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『虹の女神』第5話:虹の女神

 第1話(末尾に全6話のリンクあり)
(文字数:約6700文字)


第五話 虹の女神

 空に見えていた雨雲を、追いかける向きに進んでいたのでオトの方では、ほとんど雨に当たっていない。なぜ思われていたより遅くなったかと言えば、訪ね歩いた全ての家から思っていた以上に、引き留められたからだ。
 本来なら家長か代表者、多くてもそこに家長の妻と嫡男くらいが、形ばかりか少しは上乗せした祝辞を述べるに留まるのだが、何せオトはヤケしゃんの娘である。ヤケしゃんの跡取りさんの妻である。女子供が幼な子の手を引き、乳飲み子まで腕に抱いて、少しでも笑顔を見せ言葉を掛けようと、家の内から次々飛び出し集まって来る。
 男どもは正直なところそれほどとも思っていないのだが、女達にとってはただ卵一個に受け取れるお金が、どれほど有り難いか。決して口になど出せなかった話を、聞いて頷いてもらえるだけでも、どれほど胸の内が楽になるか。
 何より身に孕んでしまった命を、その存在を、誰にも悟られないうちに、殺さなくても良いのである。娘から姉妹から打ち明けられた場合に、殺してくれるよう涙ながらに諭さなくても良いのである。三百年もの長きに渡って、もしかするとこの土地に移り住むよりはるか昔から、自分達を、罪ある者と認め自ら隷属されるべき立場に追い込んできた、絶望を恐怖を、ただ自分達の胸だけに押し留めなくても良いのである。
 表立って口になど出されはしない事だが、実質的に多神教で言うところの神であり、感覚的には宗教改革に等しい。
「いやぁ。参ったねぇ」
 とさすがに疲れてはいるものの、桂壽の母親の顔は笑っている。我が子の、それも良い側の評価など、日頃ここまで集中して聞かされる事は無い。
「長老さんな大丈夫ですか」
 杖を付いた老人が同行している事も、もちろん歩みを遅らせている。
「大丈夫、じゃ、あいけども、まさかこがんにまで掛かってしまうとは」
 日の傾きを見て長老は、眉をひそめ、
「だいぶ待たせてしまいよるごたる」
 早めようとした杖を、隣からオトが支え持った。
「ゆっくりで、良かです。きちんと待っとって、くれよらすけん」

 晴れた日には草の香りが心地良い、日当たりも良く開けた土地を、この村ではなぜか墓地として、御先祖様のために明け渡している。今は空き地である分も、子孫達のための予約席だ。
 家別れの儀に使われる、実家の見立ては、その空き地部分に建てられていた。
 桂壽にフサ、次いで真純にツタが外に出た時には、花嫁の姿は墓地に向かう道を進んでいるところで、花嫁とは真反対の方角にある、用水池からはヤケしゃんと幹雄が戻って来た。
 弟は心なしかすっきりした表情に見えた。どういった話をされてきたかは分からないが、隣に並んだ時に、
「おめでとう」
 と聞こえた。
「ああ。ありがとう」
 返しながら目をやった顔は、多少うつむき気味だが逸らしてはいない。
 墓地に向かう道を折れ草地に入って来るオトの、足元が雨でゆるんでいるのだろう、桂壽の母に手を借りながら近付いて来る。白無垢に白絹の角隠し、白粉を乗せた中で唇と、くりんと丸い目の縁を飾った紅が際立つ。
 花嫁姿は実のところ、花嫁のためのものではない。花嫁には見えてなどいないのだから。
 その姿を近くから、誰より思いを込めて見詰め、はっきり言葉にはしなくとも胸の奥の最も繊細な所に、仕舞い込んでおく者がいる。人によってはおそらく、生涯に渡って。
 草地に入ってからは杖を突く長老の方が先に家に着いた。
「雨の、中にまで降り込んだけども」
「なん。構わん構わん。そいよりほれ、婿さんは、花嫁ば迎えに行っちぇやれ」
 そんな次第は知らなかった気がするが、戸惑いながらも桂壽は歩を進めた。どうやら迎えに行かせるために、花嫁はゆっくり歩ませているようだ。
「さぁて」
 と長老がしわくちゃの両手を揉む。
「どげん『嫁誉め』ば聞かしてくれるじゃろかい」
「何じゃ? 『嫁誉め』?」
 桂壽の父には初耳だが、ヤケしゃんはここ二十年の間に、先代の長老の話も聞かされている。
「花婿は花嫁より先に声ば出して、花嫁ばそいはもう、誉め讃えつらかす言葉ば聞かせんばならんて」
「な」
 父の横で、聞いていた長男が吹き出した。フサにツタもそれぞれのやり方で、笑いを噛み殺している。
「何じゃそがんとは、オイは聞いた事も無かぞ」
「そいはそうじゃ。元の家ば離れて暮らす者の、仕来たりじゃいけんな」
「誉め讃え具合で新しか家での、暮らしぶりが良ぉなるもんかどうか、占わすごた」
「花嫁が先に声ば出したなら、終いじゃな。その家には不幸が起こる」
「元はイザナギイザナミん話のごた」
 と本好きの真純は呟いたが、
「何じゃそいは。イザ、イザ?」
 残念ながら真純ほどに知識を持った者が、この村にはいないため、父親は突如降って湧いたような得体も知れない不幸の条件にうろたえている。
「桂壽もそがん事はなん、知らんとじゃなかか」
「そいはそうじゃ。前もって言い置きよったら占いにゃならんじゃろ」
「そがん言うてもアイツが、誉め言葉なんぞ……」
 などと話している間に、近寄って来る花婿を見上げたオトが、
「あ」
 と家の前に立つ者達にも届く声を上げた。
「虹」
 あああ、と項垂れた父親の隣で、長老はにこにこと手を擦り合わせるように叩く。
「ああ。虹ん出たなら息災じゃ。婿さんが後はどげん事ば言うたってん、吉祥になる」
「何じゃ。適当くさか占いんごたるないどん」
 と花婿の父は呆れ、
「どがんあっても良か話にしときたかとじゃ」
 と花嫁の父は頷いた。
 オトの目線をたどって振り返り空を見上げた桂壽は、
「ああ」
 と色味を胸に残しながら、オトに目を戻した。
「そうじゃな。オトちゃんは、ちょうど虹んごてしとる」
「虹?」
 母親はオトの影で吹き出しそうになったが気を遣った。
「日の照った時にしか、見られんよ?」
「そがん思えよるばってん本当は、日の光ん中に、ずっとおるとじゃ」
 オトだけがくりんと丸い目を、じっと桂壽に向けたままで聞き入っている。
「義父しゃんに、オイの家の者に、多分、今家ん中で待ちよらす義母しゃんも、みんなの気持ちの中にずっとおる。みんなが姿ば見たがって、見つけたなら喜ばす。そいけん、虹んごとしとる」
 丸い目が一回、瞬きすると同時に、
「はーぁあ」
 とすぐ背後で兄姉の溜め息が揃った。
「珍しさ。桂壽が詩ば書く人んごと」
「顔といっちょん合うとらんよ」
 近付かれていた事も聞かれている事も気付いていなかった桂壽は、珍しく赤くなる。
「オイはっ……、ただ思うた事ば言うただけで……!」
「思い切れてそんまま言え切れるところが、小憎たらしかなぁ。花嫁ん父としては」
「義父しゃんまで……!」
 にこやかな笑みと共に、太く編まれたつなの端を差し向けられた。
「もう、倒すとですか?」
「早うに済ませた方が良からしか」
 雨漏りから守る必要も無かったか、と思いかけたが桂壽は、綱を握った。
 背を向けてヤケしゃんは家に戻り、表戸の布をめくって内側に入った。桂壽の父に、真純と幹雄も中にいるらしく、長老と、女達は外に出て少し離れている。
「照らしてくれると?」
 隣からオトの声がした。
「いや。オイにはそいは、やれ切らん」
「うん」
「全部は無理でもなるべくなら、雨に当たらんくらいにしか、多分」
 握った桂壽の手の合間に、オトも握る手を添えて来る。
「そうやね」
 長老から、合図を送られて桂壽は、覚えさせられた文句を声に出す。
「ほぉいぇかい!」
 隣でオトが繰り返す。
「ほぉいぇかい!」
 この土地に移り住む以前、三百年より昔から伝わってきた文句らしく、今は村の者達にも、何となくにしか分からない。
「あっちょしかいぇーによりゃすっど! かたがた、もりきてたもれ!」
 二人が綱を引くと同時に、家の内では綱を結び付けた大黒柱が、身内の男達の手によって押し込まれる。すぐさま倒れてくれるほど、縁起が良いとされるらしく、要は後の定番となるケーキ入刀、夫婦初めての共同作業というものを、この日のこの村では「家を倒す」という形で行っていた。
 倒れた家を前にして、桂壽は額の冷や汗を拭う。
「よぉ分からん文句ば口にせんばとは、何がなし恥ずかしかったな」
「そがん? よぉ分からんけん呪文のごたって、気にならんかったよ?」
「そいはオトちゃんは最初のひと言だけじゃもんば」
「一番意味の分からんひと言やかね」
 家の名残から這い出て来た男達は、出て来た順に長老から、お清めと思われる水を掛けられた。
「本物の家ば倒すわけにもいかんけんの」
「わざわざ倒さんでも良かごてしとるけども」
 そう父親は呟いたが、
「本物の家ば倒すわけにもいかんけんの」
 全く同じ言葉を返されて鼻白む。
「長老どんは大丈夫な? しっかりしてもらわにゃまだ婚儀のあるとに」
「今んとは繰り返しじゃなかぞ」
 ヤケしゃんの言葉に長老は頷いているが、父親には意味が分からない。

 婚儀は身内だけで執り行い、村全体が他の何よりも楽しみに心待ちにしているのは、その後の宴の、とにかく酒だ。
 涙を見せる者に対するよりもはるかに忌々しいほどの圧力をもって、この村では、酒が呑めない者は男ではないとされている。酒を酌み交わしてこその友情、注がれた酒を飲み干してこその礼儀であり、他所での道徳常識など、意に介さない。
 お燗を付け冷やも整え肴を作り、立ち回っては吐き戻しに粗相まで清めてくれる、無言で無表情の女達すら目に映らないほどの無体になる。
 この村に生まれ育った者として、桂壽もこの有り様は見慣れているものの、隣に座るオトに心苦しい。オトも女達の手前いたたまれない。酒は悪とまでは言わないが、過ぎれば何であれ毒だ。
 今日は花嫁の父として徳利を向けられ続けている、ヤケしゃんは実を言えば、下戸で、嗜む程度には呑めるのだが、この村の男どもの中では下戸のようなもので、火傷を身に負ってからは更に呑めなくなった。常に身体には負荷が掛かっているのだから、酒を消化できる余力が無い。
 そろそろどうにかしなければ、と桂壽が気にし出した頃合いで、寄合所の玄関側の襖が勢い良く開いた。
「あんた!」
 オトの母親、シエが座の中央を大股に突き進んで来る。
「いつまで酒かっ食らってんのさ! とっとと帰るよ!」
「あいたこら、シエの来てしもた」
 日中を出歩かず、皆も声を掛けず見ようともしないはずのシエが、確かに村の中にいる、と誰からも知られているのは、寄合の度にヤケしゃんを、こうして連れ戻しに来るからだ。
「ちょいとこん、一杯だけ」
 となおも盃に口を付けようとするヤケしゃんに、掴み掛かり座布団から引き剥がし、襟首を引き摺るようにして去って行く、というのが定番の流れではあるのだが、
「今日はシエさんにゃ何も言え切らんじゃろ」
 この日はシエの前に立ちはだかり、ふんぞり返る者達がいた。
「そうじゃ。今ん今まで娘もほったらかして」
 座興めいたそぶりをやめ笑みも消した義父が立ち上がり、桂壽も後に続いた。男どもの溜まりに歩み寄り手を伸ばそうとしたところで、
「うるさいね! どいつもこいつも早撃ちの、豆粒揃いが!」
 切れ長の目を吊り上げたシエの罵声が響き渡った。
「シエ……!」
 土地の訛りではないので村の男どもは、ぽかんと今一つ反応出来ずにいるが、ヤケしゃんは吹き出した口を押さえて身をねじ曲げている。
「こっちの河岸は出払って、とっくに品切れなんだよ! 魚が食いたきゃ自力でマグロでも釣り上げるか、家に帰って大人しく、トコブシすすってな!」
「やめ……! やめてくれんかシエ、聞いちゃおられんぞオイは……!」
「ヤケしゃん一人の腹ば抱えて笑いよるもんの」
「オイたちにはよっと意味ん分からんが」
「ちょっとは分かって、おるとじゃろうが……!」
 どさくさに紛れて桂壽が、義父の腕を引き、その手に義母の腕を取らせたところで、
「みんな。ちっと、良かか」
 桂壽の父親の声がして、振り向けば桂壽のすぐそばに、オトも来ていた。
「おお。花婿の父の出た」
「言うちやってくれんなワイも。今夜はヤケしゃんば帰すわけに行かんども」
「いや。嫁ん側の一家はこん辺りで、帰してやらんかて。言うたなら、今夜は、ほれ、今からが」
 酒に酔った赤ら顔の男どもが、揃いも揃ってにんまーぁと、相好を崩した。これがまた酒の肴には、猥談が大好物な連中で、卑猥な冗談を浴びせ聞かせてこそ言祝ことほぎと信じているところがある。
「あいたこりゃそいは失礼した」
「そうじゃった今からが。今からじゃなぁ」
「大丈夫な婿どんな。やり口は知っとっとな」
 自分に向けられるだけならまだしも、オトが聞かされるのは堪えられない。それより今以上にほんの少しでも、オトを素材にされたくない。赤くなって逃げる夫婦に座は大哄笑だが、知ったことか。襖を閉めて出た廊下のなんとも心安らぐことだ。
 土間で立ち働く女達の内、数人が笑顔を見せ手を振ってくれる。今手が離せない者達も祝辞なら昼の内に伝えてある。ひと足先に玄関に出ていたシエに、
「母ちゃん」
 桂壽からは、手を放してオトが寄り添いに行く。
「大丈夫?」
 きっと表戸の外には義父がいて、三人で様子を気遣いながら帰るだろう。
「あ。ありがとうございます今日は。本当に」
 出て行くオトの声と入れ違いに、フサとツタが入って来た。ツタはいつも通りの笑みを浮かべ、フサは珍しく気落ちしている。
「二人の、呼びに行ってくれたとか」
「うん。ヤケしゃんからこそっと、頼まれて」
「ツタの、ずいぶん強かった」
 発作が起きているシエを、目の当たりにして哀しくなったのだろう。見てみない事には言葉だけでは、引き出されにくい感情だ。
「あたしは、ちょっと……、見ただけで後は、オロオロして……」
「話の、出来るごとなかったろ。時々あがんならす」
「そいけど『ヤケしゃんの、待っとらすよ』て言うてやったなら、シャキッとならして、いつもんごと。ちっと、面白かごてあった」
 ツタは変わらずのんびりした口調だ。
「桂兄ちゃん」
 わずかな合間でもゆったりと、歩を詰めて来る。
「大変かて思うけど、がんばってね」
「ああ。分かっとる」
 は、とフサが溜め息をついた。
「ほんっ……にあんた達は子供ん時から、もう見とって気持ちん悪かごと仲ん良かね」
「年の、近かもん。姉ちゃんも、真ぁ兄ちゃんとは仲ん良かやん」
「ああ。あいはただうっとしか。後ば付いて来るばかりで頼りん無かし」
「こん村で家長ばやる分には向いておるごたる」
 フサの扱いを心得てきた者だ。大抵の相手はのらりくらりとかわし切れる。
「あたしが男に生まれておったなら、こがん村くらい、ちっとはマシなもんに変え切れたとに」
「そいは私もそがん思う」
「みんながそいは思いよる」
 嫌味でも世辞でもなく世が世なら、そうした事にもなっていたと思っている。
 ところでいつの世にも聞かれる話だが、花嫁という者は、婚儀の日は朝早くから一日中気を張った、気疲れの連続で、花婿がいそいそと、胸に股間をふくらませつつ二人の床に忍び入ろうとする頃には、どれだけ声を掛けても揺すっても、一向に目など覚ましてくれないほどに、寝入り込んでしまっているものだ。

 泣き疲れて寝入った勝樹しょうじゅに、外套を掛け、すっぽり包まれてしまった様子に微笑みながら桂壽は顔を上げた。泣き疲れてこそいないけれど、右側から寄り掛かって来るマツエも、向かい合わせに座るオトに抱かれた潤幸ひろゆきも、オトの隣に座る義母も、くたびれ果てた末のようやくのように皆が、寝入り込んでいる。
 列車の窓の外は暗く、何も見えずにいてくれるならまだしも、自分達の今の姿が見せしめのように、映り込んでいる。
「なるべく雨には当たらんごて……」
 口にした途端に片目から、意図せずひと粒伝い落ちた。溜め息を付いて拭い去り、息を吸い直して言い足す。
「言いよった者の、口ばっかしじゃったな」
 クスッと小さく聞こえたが、目を上げる事は出来ずにいた。
「全部は無理んごと初めから、言えよったやかね」
 そこまでを耳にしてようやく、ふっと笑みを乗せた顔を上げる。
「そうじゃな」
 希望といったものは語られているほどには、大きくも、美しくもなく、有るか無きかくらいのごくささやかなもので、
 それと気付けるか、気付いたその時に笑みを返せるかが問われる。


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