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嗜みには孤独が要る
真実に「百害有って一利無し」であるならば、
その根拠を示し法令に基づいて禁止とすべきだ。
毒でしかないはずのものを野放しにしておくのは人倫に悖る。
個々人の自由選択に任せられている以上は、
何かしらの効果を各国政府が認めていなければ成り立たない。
多くの国民は知らない事だと思うが、
タバコは国内においても生産され出荷されている。
我が故郷の近隣地がまさしくそれだ。
食糧に成り得ない物を、
土地が疲弊し他の作物が作れなくなるにもかかわらず、
作らされているのも貴重な収入源となるからであり、
タバコすら育て切れない貧しい土地よりは
(つまり私の故郷がそれだが)、
安定的な収入を得られ近隣を大手を振って歩けるという、
他の地域では見られない価値観の逆転現象が起こる。
どなた様が買って下さっているのか。
CMなら日々流れているのでご存知だろう。
そこを非難するつもりはない。
F1からタバコ産業は撤退したかに思われているが、
ところがどっこい主力商品を表に出していないだけだ。
主力商品が先進国中から嫌われていてもなお、
スポンサーに成り得る仕組みが、
さて如何にしてもたらされているか。
私は陰謀があるなどとは考えない。
むしろ陰謀でもあってくれたらまだ助かると思っている。
現実はどこまでも各人が、
それぞれの都合と立場に応じて動いているだけだ。
タバコを悪役へと変貌させたのは紙巻の存在である。
キセルを吸った事のある人は少ないと思うが、
火皿の小ささを思い浮かべて欲しい。
指先で丸め切れる量の葉っぱしか乗せはしない。
ひと口かふた口分を、
舌先に乗せて転がす程度の煙で、
一時間でも二時間でも気を保たせていたわけだ。
香を焚くのと大きな違いは無い。
自分の部屋など持てず、
好きな香りなど周囲に撒き散らせば迷惑になると知っている、
庶民にとってはささやかな嗜みだ。
1mgですら多すぎる。
そして多すぎれば何であっても毒になる。
食塩だって茶碗一杯分を一度に飲めば確実に死ねる。
身体中の臓器が壊れて行く過程まで痛感でき、
苦しいどころの話じゃないらしいので勿論勧めないが。
コーヒーやチョコレートをやめられない者と違いは無い。
「コーヒーやチョコレートは健康に良い。
そうした成分が発見され学術的に認められている」
といった反論が聞こえてきそうだが、
形を変えて繰り返そう。
その程度の違いしか無い。
他人が有益と認め世に広めた情報があるかないかだ。
タバコすらかつては薬効を見出だされ、
喧伝されていた事実を思った時に、
他人が認めただけの情報にさてどれほどの保証があるか。
しかも有益な成分が存在する事自体は事実だとしても、
ある一人物に対する適正量は、
その当人にしか分からない。
例えば私は、
アルコール度数5%のビール350mlで限界だ。
アルコール分解酵素が皆無では無いが少なく、
それ以上の量、
あるいは同量でもアルコール度数7%以上を飲めば、
明らかに翌日から体調を崩す。
これは独り暮らし時代に「自らの適正量を知ろう」と、
吐いた後の掃除に洗濯も当然ながら自分独りで行いつつ、
飲酒自体は好きだったもので時に欲望に負けながら、
自ら見極めた数値であり、
集団で雰囲気にも飲まれていては割り出せない。
今回私が言いたかった事をまとめると、
嗜好は個々人で決めるもの。
適正量は自ら見極めるものだ。
そして見極める際には孤独が要る。
見極めた者のみが嗜めると言っても良い。
ところで私はキセルを所有し吸ってみた事もあるが、
あくまで資料として経験してみただけの話で、
喫煙習慣は無い。
習慣は無いが、
見極めた上での各人の嗜好は尊重する。
見極めようとする過程であればある程度の失敗は容認する。
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