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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 39.激動の時代に、カラカウア死す

欧米人たちの身勝手な乗っ取り行為に、ハワイの若者が怒ります

この当時、カラカウアの政策で、ハワイアンの子孫を海外に留学させるということをしていました。ロバート・ウィルコックスもその1人です。が、ウィルコックスが帰国すると、ハワイ王国は姿を変えていました。

ウィルコックスが帰国したのは1888年。ハワイ王国が乗っ取られるようにして憲法改正したのは1887年です。帰ってきたら、いきなりハワイ王国が欧米人に乗っ取られたみたいになっていたのです。なんだこれは!と怒ったウィルコックスは、すぐに行動を起こしています。

1889年、なんとウィルコックスは、カラカウアがサインしてしまった「王の権限をなくす憲法改正」を廃止させるクーデターを起こします。昔のハワイ王国に戻そうとしたわけです。

現在、カメハメハ像が建っているアリイオラニ・ハレ(ハワイ州立最高裁判所)は、当時、ハワイ王国の国会議事堂でした。ウィルコックスはそこを占拠し、ハワイ王国の権威を取り戻すために戦います。が、敵は共和制派がつくったホノルルライフルズです。数が違います。ウィルコックスたちは、7名の死者を出し、捕まり、そして反逆罪で起訴されてしまいました。

ちなみに、こんな反乱を起こしたのに、ウィルコックスは無罪になっています。ウィルコックスを有罪にしてしまうと、ハワイ王国の中でさらなる反乱が起きるかもしれない、と、共和制派が心配したからかもしれません。

クイーン・カピオラニが病院を造ります

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この頃、なんだか悲しい話ばかりが続きますが、そんな中、カピオラニがなんともステキな病院をつくっています。現在のカピオラニ・メディカル・センターの前身となる、カピオラニ・ホーム。

このカピオラニ・ホームができた時は「産院施設」でした。産婦人科でもなく、産院やったそうです。その後、何度もバージョンアップしながら引越ししたり名前を変えたりしています。

・1884年 カピオラニ・ホーム
・1890年 カピオラニ・ホーム/ホオウル&ホオラ・ラフイ・ソサエティ
・1918年 カピオラニ・マタニティ・ホーム
・1931年 カピオラニ・マタニティ・ガイニカラジカル・ホスピタル
・1971年 カピオラニ・ホスピタル
・1978年 カピオラニ・メディカル・センター/ウーマン&チルドレン

現在は「女性と子どものための総合病院」になっています。ダニエル・K・イノウエ国際空港から、フリーウェイを通ってワイキキへ向かう場合、「Punahou St.」23番出口で降りることが多いです。その23番出口で降りた時に、いきなり目の前に現れるのが、そのカピオラニ・メディカル・センター/ウーマン&チルドレンです。

ハワイに日本の仏教がやってきます/浄土真宗本派本願寺ハワイ別院

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日本からの官約移民労働者がやってきたのが1885年。それ以降、毎年多くの日本人がやってきていましたが、そのトップ4県は、西日本でした。

・安芸、備後(広島)
・長門
(山口)
・筑前、筑後(福岡)
・肥後(熊本)

この当時の移民労働者の多くは、出稼ぎと認識している人がほとんどだったと思います。稼いで帰国するまで、頑張って耐える。その人々の気持ちを助けてくれる「お寺」の存在は大きかったでしょう。

1889年、オアフ島ホノルルに浄土真宗本派本願寺ハワイ別院が仮布教場を設けます。正式に開教を始めたのはもう少し後のことですが、浄土真宗本派本願寺ハワイ別院では1889年を開教元年とされてるようです。この頃、ハワイの総労働者の日本人比率が半分以上となっています。ハワイ日本人移民史によると、雇用費用が安いこともあって、他国人種を抜いて一躍トップになった、と書いてありました。移民労働者の中で、人種平均70%というローコストやったそうです。給料が安かったんですね。

ちなみに、ハワイに神社ができるのはもう少し後の1898年。ハワイ島ヒロのヒロ大神宮です。普通、神社といえば、布教場所になる「座って話を聞く」ような場所はありません。が、ヒロ大神宮はキリスト教会のように、長椅子がたくさん並んでいて、日本の神社とはちょっと違う雰囲気です。

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1889年に、当時の移民労働者たちの状態を表す事件が、ハワイ島ホノカア(映画「ホノカアボーイ」の舞台となった町)で起きています。

後藤濶は、1885年に市民労働者としてハワイ島入りしました。英語が話せる後藤濶は、契約期間3年が終わった後、ホノカアに雑貨店をオープン。日本からの移民労働者を助けるために、英語力を活かして活躍していたそうです。移民労働者を奴隷のように思っていた人たちからすると、後藤濶はうっとおしい存在だったのでしょう。リンチのように殺してしまいます。興味がある方はこちら▼(Wikipedia英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/Katsu_Goto

ホノカアには、後藤濶の記念碑が飾られています。

カラカウアがアメリカ西海岸で亡くなり帰ってきます

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1890年11月、カラカウアは突然アメリカ西海岸へ旅立っています。アメリカへ渡った理由はなんだったのか。

・アル中になりアメリカの病院へ行った
・ハワイ王国を救うために何かを企てに行った

でも、はっきりと書かれている資料を見つけることができませんでした。何しに行ったかちょっと謎みたいです。理由が分からないのは、そのままカラカウアが亡くなってしまうから。

サンタバーバラで脳卒中で倒れ、サンフランシスコの病院で看病されていますが、1891年1月に亡くなっています。あっという間でした。王の遺体は、そのまま船でハワイ王国へ帰ってきます。通信が発達していない時代です。ハワイ王国は、カラカウアが亡くなったことを、遺体を受け取ることで知ることになります。

ハワイ王国を守らねば、と思っている人たちにとって、これは衝撃でした。ちなみに、欧米からやってきた人の中にも、ハワイ王国を守らねばと思っている人たちはいました。が、そのトップを失い、彼らは絶望的な気持ちになったそうです。

上の写真は葬儀の様子を撮ったものです。葬儀はとても立派なものやったそうです。

。。。。つづく


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