ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 49.パールハーバーと日系人部隊
1941年12月7日(日本時間12月8日)
昭和天皇は最後までアメリカとの戦争には反対されていましたが、当時の日本は軍に仕切られていました。政府は軍を抑えるため、第40代目の首相として東條英機を任命します。東條英機は関東軍(第48話参照)の参謀長経験者でした。東條英機と言えば、よく悪い奴として紹介されていたりしますが、彼は昭和天皇から言われて戦争反対に動いています。
これに関してはいろんな本が出されていますが、マンガ形式で分かりやすく紹介されてるものがあります。戦争の歴史を分かりやすく理解したいならこれが一番かも▼
ゴー宣SPECIAL いわゆるA級戦犯 (幻冬舎単行本)
1941年、日本軍はアメリカと戦争することに決めてしまいます。宣戦布告しますが、これが上手く伝わらず、奇襲したことになってしまいます。いろいろ調べたら分かりますが、この戦争はおかしいことがいっぱいあります。
・アメリカの世論は戦争反対
・日本もアメリカと戦争したくなかった
・何度も戦争を回避する交渉が行われるがアメリカ側がこれを壊している
あと数十年したら、もっとはっきりするのかもしれません。いろいろ読んでわたくしが一番納得しているのは、ルーズベルトは日本と戦争をしたがっていたという説です。あ、ハワイの歴史から脱線してしまうのでこれくらいにしておきます。
1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本海軍はオアフ島を襲います。真珠湾攻撃と言われているので、真珠湾しか攻撃してないと思われてる方がいらっしゃいますが、違います。上の地図にあるように、オアフ島内のアメリカ軍基地をいろいろ襲っています。知っておくべきは▼
・日本軍は軍関係の基地しか襲っていない
・当時なぜかアメリカ軍空母はいなかった
・日本海軍の動きをアメリカは把握していた
アメリカ在住の日系人は収容所に入れられてしまいます
日本とアメリカが戦争を始めることによって、アメリカ在住の日系人は一気に敵国人として見られることになってしまいました。アメリカ本土在住の日系人は収容所に送り込まれていますが、ハワイは違いました。サトウキビ畑の労働者の半分近くが日系人なので、そんなことをしたら農作業が進まなくなります。で、ハワイでは、指導者クラスの日系人だけが収容所へ送られることになりました。
彼らは、まずサンドアイランドの収容所に送られました。その後、影響力が強い人たちは、アメリカ本土の収容所へ、そうでもない人々はオアフ島の真ん中あたりに造られたホノウリウリ収容所へ送られました。
ホノウリウリ収容所跡は、現在、私有地の中にひっそりと残されています。私有地なので普通では見に行くことができません。わたくしは、収容所跡を見学するツアーに2016年に参加して行ったことがあります▼
・ホノウリウリ日系人収容所へ行ってきた!
強制労働などはなかったそうですが、外の世界から隔離され(家族とも月に一度くらいしか面会させてもらえませんでした)、当然のことながら日本食なんか食べさせてもらえない寂しい毎日やったそうです。いやしかし、母国と移住先の国が戦争を始めるなんて、かなり辛いことやったでしょうね。
※もちろん、アメリカ本土では、ドイツからの移民なども収容所に入れられています。
太平洋戦争ではなく大東亜戦争です
ハワイの歴史を語るハワイタイムマシーンZなんですが、その後の歴史に大きく関わる話なのでもう少し脱線します。
日本が参戦した第二次世界大戦は、1941年12月から1945年9月まで続きました。よく見られるのがこの▲勢力図です。
日本は石油などの資源を求めてアジアに進出しています。太平洋ではなく東アジアです。実際に戦争をしている最中は、太平洋戦争なんて言い方はしていません。太平洋戦争という言い方は、戦後、日本を支配していたGHQ(占領政策を実施した連合国軍機関)が浸透させたものです。それに、日本海軍が太平洋の中心で戦ったのは1942年6月のミッドウェイまでで、その後はずーっとアジアの海岸線沿いです。
でもって、この地図も日本の勢力範囲が大きく描かれていますが、実際にここまで大きく支配していたのは本当に一瞬です。太平洋で戦ったのは、戦時中約4年のうち半年だけなのです。アメリカは日本と戦ったことをかなり正当化しようとしていますが、やっぱりおかしいと思います。アメリカが参戦した途端、この日本の勢力図はどんどん削られていきます。もともと日本は、それほどの力を持っていなかったのでしょう。
力の差は歴然だったのに、その後、ボロボロになっても戦い続けたのは日本人の根性でした。戦争なんてしないほうがいいし、わたくしは戦争反対ですが、祖国を守るため戦い続けた先輩たちのことは尊敬します。日本を守るために戦ってくれた人々のおかげで、今の日本があります。
話がそれて行きそうなので戻します。ハワイで生活している日系人たちは、追い込まれていく日本を複雑な気持ちで見ていました。特に、ハワイで生まれた日系二世たちの気持ちはもっと複雑でした。自分たちの親はなんとなく日本を応援してたりしますが、自分たちはアメリカで生まれたアメリカ人です。収容所へ入れられること自体が意味不明です。
アメリカ兵として戦った日系人たち
日本との戦争が始まった時、すでにアメリカ軍に所属していた日系人たちがいました。彼らは日系人ということで前線から外されます。日本との関係を疑われたわけです。彼らは第100歩兵大隊という名付けられました。そして、アメリカ軍は日系人を兵士として採用しなくなります。そんな風に認識されるなんて、かなり複雑な気持ちやったでしょう。以下簡単に箇条書きにします。
1942年
・5月 ハワイ州の日系人兵隊が結成される。
・6月 彼らはサンフランシスコへ配属。第100歩兵大隊がつくられる。
1943年
・2月 日系人部隊、第442連帯戦闘団がつくられる。5月から訓練開始。
・9月 第100歩兵大隊はヨーロッパ戦線へ出兵。
・1月 イタリア前線(カッシーノ)で大活躍。
その後、戦死者を出しながらドイツ軍を倒し、アメリカ兵を救いまくります。ローマを陥落させた時も大活躍しているのですが、陥落の際の行進には参加させてもらえなかったと聞いています。なんとも悲しい話です。
1944年
・6月 第442連帯戦闘団がナポリ湾に到着。第100歩兵大隊と合流。
そして、そこから先、数え切れないほどアメリカの軍隊を助けます。書ききれないので、興味のある方はこちらをご覧ください。詳しく書かれているページ▼
偶然ですが、わたくし、小学校の時にこの日系人部隊のことが書いてある本を読んだことがあります。が、当時は意味が分からず、戦闘シーンだけを脳天気に楽しんだだけでした。大人になってからちゃんと読めばよかった。もう一度読みたいのですが、タイトルは忘れました。そんなことはどうでもよくて、彼らの活躍は、第2話で紹介したアーミーミュージアムにも展示されています。興味を持たれた方はぜひ見に行ってください。
上の写真は、そのアーミーミュージアムに展示してあるものです。日本人の顔をした人間が、アメリカ兵の格好をして、ドイツ軍から奪ったであろうドイツ軍のジープに乗っています。しかも、そのドイツ軍のジープは、塗装されてアメリカ軍のマークが描かれています。
ちなみに、彼ら日系人部隊の死傷率は312%で、どの部隊よりも圧倒的に高い数字でした。どうして100%を超えるのか。それは、負傷しても戦場へ出て死傷するからです。
。。。。つづく