【小説】『マダム・タデイのN語教室』8/10の下
(10回中8回目の下:約3800文字)
「もう一度、訊くけどあなたは、動けない」
「はい。うごけない。ここ」
バツ付きの横線から2罫線分上くらいに、横棒を引いて、横棒二本の間に「5」と書いた。
「(この間は5分くらい)」
と多分ドイツ語でも言ってくる。
「ロウはどこ?」
見開きで開いていた右のページに、長い辺を横にした長方形を描いて、上の辺を枕側にしたベッドが二つ。左端の短い辺は窓。下の辺にはデスクとかクローゼットなんかの棚があって、そこからベッドまでの空間が通路。通路の右端が扉。
扉側のベッドの横、右端の壁際に丸を描いて、
「ロウは、ここ。サイショ」
それから窓側のベッドの真ん中に、描いた丸を塗り潰す。
「ワタシは、ここ。すごくイヤ、だから、オトウサンの、て、かむ、た。て、にげる」
自分の手に噛みつく仕草をしてきたから、やるじゃない、と思ったけど、矢印が通路に向かってそこで、バツ印。
「ここ。つかまるた。オトウサン、ワタシのカミ、ひいてほっぺた、たたく」
倒れたステファニーを、窓を頭にして床の上に押し倒して、
「ロウのコエ、聞こえた。だから、多分ここ」
通路の端、扉の前辺りだ。
「だけど、オトウサン、ロウのコエきかない、て、わらうた。N語わからない、た。だけど、タブン、ワタシ、もロウ、も、バカにした」
ステファニーが自分よりも、ロウに好意を寄せていた様子がもしかすると、気に入らなかったのかもしれない。
「お父さんは、どう死んだ?」
「アタマ、ない」
頭が無い?
「銃?」
D語の音声を出すと、首を振ってくる。
「ソト、チガウ。ナカ」
頭の両側で手を広げて、爆発でもしたみたいに「バン」って言った。
「ロウは、何も、していない?」
「はい」
「だけど、多分通路の端にいて、ロウからは、お父さんの背中が見える位置、で、あなたはロウを見ていない」
「ロウはおこらない」
何が? 何に? ってちょっと漢字に変換しにくい。
「ロウのオトウサン、ロウの、アタマこわした。だからロウは、おこらない、て、なかない」
ない、で終わる文章が並列の場合は「し」で続けるんだわ、って先に細かいところが気になったけど、怒らないし、泣かない、だから、何もしていない、に、つながってくれるとは思えない。それだってロウから聞いた話だと思うし、ロウが正確に、どう話したのかが見えてこない。
「ロウはおどろくた」
いや何の証拠にもならないならない。
「ロウの、コトバ。オトウサンは、しんだ。だから、ワタシはロウの、カゾクなる。ロウの、キョウダイ、チガウ。ロウの、ツマ、にする」
いやそうはなれへんやろ。いつどこのタイミングでのプロポーズやねん。
「ワタシは、カゾクのフリ、おもった」
最初に出会った時のステファニー、というよりロウの、まだ設定が固まっていない感じを思い出した。
「ロウは、ワタシ、をかくまうくれる、か、ワタシを、とじこめるくれる」
「閉じ込める?」
「はい。ロウは、おこらない。だけど、ホントウは、おこる、たい。ワタシは、ロウの、オトウサンころした、だから、ワタシを、せめるたい」
「あなたはそれで良いと言った?」
「はい。ワタシは、ソトでない。ヒトに、あわない。ワタシは、ヒトを、ころさない」
両手をテーブルの上に、固く握り合わせて、それがステファニーの唯一の、何よりの望みみたいに呟いた。
「だけど、チガウ、た。ロウは、うれしい。とても、ホントウにうれしい。いつも、アイサツくれる。カゾクの、フリチガウ、て、ホントウに、カゾクなる、なりたい、いうくれる」
聞いている限りだけどご主人、あなたが一番の利益を得ている、と言うよりもあなたしか利益を得ていないわぁ。ますます怪しいわぁ。
『(遺産)』
D語の音声を出すと、ステファニーはN語の音声で返してきた。
『遺言』
「ゼンブ、オトウサン、のカイシャ。ロウには、はいらない」
それもステファニーにはそう説明しているだけ、かもしれないし。
「お父さんは、本当に、正式に、死んだ、事になってる?」
「はい」
「私達は他所にいる、って聞かされてた」
「オトウサンはセカイ、にイエ、ある。クニ、もN国チガウ」
なるほど。国籍とか住民票とか、主な活動拠点がN国じゃない。年中毎日顔を合わせていた人でもないし、隣の家も聞いていた通りロウの名義、だとしたら、御近所にわざわざ知らせて回る事も無いか。
あら? そしたら別に解かなきゃならないような謎も、もしかして無いんじゃない?
お隣のお父さんが死にました。殺された、かもしれないけど事故や病死の可能性だって捨て切れない。何にせよ、死亡届は出されて遺言書も確認されて、息子さんに遺産は入りません、で終了。ステファニーの証言を疑うのは、専門家でもない身分で荷が重いし、犯罪者に罪を償わせないのは社会正義が、とか思おうとしてみたって、結局のところ今のこの御近所は、平和だし。
「とじこめるくれる、も、チガウ、た。ワタシは、ソトでる、て、ヒトにあう。ソトでる、も、ヒトあう、も、カンケイなかた。ワタシはうごけない、なると、ヒトころす」
いや最後の「殺す」が絶対いらない! きっとそうじゃない(だってあなたは動いていない)と思うんだけど、
言ってしまえばお父さんを殺す、と強く思ったタイミングで、本当にお父さんが、しかもいらないってその時強く思っていた頭が潰れて死んでしまったものだから(更にロウは何もしていないと思い込まされているものだから)、自分は人を殺せてしまうと、毎月動けなくなる度に、殺しているんだと思い込んでしまっている。
「動けない、は昔から?」
ちょっと悩んでステファニーは、ノートに書いた「5分」の間隔を差した。
「これ、は、あった。だけど、N国来て、すごくナガイ」
2、3日以上もかかる事は、N国に来るまで無かった。言い方を変えれば5分で済んでいたのは、ロウのお父さんから襲われた時が最後。
「どうして長くなったと、あなたは思う?」
「わからない……」
「うん。そうよね。だから、多分の話」
「タブン……」
口に出し始めたそばからステファニーの顔は、みるみる赤くなっていく。
「ワタシは、オトウサン、イヤで……、オトウサンの、ぺニス、イヤでイヤでオトウサン、ころした」
「うん」
「だけどワタシ、は……、ロウ、すきで……、ロウ、のぺ、ニス、ほしい……」
耳まで真っ赤になった顔を、両手で覆って更にテーブルに伏せて行く。
「ワタシは、ワタシが、わからない! イヤで、イヤでヒト、ころした、ソレ、ほしい……、てワタシ、ゆるせないカラダうごけなくなる……」
そちらでしたか。
近所の奥さん達は「月のもの」だって、結論付けていたけど、今の話を聞くに多分、排卵日。道理で動けない奥さんをお風呂に入れたりもしているのに、そうだとしたらご主人が気付けないわけないわと思っていたのよ。
気にしないで結ばれちゃいなさいな、って言いたいところだけどもう一つ厄介が重なっていて、ご主人はソイツが出来ないんだった。
「セツコさん」
ステファニーが顔を上げてきた。
「ワタシは、ケイサツいく」
真剣そのものだったから余計に吹き出してしまった。せっかく落ち着いてきた白い頬を、今度は不満げに赤くしていく。
「ケイサツは、きいてくれるおもう? て、きこうおもた……」
「ごめんなさい。笑ったりして、だけど、多分無理だと思う」
「ショウコ、ナイ?」
「そうね」
「ロウもそれ、いった」
どの口で言うとんねんご主人、とは思うけど。あと、警察に行って今の話を聞かせたら、捕まるのはご主人の方かもと思ったけど、ステファニーに聞かせるのはやめておいた。
「だけどワタシ、もうヒトころしたくない……」
「犬とか飼ってみる?」
「イヌ? ポワロちゃん?」
時々調子が良さそうなタイミングで、我が家を留守にしている間に、ポワロ(シーズー。メス。命名は夫)を預かってもらう事もあるから、動物好きだって事は分かっている。
「ちょっとした思いつきなんだけど」
「きく! セツコさんのオモイツクすごい!」
ノートに丸とか矢印とか、簡単な図を描きながら説明した。
「今、ロウに100パーセント、全部の気持ちが向いているから、あなたは動けなくなっているんだと思う。だから、犬とか別の何かに、30パーセントくらいの気持ちを分けて、ロウの方は、そうね、70パーセント程度に減らしておいたら、動けない、日がなくなって、つまり、殺しちゃう事もなくなるんじゃないかしら」
グート! ってまずはD語が出た。
「うれしい! それ、やりたい! だけど」
笑顔から一気に哀しげになる落差がすごい。
「イキモノ、かわいそう。70パーセント、もワタシ、うごけない、トキは」
そうね、って私も頷いた。人の生き死にがかかっている話でペットがかわいそうって、ずいぶんシュールみたいな気もするけど、そうしたところが平気な人って結局人殺せるのと大して変わらないと思う。
「そうだ!」
意外に大きな手のひらで掴んだ電子辞書を操作して、N語の音声を出してきた。
「セツコさん、これある?」
「……編み物?」
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