#7日間ブックカバーチャレンジ【2日目】ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミンコレクション② エッセイの思想』(編訳:浅井健次郎・訳:三宅晶子/久保哲司/内海博信/西村龍一 ちくま学芸文庫 1996)
※2020年5月11日(正確には12日0時36分)Facebookポストしたものの転載です。経緯は昨日ポストご参考ください。
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【2日目】ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミンコレクション② エッセイの思想』(編訳:浅井健次郎・訳:三宅晶子/久保哲司/内海博信/西村龍一 ちくま学芸文庫 1996)
昨日予告したようにベンヤミン『翻訳者の使命』(Die Aufgabe des Übersetzers 1923)。上記コレクション以外でも晶文社版『ヴァルターベンヤミン著作集6 ボードレール』(川村二郎/野村修訳晶文社1975)にも収録されてますが、何はともあれ二日連続ちくま学芸文庫で。
本日もルール違反(?)の集合写真をぱしゃり。手元で掘り出せただけのザ・ベンヤミンズ(このスタイルで残り5日いくつもりはありません)、Kindle165円原著ドイツ語著作集ははったり背景としておきつつ(パブリックドメインなのでネットにドイツ語は転がっているよ)、その奥に若きベンヤミンポートレートの絵はがきが『来たるべき哲学のプログラム』(道籏泰三訳晶文社新装版2011)になんでか挟まっていたので飾る。こういうノべリティってなんなんですかね。これ家族写真みたいに机に飾って文献踏査中の真夜中にベンヤミンと目があって顔を赤らめたりしている研究者が世の中にはいるんでしょうかね。
なにはともあれ『翻訳者の使命』(※以下『翻訳者』)に繋いだのは、前回ハイデガー『ヒューマニズム書簡』でヘルダリン詩からの「翻訳」問題に触れたが、つまりベンヤミンもヘルダリンなんだという話。20世紀初頭ドイツでヘルダリン再発見ブームがあり、ベンヤミン(1892ー1940)とハイデガー(1889-1976)は生年見ればわかるように同世代。ベンヤミンもこの『翻訳者』の中でも他品でも触れるし『ヘルダーリン二つの詩』(1914ー15)なるヘルダリン論もある。この二人に限らずヘルダリン抜きに20世紀前半ドイツ思想ならびにドイツ文学を語ることの方がかえって難しい。そのヘルダリン復権の立役者であり、同じくベンヤミンハイデガーと同世代であり、ヘルダリン全集編纂中に第一次世界大戦で28歳で戦死したノルベルト・フォン・ヘリングラー(1888-1916)にもやがて触れておきたいが、日本語Wikipediaすらない(ドイツ文学院生がんばれ)。なお『思想としての翻訳—ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで』(三ッ木道夫編訳白水社2008)にヘリングラート翻訳論は収録されています。
さてベンヤミン『翻訳者』ですが、こちらボードレール『悪の華』「パリ風景」も独仏対訳版の序文で発表されたものなので「文学とは翻訳詩の問題」という私のテーマセットに正面からぶち当たっている。ここで前回にならって再び私が野蛮に言い切ってしまうと、ベンヤミンが言いたいことは端的に以下です。
「翻訳はその意味の伝達のためにあるではない」
リーダビリティ礼賛「超訳」出版産業全盛時代には「ちょっと何を言っているかよくわからない」系ですが、ベンヤミンはこう言い切る。「翻訳は、その究極の本質として原作との類似を目指すかぎり、そもそも不可能である」と。
この「不可能性」は詩の翻訳を実際にしてみればよくわかる。
外国語詩は絶対に訳しきれない。
意味の伝達はその言葉の「形」を殺す。言葉は透明ではないということ。「意味」中心主義者には見えない言葉の物理性が訳詩ではあらわになる。外国語詩を自国語詩(逆もしかり)にそのまま置換できないこと、そして置換できないにもかかわらず、それでも「正しい翻訳」詩ができるのだとうこと。その「正しい翻訳」とは何かといえば、「純粋言語 (die reine Sprache)」「真なる言語(die wahre Sprache)」で作品を開封すること、だとベンヤミンは言う。翻訳が目指すのはその「気圏の高み」であると。
「個々の補完されていない言語の場合には、個々の語や文の場合と同様に、それぞれの言語によって志向されるものは、決して相対的な自律性において見出すことはできず、むしろ、絶えざる変容のなかにあることになる。つまり、この志向されるものが、あのさまざまな志向する仕方すべての調和のなかから、純粋言語として現われることができるようになるまでは。そのときまで、志向されるものは諸言語のなかに隠れたままなのだ。しかしもし諸言語がこのようにして、その歴史のメシア的終末に達するまで生長するとすれば、そのときこそ翻訳は、諸作品の永遠の死後の生と諸言語の無限の活性化によって燃えあがり、たえず新たに、諸言語のあの聖なる生長を検証するのである。すなわち、諸言語のうちに隠れているものが啓示からどれだけ遠く離れているか、それがこの距離の認識のなかにどれほどまで現前しうるのかを。」
タイムアップ!日付またいでしまいチャレンジ時間過ぎてる。平日はガチの内容紹介はきついなあ不完全燃焼であるので(半分も書けていない)続きはどっかでやりましょう。まあそもそも紹介するチャレンジじゃないのでした。
なお、前回私はハイデガー『ヒューマニズム書簡』におけるハイデガーの作法を「言葉のPotenzを「翻訳」という力でこじ開けていく作業に近い」と書いたが、ハイデガーもベンヤミンが言う「翻訳者」であったと私は考えており、その翻訳という力の恐るべき気圏にヘルダリンが導いたと。こんな〆で一旦終えます。
【7日間ブックカバーチャレンジ】業界飲み会でお会いして以来懇意にしていただく元小学館取締役であり国語辞典編纂に長らく携わっていらっしゃった佐藤宏さんよりご指名いただきました。これは「読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、参加方法は好きな本を1日1冊、7日間投稿する」というもので、ルールは「本についての説明はナシで表紙画像だけアップ」&「その都度1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする」とのことらしいですが、持田は本チャレンジを変則バージョンとして本の内容説明をガチに論じ、友達招待指名も「持田のブックハラスメント」と呼ばれかねないためしません。参加したい人はどんどん参加していいと思いますよ!
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