アリ・アスター監督『ミッドサマー』とシェイクスピア
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」チャーリー・チャップリンが遺した言葉である。はじめ聞いた時は理解ができなかったし、しようとも思わなかった。だが、シェイクスピアの演劇を学ぶうちは「悲劇」と「喜劇」という単語からは逃れられないことに気付いた。彼の作品の幕引きは必ず凄惨か幸福であるからだ。
人に一時的なトラウマを植え付ける悲劇と笑顔に変える喜劇の間には深い溝があるように思えるが、その溝は何によって作られているのだろうか、『夏の夜の夢』と『ミッドサマー』を比較しながら自分なりに考察していきたいと思う。
まず『ミッドサマー』は2020年に公開されたアリ・アスター監督によるホラー映画である。アメリカの大学生グループがスウェーデンの奥地で開かれる夏至祭へと招かれる。しかしそこは異教を信仰するカルト的な共同体であり、祭には捧げ物として人身御供を必要とされるのであった。『夏の夜の夢』の比較対象として挙げた理由は、いくつもの要素が共通するからである。例えば「若い男女のカップルが不満を持ったまま逃げるように森に入ることが全てのはじまり」であり、「まじないやジンクスが強く信じられている共同体と遭遇」する。そして「ただでさえ複雑な人間関係が、遭遇した共同体の都合によってよりややこしく掻き回される筋書き」を持つのである。そもそも『ミッドサマー』といったタイトルや夏至祭がテーマとされる時点で、シェイクスピアを知る人ならば『夏の夜の夢』から着想を得ているだろうと気づきそうなものだ。また、加えてもう一つ共通となりそうな要素は「麻薬の使用」である。『ミッドサマー』ではカルト共同体が大学生を取り込もうとコカインを飲ませて錯乱させるのだが、『夏の夜の夢』でもライサンダーとディミートリアスが媚薬でヘレナに恋をしてしまう。この媚薬は麻薬の一種であると捉えると二つの作品がどれだけ近しい舞台設定を持つかがわかる。ホラー、恐怖劇とされる『ミッドサマー』を悲劇とここで書くのは、パンフレットにアリ・アスター監督本人が同作品は恐怖劇ではなく失恋物語であり悲劇である、と明言しているためだ。
では、この二作の間にはどのような違いが見られるか。この問いを解決することがそのまま冒頭の「何によって溝が作られるのか」の答えに直結するだろう。
一つ目は「視点の違い」だ。『ミッドサマー』では主人公の表情や背景にスポットライトをあてて感情移入がしやすいように一人称視点である。一方で『夏の夜の夢』は大人数の登場人物と極端なキャラクター付けによって自分側に感情を引き寄せられないといった特徴があり、特に誰に注目することなく神の視点を揺るがすことがないまま物語が展開されていく。二つ目は「間」である。全体的なイメージとして『ミッドサマー』は何か衝撃的なことが起きた時にその出来事に関して登場人物達が理解しようとするためにしばらく間ができる、だが『夏の夜の夢』は理解しようかしまいが関係なく間をおかずに何かしら反応をするのだ。これは関西方面の芸人の漫才でボケからツッコミまでの時間がほとんど開かないことを思い出させる。三つ目は「舞台設定における現実性の高さ」。二作の主人公グループはそれぞれ新しい共同体とストーリー上で交流するが、『ミッドサマー』のカルト共同体は実際に存在する村がモデルになっている。『夏の夜の夢』では幻想的で具体的な場所とも結びつかない妖精の国が共同体として登場するのである。
以上の三点が悲劇と喜劇の間に横たわる相違となるのではないかと私は考えた。「逃げ場の有無」、「セリフの長さと数」「登場人物の掘り下げ」などが相違を生み出す要因として挙げられたが、正にそれらが適用されている例だと納得した。カメラワークによって自由に視点を移動できる映画表現と一方向からしか観ることはできないがライブとして楽しめる演劇表現はそれぞれ悲劇と喜劇どちらを作りやすいかにも繋がると考えられる。チャップリンの言葉は決して抽象的なものではなく、視点の話であったことが今回理解できた。
【参考資料】
『ミッドサマー』パンフレット
編集・発行:ファントムフィルム 発行年:2020年2月21日