神」の総合的なイメージってほとんど、
イザヤ書によって作られたような気がする。
「わたしが主、ほかにはいない。」
と繰り返し繰り返し語り、
偶像崇拝や他の神への信仰を非難し続け、
自らの偉業を誇り続ける神。
だけど、本当にごめんなさいだけど、
イザヤさんが神の一人称で書いているのよね?
いや。悪いとは言わない。
何せイメージが一貫していて分かりやすい。
多分原語を朗読したなら、
耳で聞いた際のリフレインも美しそうな気がする。
しかしてこの文書を元に
「神はこう言っておられる」と、
説教までならともかく、
精神的虐待を受けても当然とされてきた事を思うと、
おのれらにその資格はあったのか?
とは思う。
かなり否定的に思う。
わりかし都合の良いところだけを、
抜き出して勝手な解釈できそうなんだもん。
そして子供たちの素朴な疑問や素直な理解を、
「勝手な解釈」として非難できそうなんだもん。
個人的な好みかもしれないが、
またモーセとかと主との、
対話表現の方が「主の言葉」として納得しやすい。
ところでまだ続くよ。