小学校六年生
頻繁に更新すると豪語して、前回から約1ヶ月過ぎ去ってる・・・
ほんまに自分というのが気持ちが悪いです。
この頃はそんなことなかったなぁ・・・
そんな小学校六年生の頃のお話です。
と、その前にコーヒーだけ買ってきます。
・・・・
戻りました。書きます。
前回は確か普通の塾からいわゆる『お受験』をする、進学塾に通わせてもらえることになった話まで書きましたかね。
家の近所の塾から電車で十分ほどかかる塾に通い始めました。
それにあたり、サッカーも辞めました。
でも目立ちだがり屋な面と、いっちょかみな性格もあり、生徒会役員になるわけです。
後々聞いたらお受験をする子供たちは絶対にやらないように!という暗黙の了解があったみたいですけど、僕ぁそんなもんは知りまへん。
塾は週何回やったかな。とにかく終わりはお父ちゃんが毎回迎えに来てくれていました。
終電はある時間ですけどね、夜遅いからと仕事終わって迎えに来てくれてました。
1週間かけて習ったことを日曜日の朝からテストするわけです。
土曜日の晩は朝4時とか5時とかまで勉強してました。
それを僕よりも疲れているであろう母親が隣に付いてくれてましたね。僕がうとうとしたら起こされるわけですよ。
優しく、疲れてるの?無理しなくていいよ?
じゃなく、
起きなさい!!!!!なに寝てんの?!!おい!!
という雷です。
そりゃそうです。はっきり言って受験なんかしなければかかることのなかった莫大なお金を命削って稼いでくれてるわけですから。
このせいもあり、両親の喧嘩も増えていたように思います。
給料日になると父親が帰ってこないわけですよ。
兄弟とあと何人かでやってる自営業の大工やったんですけどね。
携帯とか普通には持っていない時代です。
ちょっと混んでるし明日も早いから今日は兄貴のところに泊まって帰るわ。と公衆電話からかかってきてました。
でも実際違うわけです。
駐車場に行くと、車の中で親父が寝てるわけです。
泣きながらオカンが連れて帰ってきていたのを思い出します。
なぜこんなことをしていたか、給料がめっちゃくちゃ少ないんですよ。
今月の給料と給料袋を渡したら少なすぎて怒られるわけです。
だからバツが悪く帰って来なかったわけです。
後々聞いたら給料と言って持って帰ってくる金額が3万円やったみたいです。
毎日朝早く仕事に行ってた給料が3万円っていうのも後々理由がわかってきますので、この話はその時に・・・
六年生も真ん中ぐらいになると、志望校の話になってきます。
もちろん私立に通うのはあまりにも高すぎる。
でもせっかく進学塾に通っているから公立の中学校に進学するのはもったいないんじゃないか。
ならば国立しかない!
こうして僕の志望校は大阪教育大学教育学部附属池田中学校の一択になりました。
進学塾の勉強は想像を絶するレベルでした。
日曜のテストの結果に応じてクラス分けされ、平日の塾で勉強しますが、僕は中ぐらいでしたかね。
で、志望校の合格率は半分ぐらいやったかな。
こうなると一応、一応私立の志望校も出さないといけないわけです。
清風中学になりました。
ここにした理由はサッカーが強い、とかやったと思います。
ここならまぁほぼ間違いなく合格はできるかなと。
でもおそらく受かっても行く選択肢はなかったんじゃないかな・・
ある日附属池田はちょっと難しそうやしかなり頑張らなあかんっぽいぞ、それはもう嫌やな・・・と思ってた僕は親父に、『清風に行きたい!サッカーが強いねんて!お父さんいい??』と聞き、『考えとく・・・』と言われなんか肩の力が抜けた僕は母親に『僕清風に行くわ!お父さんに考えとくって言ってもらえた!』と伝えました。
それがトリガーとなり、僕が知ってる中でもマックスの喧嘩がはじましました。
なんでそんな無責任なこと言うの?!
考えるって言うただけやないか!
裕樹その気になってるやんか!!
しらんがなそんなもん!!
知らんがなって、そんなお金どこにあるのよ?!
お前なぁ、前から金金金金言うてるけど、一体いくらあったら満足できるんや?!!!!!!!!!
生活できる分稼いでくれたら感謝するわよ!!!!
・・・・・・・
母の圧勝でした。
でも自分がしんどいのから逃げたスタンスがトリガーとなり(さっきからトリガートリガー言うとりますがエヴァにハマっているのでなんかそういう言葉言いたかったんです、すみません)大喧嘩になっているのを見て、あ、やっぱり僕には池田附属中学校の一択なんだ・・・ということに気付いたわけです。
心を入れ替えて勉強を頑張ります。
しかしストレスは日々たまり続け、情緒は不安定になります。
ぎゃーーーーーー!!!と泣き叫びながらジャンプを破ったりしてました。
もうご飯なんかいらない!!と拗ねて押し入れにこもり、3時間後におにぎり作ってもらったり。(これをきっかけにブクブク太っていた体型をなんとかしようと思い小食になっていくわけです)
テストまであと何日!と日めくりカレンダーみたいに姉が作ってくれたものをまた泣き叫びながら破ったり・・・
ほんまに気が狂って行きました。
もう死んで何もかも無くなったらいいのに、とさえ思ってました。もちろん本気で死ぬことなで出来ないわけですが。
とそんな中、年を超えて1999年になりました。
そうです、ノストラダムスの大予言の年です。
僕はその予言、ほんまに当たってくれ!!と思っていました。
みんなでいなくなれれば一番いい!本気でそう思ってました。
しかし予言は外れるわけですね・・・
もう闘うしかないんです。
もうやるかないんです。
ここまできたら子供でもわかるんです。
ここでまたトラブル。
受験当日が近づくということは、卒業とかそういう行事ごとも増えてくるわけです。
それを取り仕切るのが私たち生徒会役員なわけで。
学校、宿題、塾まで勉強、塾、帰って復習、そんな日々の中、行事の会議が行われました。
僕は本当に全く覚えていないんですが、なんか送る会?みたいな行事の最後に、卒業生の誰かが『ちょっと待ってください!』と叫んで先生にお花を渡す演出をしよう!という話になったみたいなんです。
学校へ行こう!かなんかでやってた演出をどうやら真似したかったみたいで。
で、同級生の父親が花屋さんの方がいたようでその方にお願いしたらいいやん!と。その子とクラスが同じやっくん(僕のこと)がこれの責任者で!となったようです。
これ僕全く覚えてないんですよ。
全く覚えていないですからなんの用意もしていない、そろそろ用意せなあかんけどあれって話どうなってる?なんも進んでないっぽい、僕がいないところでそんな話になっていたようです。
そんなある日その子の母親から半ギレで家に電話がかかってきて知りました。
子安君、花屋言うても卸しやし、急に言われても用意できないよ?!
・・・なんの話ですか?
え、いやいや、学校へ行こうみたいなことしたいんでしょ?
え、なんですかそれ?
そうです。僕は勉強していたので学校へ行こうを頻繁には見ていなかったので、そんな演出すら知らなかった訳で。
会議でそうなったんでしょ?でも子安君だけ乗り気じゃなかったって聞いたよ?
そりゃそうです、そもそも知らんからそんな演出。
結局それをしたかどうかさえ覚えていません。
これなんですよ、お受験控えてく子は生徒会役員なっちゃだめよ!っていうやつ。
はっきり言ってもう受験のこと以外なにも考えていませんでした。
当時の大親友も別の進学塾に通っていたので、一緒に試験会場に向かい、試験を受けました。
帰り道、その親友は自信があったようで、『あの問題答えあれよな?』『あっちの問題は人口何人やから答えあれよな?』と高いテンションで僕に同意を求めて来ました。
これがことごとく違ったわけです。
偏差値もそんなに結局は上がらなかったので、先生も、その親友も僕が合格するとは思ってなかったはずです。
合格発表の日も親友と親と向かいました。
もう勉強してない時期ですし、やり切ったので別にドキドキもしてなかったと思います。
大阪教育大学教育学部附属池田中学校の門をくぐり、坂を登った先で合格発表しているので上がって来てください。
さそがにここまでくるとドキドキし始めた僕のところに、塾の先生である亀倉先生(一番僕のことを心配してくれていた)が猛ダッシュできて
『おめでとうございます!』
と握手を求めて来ました。
なんと合格したわけですね。でもさ、合格発表の醍醐味・・・させろや笑
まぁいいですよ。そんなけ喜んでくれていたので。
親友は僕と塾が違ったのでその先生は知らないわけですから、おめでとう!これでまた一緒の学校やな!と言い残して合格発表を見に行きました。
落ちてました。
普通に嫌でしたけど、今思ったら無茶苦茶下には見られていたんですね笑
彼はまた違う、しっかり賢い学校に合格したのでよかったです。
そのあと合格者だけでもういっちょ抽選があったんですよ。
合格したのに抽選して真の合格者を決めるみたいな。
それもなんとか突破しまして。
これで晴れて、大阪教育大学教育学部附属池田中学校に入学することが決まりました!
残りの小学校生活はもうただのウィニングランですよ。
風邪をひいてゆっくり休んだりしてました。
大したことない風邪なのに。
その時僕はまだモテていましたので、同級生の女子が家までお花を持って来てくれたりしました。
めっちゃ恥ずかしかったですが。
今考えたらめっちゃくちゃ嬉しいし、光栄な話ですよね!
子安君はどこの中学に行くの?
んー、みんなと違うところやね。
そう言った時のその子達の顔は忘れません。
調子に乗ってるわけじゃなくて、そんな小学校生活でした。
ほら!長い!!しんどかった!!!!!小学校6年生終わり!!