【小説】『マダム・タデイのN語教室』8/10の中
(10回中8回目の中:約3700文字)
お茶を淹れている間にステファニーが話してきた。
「キョウ、ロウはキッチンすごく、ソウジ」
「あらそれってちょっと失礼じゃない?」
辞書を取って多分「失礼」を調べたけど、首を傾げる。
「ロウはイエの中、キッチン、オフロ、すごくキレイする」
夫がそれをやってきたら、私は私の家事に文句言われてるみたいに思っちゃうんだけど。
「ロウは、おこらない。ワタシに、たのまない。ロウはキレイ、すきじゃない」
キレイ好きなのね、と言いかけたところに否定形が来たけど、それから先には何も続かなかったから、単に言い間違えたのかしらと思った。
「うん。おいしい」
私より先にステファニーが笑っているけど、クッキーは本当に美味しい。それを伝えたら、
「よかった。ありがとー」
ステファニーの方がお礼を言っている。
ココアを練り込んだ生地も使って、チェッカー模様を作ったり、紐状にした生地でハートを作ったりしている。「多少不格好」てどこがやねん。ご主人あんたの基準が高すぎるんと違うか?
……なんてね。嫌な奴のフリをしてハードルを下げた事くらい分かっている。
「こうちゃ、おいしい」
「うん。ありがとう」
ノートと電子辞書はお互いの手元に、重ねて置いたまま。ステファニーがカップをお皿の上に、カチリと置いてから言ってきた。
「キョウ、ワタシは、セツコさんにはなしたい、コト、ある」
「あら? 何?」
ステファニーもにっこりした笑顔のままで、私はもっと微笑ましい話題だと思っていた。
「ワタシは、しにたい」
やっぱり毒でも入っていたかしらってくらいに、紅茶が苦く感じたけど、
「しにたい。しにたい。しにたいワタシ、ホントウは、しにたくない。だけど……っ」
ひと言ごとに、声が震えて、茶色の瞳から涙があふれ出すから、かえって私の方が落ち着いて、言われている内容を把握しないとって気になった。
「ごめんなさい! ごめんなさいワタシは、ころした! たくさん、たくさんころしてまだっ……、ワタシはころす! ころしたくないだけど、とまられない!」
ノートを開いて走り書きでメモを取りながら、ほとんど無意識に「止められない」って直している。
「ごめんなさいワタシは、ずっと、ずっと言いたい、た。だけど、だれに言ってだれに、分かってくれる分からない! ごめんなさい。だれか、とめるたい。とまられない、なら、ワタシ、ころされる。ころされたいワタシは、ころされる、がタダシイ!」
「正しいって事だけは無いわ」
口に出すとうつむいて泣き続けているステファニーが、顔は上げないまま首だけを傾けた。
「なんで、殺す?」
最後の音を意識して、飾りは落としながら訊いてみる。
「わからない……」
動機が無い、か不鮮明。となると次に訊くべきは。
「どうやって、殺す?」
「わからない……。ワタシは、うごかない。おぼえるない……」
方法も不明確。と言うより本人は動けない。多分毎月の、体調を崩している間。
「誰を、殺す?」
「しらない……」
相手も不明瞭。つまり無差別殺人、でなければ。
「なんで、あなたは殺したと思う?」
「ワタシは、うごかない。だけど」
握り拳で自分の、「ここ」、胸や、「ここ」、お腹を叩きながら言ってくる。
「ワタシは、にくい。ずっと、ずっとにくい。にくい、て、くろい。すごくくろい。くろいが、おおきいなる、たくさんおおきいなる、て、ソト、にでる」
「あなたは、動けない。それは、間違い無い?」
「はい。だけど……、おおきい、くろいがソトにでて、ころす。アサ、おきる。うごけるなる、て、テレビみる。ヒトしんだ、みる。ワタシがころした、おもう」
そーれーはーなーいーわー、
って笑い飛ばせるような状況だったらどんなに気が楽かしら。ありえへんありえへん、って私の中の故郷方言が、突っ走りそうになるけど、ステファニーは、本気で、自分が殺したと思っていて、本気で思い込んでいる人にはN語話者同士だとしても、どう説得したって伝わらないのよ。
正面から「それは思い込みですよ」って言ったって、かえってかたくなになる、となると、
「何が、憎い?」
周辺情報から聞き出していくしかない。
テーブルの向かいでうつむいたまま、落ちて行く涙を拭いながらの答えが返ってきた。
「ロウ……」
もっと、相手がしっかり話し出すまで待とう、待たなきゃって考えも頭にはあったんだけど、
「ロウが、何かしたの?」
口から飛び出す分に負けて、
「あなたに何か悪い事を……」
「ナイン!」
即否定された。
「ロウは、すき! すごく、とても、すき!」
うん。そうよね。頭ではきっとそうだろうと、分かっていたつもりだったんだけど。
「もっと、もっとしりたい! もっと、ロウのコトおしえ、られたい、て、もっとたのむ、られたい! あいしたい! もっと、もっとたくさん、あいしあいたい! だけど……」
上げてきた瞳が涙で光って見えた。
「ロウはぺニスない」
うわあ。
一瞬時が止まったみたいな衝撃を受けた。
「ロウの、オトウサンわるい! オトウサンが……、ロウの、アタマ、もぺニス、もこわした!」
それはキツイわあ、って頭じゃなく、脊髄とかで理解した。具体的にどれだけの、どういった問題が生じているのかまでは分からない、詳しくも聞き出しにくいけれど、とりあえず、出来ない事は分かった。
「ロウはかなしい。ずっとずっとかなしい! だけど!」
握り拳がテーブルを叩いて来てビックリしたけど、
「ロウのオトウサンはぺニスつかう!」
続いて聞こえた言葉の方が衝撃で、テーブルの方はそこまで気にならない。
「ロウのオトウサンはぺニス、ワタシにつかう!」
テーブルを、両方の拳でダンダン叩き続けて、ステファニー、あなたの手が痛むわよ、って今口に出して聞こえてくれる程度の怒りじゃない事くらい伝わっているし、顔立ちや、ふわふわしたワンピース着ているわりにステファニーって、手首が太くて拳もしっかりしているのよね。
「わからない! ゆるさないワタシ……、オトウサンキライ! すごくすごくキライ! オトウサンの、そのアタマいらない! ワタシは、オトウサンころす!」
ダンッ、って最後にテーブルが、大きく揺れて、お互いカップに注いだ分の紅茶はほとんど飲み干していたから、お皿に少しこぼれたくらいで良かった、とか考えて私は気を紛らしていた。
「ワタシは、うごけない、なった。て、おきる、た。オトウサン、しんだ。ワタシが、ころした」
一つ、ため息をついて緊張を逃がしてから、シャーペンを取る。
「それはD国?」
なるべく落ち着けた声を出すと、ステファニーも息を吸ってから答えてくる。
「はい」
「ホテル?」
「はい」
「そこにいたのは、ロウのお父さんと、あなた」
「と、ロウ」
メモを取っていた動きが乱れた。
「ロウもいたの?」
「ナイン」
ステファニーが少し落ち着いた顔を上げて、涙で濡れた頬をテーブルに置いていた箱ティッシュで、「ゆっくりでいい」って声をかけたから頷いて時間を掛けて拭いて、息をついてからノートを開いて、見開きのページの左端に、黒のボールペンで上から下までタテの矢印を引いた。
「ジカン」
「うん」
「オトウサンがぺニスつかう」
ノートの下半分真ん中辺りに、黒のボールペンで書き込んだ丸が、
「イヤ。イヤ。すごく、イヤ」
ぐちゃぐちゃに塗り潰されて丸そのものも、ノートの下半分めいっぱい使う気みたいに、大きくなっていく。そしてその、黒い塗り潰しの少し上に、横線を引いて引き終えた端に、大きくバツを書いた。
「オトウサン、しんだ。ここ」
その「ここ」を聞きながら、バツを見た瞬間に、身体中から緊張がごっそりと抜けて胸から上はテーブルにへたり込んだ。
「良かった……」
気がゆるんだついでに私からも、湧き出て来た涙を拭う。ステファニーは左端の矢印の隣に、バツが付いた横棒までの矢印を、もう一本タテに引いた。
「ワタシは、すごくコワかた、アイダ」
「ああ。うん。それはもちろんそうでしょうけど、何より。そこだけは本当に、何よりだわ」
夫がここにいたら「やれやれ」って、「同情は状況を正確に見極めてからにしなくては」、とか言って来そうだけど、どうしてもそういった話は被害者側に、強く気持ちを寄せてしまう。この場合の「被害者」は、ステファニーの言い方を借りれば「ぺニスを使われる」側だけど。
アホンダラが何さらしてけつかんねん(巻き舌)、
なんて故郷でも滅多に出て来ない、乱闘レベルの怒りが噴き出す事態でございますのよ。大袈裟だとお呆れになる方は、見知らぬおっさんからいきなり耳の穴に指突っ込まれる感覚を、なるべくリアルにご想像下さいませ。
よぉ知らん奴に、知っていても嫌いな奴からは絶対にイヤ! って容易に理解が及びませんこと?
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