宝塚『モン・パリ』成功の社会的背景
1927年(昭和2年)の9月、宝塚で日本初のレビュー『モン・パリ』が上演された。演出家であり、オペラ歌手の岸田辰彌がパリを視察し、そこで得た感動や衝撃をモチベーションにしてできたこの作品は大きな反響を得た。1927年あたりといえば2年前にやっと日本にラジオ放送が始まった程度で、ジャズもシャンソンも馴染みがあるはずもない。しかしそれらを取り入れていながら、ラインダンスや大階段を初めて登場させた『モン・パリ』が一体なぜこんなにも抵抗なく受け入れられたのか。
この成功には当時の社会的風潮が大きく関わっていると仮定し、時代背景の面から調査し論じてみようと思う。
まず、『モン・パリ』、正式な演目名『モン・パリ〜吾がパリよ!〜』が具体的な数としてどれほどの記録を残したのか。演出時間2時間余り、幕なし16場、登場人数210人という今の感覚でいても大掛かりなこの作品は約115万もの人々を来場させた。
では大人気『モン・パリ』が産声をあげた1927年(昭和2年)にはどのような事柄がありムードを持していたのかを見てみる。昭和2年といいつつ元年は1926年の12月25日から始まったために、27年こそが正に「昭和」の開幕であったと言い切っても間違いないだろう。世界恐慌が勃発し、日本周辺でも上海で反共クーデターが起きたり中国共産党罵南昌で武装蜂起があったり、変革が行われていた年である。世界的な視点からみて、かなり重苦しく、だが熱のある時代でもあった。倣うように日本も、ある変革の時期であった。
それは流入してきた西洋文化への支持である。大正時代からの好景気をまだ引き継いでいた昭和では外国からの輸入品や舶来品を楽しむ人々が多く、それらを身に纏ったモボ・モガが登場した。単純な外見面だけではなく欧米の、良いとされる体制を取り入れ始め、女性人権が意識され始めたことが年表で察せられる。例を挙げるとするならば婦人運動家・市川房枝らによる女工福祉施設「岡谷母の家」後援会の設立、初の女性博士としての保井コノの認定だろう。つまりは、岸田辰彌のような文化人が話題の先端をゆく、率先して活躍できる、そんな風潮であった。
そう思えば『モン・パリ』が当時の日本で人気を爆発させたのも納得がゆく、ヨーロッパの息吹を取り入れつつ国内向けに作られた同演目は正に日本人の憧れであり、清廉な少女達が歌い上げるのもあって教育にも良い。突然登場したようにみせて、その実は時代をやや先取りしていたという宝塚の本領を発揮したものであった。