『張山光希は頭が悪い』第21話:秘すれば花
第1話(末尾に全28話分のリンクあり)
(文字数:約7000文字)
第21話 秘すれば花
近所のお寺で御住職のお話を、聞かされた直後は、
「世の真理を、人の身でって……、どうすんだ?」
余計に悩みが深まったような気がしていたけど、
「大丈夫」
光希はそこからニコニコ顔になった。
「御住職のお話も聞けたし、薫が色々資料とかお寺ごとの和歌とか集めてくれたから、僕にはしっかりイメージ出来てるから唱え切れるよ」
それなら、って事で、御住職の話を聞いたのがまだ二月だったから、三月の、卒業式の後部室に部員たちと、林さんと真垣さんにも来てもらって、とりあえず一度やってみようという話になった。卒業して次に会うのは全国大会ってのも、二人には不安に思わせたままになりそうな気がしたから。
やってみたら光希の声は確かに動きやすくて、俺の方の準備は、歌詞と音符をひと通り頭に入れたくらいだったけど、そんなに難しい歌詞じゃない、というより難しく感じるのも易しく感じるのも、聴く人次第な気がして、深くは悩まずに光希の声の伸び方や上がり下がりに感心していた。急にとんでもなく跳ね上がる音とか、震えたり震えよりもゆっくりと渦を巻くような「飾り」が付いていたりするんだ。この楽譜。
「どうだった?」
と振り向いて見た部員たちは、互いに顔を見合わせて、
「良いんじゃない?」
「うん。多分。良いと思う」
「俺たち正直舞とかよく分かんないから、はっきりどこがどう良いとか、上手く言えないけど」
っていまいち歯切れが悪かったけど、方向性としては間違ってなさそうだと思った。
「これが最終形態じゃないんだろう?」
と部長が言ってきて、
「うんっ。ここから当日に、合わせ込むからっ」
光希はニコニコ顔で答えていた。
「恐ろしいわね」
と真垣さんは言ってきて、不安を減らしてくれるほどの出来じゃなかったかって、残念に思いかけたけど、
「これよりもっと上が存在する事を、二人とも分かり切っているところが」
いつも通りの無表情で、この人には最大の賛辞だと分かった。
「張山部長が本っ当に、小石川を愛している事はよく分かるわ」
カナツカが呆れ半分に言ってきたのはともかく、それを聞いた光希が「えへ」と笑っていたから、
「光希から愛されてるなら大丈夫か」
って頷いたら、今度は飯田と中橋と林さんから言い倒された。
「入籍寸前かお前たち」
「さては全国大会もハネムーン気分だな」
「夫婦の営み見せつけられてんのか俺ら」
「悪いけどトリッキー過ぎてヌケねぇよ」
最後の中橋のフレーズは、男性陣からしたらそこまでキツい下ネタでもないどころか、変な流れになりかけてたのをある程度救ってくれもしたんだけど、
女子たちからしたら有り得ない発言だったみたいで、「最低!」の集中砲火を浴びていた。
呼び出しを受けた高校生二人の、特に舞い手が舞台の中央へと歩み出た途端、会場になっているお堂の入り口近くにいた僧侶は、そうした指示は一切受けていなかったにもかかわらず、正面の大引き戸を音を立てないよう、細心に気を配りながら引き開けた。
この空間だけに留めておく事は出来ないものに思われた。
天地のまことを讃え奉る 御和讃に……
時節の花、が存在する事は、世阿弥もこれを認めているところである。
花はくれない 葉はみどり
皆これ真如の 御姿ぞ
技能を極め尽くし永遠性を獲得した、「真の花」ではないものの、その時その場の時宜にことごとく適い尽くし、咲き開くべきその時を知って開く花。
小石川薫はその日のその時間、自ら知らずして美しかった。
峯の松風 谷の音
ひとしく法の 声ぞかし
とは言え身はただ咲き誇るに任せ、周囲の耳目を当てにしない事こそ、この花の第一要件ではある。
子供とはもはや言い切れないが、未だ大人に成り切ってもおらず、女と見紛うようでいながら、見紛い切れないほどには明らかに男であり、親の枝葉にかろうじて繋ぎ留められてはいるものの、花の色味に咲き開く力は自前のものだ。
浄く妙なる 法の身は
三世を超えて 永久に
更に言えば陰陽にも合していた。午前中の陰の頃合いに陽の音曲でありながら陰の歌詞、午後の陽の頃合いに陰の音曲でありながら陽の歌詞を当て、これらは舞を舞う者に必須の知識ではあるけれども、実地で押さえ切れるか否かで差が分かれる。
始め終わりも 無き道の
教えを広く 宣べ給う
観客はただ息も潜めて見守る以外に無い。
足の踏み込み一つ、手首の返し方一つ、腕の振り様に伸ばす向き一つであっても、今この瞬間を逃しては二度と目に映す事が叶わぬものだと、誰に知らされたわけでもなく、己が肌身で感じ取る。
写真にも写せない。動画として残し得ないものであると。
迷いの霧は さながらに
真如の光 あきらけく
眼を通して脳髄を灼き、心の奥深くの最もあたたかなところへと、仕舞い込まれる。死出の旅路の恐れさえも、いくらかはやわらげてくれるものだ。
こうした「花」がこの世に存在するのなら、子や孫や、子孫が目にする機会が僅かにでも残されているのなら、そう遠くないうちに去るだろうこの世は、そう呆れ果て見限り尽くしたものでもない。
あまねく十方 照らすゆえ
大日尊と 仰がるる
舞台前に並んでいた五人の審査員たちは、記録に何言も残し得ず、年長の僧侶一人が備考欄に、ただ「花」とだけ走り書いた。
花を見せ付けられた人の側は、手を合わせたとしても拍つ事を忘れる。なぜかと言えば花は何も人ごときのために咲いてなどいないからだ。むしろ無礼に思わせる。
技能の限りを修得し極め尽くした、「真の花」よりも見方によっては、神慮に適っていると言えた。
パラパラとここでも気の抜けた拍手しか、返って来なかったから、俺はさすがにちょっとガッカリしたけど、舞台を下りるまでは表に出さないようにした。
退出を促されて階段を、下り切ったところで溜め息をつく。俺の後ろの足音も床に着いたなと感じたから、
「ごめんな。光希」
と振り向いたら、光希は放心した感じで見開いた両目に、いきなりボロボロと大粒の涙をあふれさせてきた。
「光希」
そりゃ、泣くよな。光希は精一杯声を張り続けて、そっちは何の問題も無かったはずだから。
「すっ……、すごいよぉ薫っ……。僕っ……、僕だけが特等席で、ずっと見させられ続けていたんだよ……?」
「ああもう。悪かったよ。そう泣くなって。ごめんな俺やっぱもう舞えてなかったんだ」
「じゃ、なくてっ……、じゃなくてぇ……!」
俺の着物の片袖を取って、もう片方の手で顔を拭ってでも、拭い切れやしなくて顔中べしゃべしゃになっている。
「言葉でっ……言い表し切れないんだあんなのっ……。折り取って、うちに持って帰りたいけど……、僕のものにしたいけど絶対に……、それやっちゃダメなんだ。薫は僕のものじゃないから。ってか他の誰だって絶対に、誰かのものなんかじゃないからっ……!」
顔がみるみる赤くなって泣き声も大きく上がっていって、屏風の内とは言え外にも聞こえているだろうし迷惑だろうな、と思って謝るつもりで僧侶を見たら、僧侶も涙を落としていた顔を、俺に見られて隠していた。
「うわぁん。ごめんなさい! ヒトに生まれてごめんなさいぃ!」
「光希。ちょっとおい、何言ってんのかワケ分かんなくなってきてんぞ」
「僕っ……、薫が好きで、大好きでっ……、離れたくなくてずっとワガママ言ってましたぁ!」
「分かったからちょっと押さえろって。お堂中に絶対響いてるから」
「失礼」
今まで扉だと思っていなかった壁が開いて、そう言えば本堂と繋がる渡り廊下からの入り口と、ちょうど対面になる位置だなって気が付いた。入って来た僧侶を見て一瞬、林さんかと思ったけど、年齢はもっと上で多分林さんの伯父だって人。
「大丈夫ですか。張山さん」
「だいっ……、丈夫じゃないけどぉ……、やりますぅ……」
光希だけはこの後この山の僧侶たちと、集団で僧侶向けの御詠歌を、披露する流れになっている。
「薫がっ……、あれだけやって、くれたんでっ……、僕も……、僕にもきっと、出来るからぁ……」
俺の袖から手を離して、先に出て行く光希はまだ涙を拭い続けているけど、
「しっかりして下さいよ。皆さん貴方を頼りにしているんですからね」
「はいぃ……」
僧侶たちからも頼られてんじゃないか、すげぇなって半分呆れながら、屏風のそばにいた僧侶から顔は隠したまま手で促されて、俺も同じ扉から出た。
「じゃ、じゃあね。薫ぅ……。また後で……」
廻廊を光希と林さん(伯父)は、正面の大引き戸から、離れる方へ向かって行く。多分お大師さまが祀られている場所の裏側を回って本部に戻るんだろう。
俺は正面側を振り向いて、廻廊の角に立っていたおじいちゃんと目が合った。
「おお。薫や」
と筋張った手で手招きしてくる。
「悔しいわ」
紫がまずそう口にしたので、隣の母は笑い声を立てた。
会場になっているお堂までたどり着いた時に、正面の大引き戸が音も無く開いて、薫の姿が暗がりの奥に見えたから、ちょうど良いわ、ここから見させてもらいましょうと立ち止まった。
五月とはいえ当然のように二人とも、日傘を差しており、見終わって即紫は、サングラスを掛ける。
「あれで良いんじゃない。それで、あれで良いんだったら何も、『鬼』なんかいらないじゃない」
「比べる土台が間違っているわ」
母はようやくのように笑いやんで、途端に冷静な口調に変わった。
「私たちは、永遠だから」
「それもそうね」
紫は頷きつつも溜め息をついた。
父親二人に預けておいた荷物を、おじいちゃんは持って来ていて、
「大丈夫。重くなかった?」
とすぐ自分の手に受け取ると、おじいちゃんはふっへっへ、と息を抜くような笑い方をした。
「何。こんくらいは大丈夫や。じいちゃんは、まだ八十を一つ二つ過ぎたばかりで」
「だから言ってんだよ。十分心配な年齢だって」
二人並んで廻廊の正面側を、本部に向かっておじいちゃんと一緒だからゆっくり歩く。
「大体どうしておじいちゃんだけ? お父さんに俺の父親は」
「いやぁ。二人には言うてじいちゃんだけ、バスと電車でゆっくりと、先に帰らせてもらおうかなて」
「え? 光希の出番まだ残ってるよ?」
「いやぁその、じいちゃんは」
とおじいちゃんは眉の間にシワを寄せて、軽く首を振りながら顔には微笑みを作って、
「『鬼』に顔だけは合わせ切らん」
とそこだけは、すごく小声で呟いた。
「先代さんはな、知らんと顔を合わせたで、まぁだ気持ちは沈まんじゃったけれども、知った上で顔を合わせるのはじいちゃんは、かなわんなぁて、今じゃ迷信のようなもんじゃけども」
鬼と顔を合わせれば目が潰れる、とか、子供の頃から言い聞かされてきた世代だからな。テレビなんかも無かったほどの昔は、実際に目が潰れるくらいの気持ちにもなっただろうし。
「あと前もってばあちゃんとお母さんに叱られな。動画に撮れんかったでよ」
「え? 茉莉花やお父さんは?」
「全員じゃ」
「全員?」
あーぁ、と溜め息をついたのは、撮れなかったのが残念、だったわけじゃなくて、去年のお母さんの動画に文句つけてた茉莉花が「今年は私が撮るから完璧だから!」って息巻いてたくせに、帰ってから母娘でバトルだぞと思って。
「しゃあないわな。今年はあれは、不可抗力じゃ」
「通信障害でも起きたの?」
「まぁ、そないなようなもんかな。じいちゃんは近頃の技術は分からんけども」
薫に荷物を渡して、代わりにもらえる物を受け取って、疲れたので先に家に帰る、いや疲れたと言っても心配はいらん、家に帰って話したいだけや、光希の分はみんなが見て帰るやろ、
と主張するおじいちゃん一人と荷物だけを残して、茉莉花と父親二人は正面の引き戸から会場を出た。
「ああ」
と薫の父親が気が付いて、正面の階段から地面へと、下りた先には日傘を差してワンピースタイプの喪服を着た女性が二人いた。喪服はこの町では珍しいものではなく、とりわけ御詠歌を唱える人たちには制服代わりとも言えるが。
茉莉花も後に続いて近寄ると、サングラスをかけた若い方の女性は、話に聞かされてはいたが目元を隠しているのに、姿勢や体型からも滲み出るほどとんでもなく美人だ。あまりにも並外れて美しくて、同性であっても羨ましいとすら思わない。
「薫の舞台には間に合ったか」
「ええ。ちょうど」
「それは良かった」
会話が聞こえている間に茉莉花は、もう一歩近寄って、
「あの、はじめまして」
と言ってみた。そこについ「あの」を加えずにいられなかった自分が、ちょっとだけ恥ずかしかった。
「張山、茉莉花です」
「ああ。妹さんね」
返ってくる声まで綺麗、ってどんだけやねん、と心の中でついツッコむ。関西気質はどうも、感じた照れとか気後れをそのまま出さずにごまかそうとしてしまう。
「中学の二年生、って聞いてるけど、しっかりしてるわね」
いえ、そんな、とかたじろいでしまう自分がどうにも気恥ずかしいので、可能であれば上手いこと言って笑いに変えたい。しかしそれが出来るほどには茉莉花は、大人でもプロの芸人でもなかった。
「え、と今日はカオちゃんの、お母さんは?」
と見回した面々はむしろ茉莉花の反応に戸惑った様子で、美人のそばに立っていた、六十前後と推察される総白髪の女性に目を移した。
その女性が穏やかに微笑んで、
「お久しぶりね。茉莉花ちゃん」
と言ってくる。
「えっ!」
本当はもっとずっと驚いていたが、茉莉花は表に出すのを憚った。前に顔を合わせたのが去年の七月上旬、夏休みに入る直前で、そこからまだ一年も経っていないのに、老けた、どころではなく声も変わって全くの、別人に見える。
それは上品そうだし見た目の年齢の割にお綺麗とも言えるのだが、言ってしまえば、普通の人だ。
「ごめんね」
なぜか自分の父親が謝って、
「その、何て言っていいのかよく分からないけどやっぱり、大変だったね」
薫の父親が微笑みながら首を振った。
「いや。大丈夫だ。前々から分かっていた事だからな。思っていたほどつらくない」
全くつらくはないなんて、ウソはつけない人なんだなと、それぞれの微笑みの内に微妙な空気が流れた。
「かなりホッとしたところもある。とりあえず幸の役目は終わってくれて、義父の代よりはこの先も、余裕がありそうだ」
とは言え二人並んだ夫婦は傍目には、夫婦であるとは思われないだろう。そんな夫婦もあるかも分からないが、一世代分二十歳は違って見える。
「ガッカリされるんじゃないかって、心配してたけど」
「俺の側から見た目だけを気に入ったわけでもなかったからな」
薫の母の言い方も正直で、お世辞が言えない人たちというより、言っても意味の無い家なのだと分かった。
着物と袴をジーンズとダークグレーの長Tシャツに着替えて、添え髪を外して両側の目尻と唇から、紅を拭い取ると、自分でもしっかりと何かしらの、魔法が解けたような気がした。もう今朝のおばあちゃんたちに会ってもキャキャー騒がれないどころか、皆が観た舞い手とも気付かれなさそうな感じがする。
着物を丸めて納めたバッグを、またおじいちゃんに持たせるのは心苦しくもあったけど、
「ええ。ええ。大丈夫や」
と繰り返されるから、あまり心配して見せるのも悪いような気がした。
本部の奥の方にあった庭園には、ピンク色の花が咲き誇っていたのに、本部の正面側から出た外は、門扉に石像に石碑が並んで砂利が敷かれた、堂々としているけど無機質で、どうして表側に少しくらい花を移さないんだろう、という頭の中の疑問には、どこかから、敬意を表すために隠される、という答えが返ってきた。
本部の正面から見える大きな駐車場から、大型の観光バスが次々と発車して行く。まだ昼の二時を少し回ったくらい、だけど、遠くから来た人たちはこの時間くらいからじゃないと、今日一日のうちに帰れないんだなって、林さんの話を思い出していたら、
「薫や」
と声をかけられて、振り向いたらおじいちゃんが俺の肩に、筋張った手のひらを乗せてきた。
「よぉ、舞えてたで」
いや。お世辞とかいらないよって、はにかみそうになったけど、間近で見合わせてきたおじいちゃんの目はちょっと白内障も入ってきて、淡く濁っているのに不思議な色味で、力強く感じた。
「薫は、ええ子や。本当に、本当の意味でええ子やで。困った事に本当にええもんの前では人は、言葉を出せんからな。若ければ若いほど、ただ出すべき言葉が分からんのや」
方言で聞いた時の方が誉め言葉は耳に入りやすくて、ちょっと魔法使いの呪文みたいだ。
「本当の、血の繋がった曾孫やないけども、じいちゃんは薫が曾孫でおってくれて、誇りに思いよる」
肩から外した手のひらで俺の左頬を撫でてきて、ザラザラボコボコしたシワや筋の感触が、不思議とあたたかくて心地良かった。
「家に帰るまで気を付けてね」
声を掛けると大きく頷いて、駐車場そばの路線バスのバス停に向かって行く。きちんとバスに乗り込むところまで見届けたかったけど、会場になるお堂で光希の出番が近付いていた。