【小説】くちじゃみせんにハローケティ
故郷における娯楽と、
方言の音楽性を表現してみた小説。
語りべだった母方の先祖が語っていたのは、
卵売りだった父方の初代先祖という関係性。
「私」と「沼のそばの家の子」が、
後に私の両親になるイメージ。
(約2300文字)
くちじゃみせんにハローケティ
思い出したところでどうしようもない光景がある。
「べん」
仏様に、夜通し捧げる太いロウソクを四、五本、立ち並べたその向こう側に見える畳には、祖母が座っている。バラけたシュロも所々抜け落ちたホウキを斜めに構え、見えもしないネジのようなものを指先で、クルクルと回して、ありもしない糸の張り具合を整える。
「べんべんべべん。べんべべんべんべん」
重なって聞こえてくるのはクスクスとした、子供達の笑い声だ。恥ずかしさに居たたまれなくなりながら私は、彼ら彼女らの気持ちも分かる。大人の、それもシワに白髪が目立つお婆さんにもなった女の人が、ロウソクに照らされて薄赤い顔も大真面目に、壊れたホウキを掻き鳴らす、その仕草に合わせて口三味線をしている。滑稽にしか見えようがない。
「婆ちゃん何も鳴りよらん」
「オイたちにゃ聞こえよらんばい」
「べんべんべべん。べんべべんべんべん」
祖母には子供達の声の方が聞こえていない。
いつの年だったか、中でもひどい悪童が、何か硬い物を投げつけ祖母の額に当たり、切れた所から血が落ちた時にだけ口三味線が止まった。悪童は更に侮辱する言葉を投げていたようだが、祖母は切れた額を拳で拭い、
「九州は、火の国」
血が付いたままの手でまた、ホウキを掻き鳴らし始めた。
「九州の女は、火の女」
べんべんべべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。
およそ人が抱くだろう様々な感情が入り乱れて、孫の私は毎年毎年、考える事も、何か物を思う事さえ放棄してしまう。
べべんべんべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。
老婆の本気の口三味線が、次第に笑い声を消し、ロウソクの揺らめきを、異様な歪みに感じさせる頃合いになってようやく、祖母の背後の襖がタンッと開き、顔を真っ赤に塗ってまだ半分近くは黒い髪も振り乱した、祖父が現れるのだ。
村に伝わるほぼ唯一の昔話。この村みんなの御先祖様の鬼退治。お盆に大人達の邪魔にならないよう集められた子供達の、夏の夜ほぼ唯一の娯楽が、
私の祖父の一人芝居と、それに合わせた祖母の口三味線だ。
いわゆる「語りべ」であったと、子孫達には伝えられているが、村の子供達の感覚を言えば、
「あの家の、頭んおかしかじいさんばあさんが、今年も変なか事ばやりよらす」
くらいのものではなかっただろうか。
べべんべんべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。
憐れ御先祖様は大鬼と共に、この村の、北西の隅にある沼に沈んでいく。私も毎年居たたまれないが、その北西の沼のそばの家に暮らしている男の子も、周囲からニヤつかれてうつむき指先の皮を弾いている。
べべんべんべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。
私から祖父母に「やめてくれ」とこぼした事は一度も無い。
「もういい加減にしてくれ」
と父親がこぼしているのも祖父母は、毎年知らん顔でいるのだから。
「他所からも、笑われよっぞみたうなか。ほれあん、沼のそばの家ん子は、あん話のせいでいじめられようごたっち可哀想に」
沼のそばの家の子から私は、直接「気にせんでよか」と言われている。
「オイが家ん者がいじめられんばならんとは、今に始まった事じゃなか」
そして声を潜めて付け足してくれた。
「むしろ鬼んせいにしてもらえて、オイが親どもは喜びよる」
村唯一の昔話が、その実祖父の作り話である事など、子供達はもちろん大人も誰もが知っている事と思っていたが、
父はちょうど代替わりした村長と共に、「御先祖様」の、戸籍に生没年を調べ上げ、鬼と共に沈んでなどいない旨を訴えた。
「あん話はウソっぱちじゃけん、誰も信じらんごと」
夏の夜唯一の娯楽は廃止になった。その頃私は既に中学生だったので、もはや集められて聴かされる機会も無く、どうだっていいくらいに思っていたのだが、祖父の調子は明らかにその夏から異様に変わっていった。
夏と言わず夜と言わず、顔を赤く塗りたくって髪を振り乱しては、口三味線を奏でる祖母も隣に連れて村中を、練り歩くのだ。
べべんべんべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。
「御先祖様は、偉かったとぞぉ。ほれ。こがんにおとろしか気持ちん悪か鬼ば、退治してくれらした」
べべんべんべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。
「鬼はおるとじゃ。気の付かんか。自分達ん内っ側に鬼ば見切らんで、お前達ゃどげんすっとな」
べべんべんべん。べんべべんべんべん。べべんべんべん。べんべべんべんべん。
「自分達に鬼ば見切らんけん、他所ん人達ばただ忌み嫌うて、うっ殺してきたっちゃろうがっ!」
「九州の女は、火の女」
たまに祖母から呟かれる人の言葉は、それだけだった。
練り歩き続けた祖父がある朝、川の中で見つかり、そのまま亡くなると村の内は一気に静かになった。祖父がいなくなれば祖母は、部屋の隅に大人しく座り、シュロの抜けたホウキも壁に立て掛けたまま手を付けなかった。
ある日母がやって来て、奇妙なほどの甘ったるい声で言った。
「おばあちゃん、ねぇ三味線が好きでしょう? 可愛かとば見つけて買うて来たけん、あげる」
プラスチックで出来た、三本の糸もプラスチックの、ピンク色の胴には歪んだ猫のキャラクターが入った三味線だ。キャラクターの横にカタカナで、「ハローケティ」と書かれてある。
祖母は明らかに鼻で笑って、
「こがんとじゃ、なか」
とだけ言った。
了