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ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 50.ハワイはまた新しい時代を迎えます

1946年、442部隊がハワイに帰還します

1945年9月2日、日本は横須賀沖に停泊中のアメリカの戦艦ミズーリにて降伏文書にサインします。第二次世界大戦はこれで終わります。日系二世たちの第442連隊戦闘団(以下442部隊と書きます)が戦っていたヨーロッパでは、それから4カ月近く前の5月4日に終戦を迎えています。戦地での活動を終え、彼らがハワイへ帰ってきたのは、1946年のことでした。

わたくしは2000年にハワイへ上陸し、ひょんなことから、442部隊の退役軍人クラブを取材したことがあります。その頃は、日系人部隊というものがあるのは知ってる、くらいの知識しかありませんでした。飛び込みでお邪魔したら、何人かのおじいさんがいらっしゃって、明るく楽しく話を聞かせてくれました。それで一気に興味が出て、いろいろ調べ始めました。

442部隊は、アメリカでの日系人への差別と戦うために戦場へ行った、とよく言われます。前回も紹介させていただきましたが、442部隊も100大隊も、普通では考えられないくらい多くの死傷者を出しながら大活躍しています。アメリカで生まれたのにアメリカ人として見てもらえない悔しさ、辛さ、いろんなやりきれない気持ちで、アメリカのために戦いました。第二次世界大戦の映画はいろいろありますが、調べれば調べるほど、それって442部隊をモデルにしてるんちゃうか?って話がいくつもありました。

ちなみに、442部隊はアメリカ合衆国軍事史上もっともたくさん勲章を受けた部隊です。トルーマン大統領は、442部隊に対し、「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した」と讃えたそうですが、もともと差別していたのはあんたらやんか!と、ツッコミ入れたくなりますね。

その後、100大隊の退役軍人クラブにもお邪魔させていただきました。どうしてふたつあるのか。派閥みたいなもんでしょうか。100大隊はもともと軍人だった人たちです。442部隊は戦争が始まって志願した人たち。最終的に、100大隊は442部隊に吸収されてしまうのですが、それぞれ「最初に戦ったのはオレたち」「大活躍したのはオレたち」みたいな違う思いがあって、なんとなく別の退役軍人クラブができてしまったそうです。場所はこちら▼
・442nd退役軍人クラブ
・第100歩兵大隊退役軍人教育センター

彼らの活躍のおかげで、日系人への差別はなくなります、と書きたいところですが、そうではなかったそうです。取材させていただいた時に、おじいさんたちが、さらっと語ってくださりました。
「帰ってきてからもわたしたちはいろんなものと闘った」
ジーンとしました。

1946年はハワイ島ヒロをツナミが襲った年でもあります

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ハワイ島ヒロは日系人がたくさん住む町として栄えています。442部隊の活躍は町にも知らされていて、人々はとても喜んでいました。1946年1月、アリューシャン列島で地震があり、その影響で津波が発生しました。アリューシャン列島といえば、ハワイの真北です。そして、その間の海には障害物はありません。地震の影響で発生した波は、5~10mの津波となってハワイ諸島を襲いました。

ハワイ諸島の町のほとんどは、基本的に南側につくられています。が、ハワイ島のヒロは違います。北を向いた入江になっています。ハワイ全島で159人の方が亡くなられていますが、半分以上の96人はヒロでした。ハワイ島北部のラウパホエホエという半島も直撃を受け、24人が亡くなられています。ラウパホエホエには学校がありました。ラウパホエホエは、サトウキビ畑で働く日系人にとって、畑から離れたちょっとした町のような存在やったんですね。津波は子どもたちが通う学校を直撃。現在、ラウパホエホエは何もない公園のような岬にはり、そこには、子どもたちのことを書いた記念碑のようなものが残されています。

ちなみに、ヒロは1960年にも津波による被害を受けています。アリューシャン列島は真北なので理解できますが、1960年の津波は、南東のチリで起きた地震が原因でした。この地震は環太平洋全域に津波を発生させたそうです。これにより、ヒロはまたしても10mを超える津波に襲われています。61名の方が亡くなられています。

ヒロ沖に大きな防波堤がつくられているのはこういうことがあったから。そして、ヒロの海岸線にあった町は消え、町は内陸側へ移動していきました。現在、ヒロの町が内陸側にあるのはこのためです。

※海岸線の町は無くなりましたが、やや内陸にあったエリアは今も残っています。ヒロのオールドタウンがそれです。

戦後のハワイ史で忘れてはいけないが、ジョン・A・バーンズです

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戦争が終わり、442部隊は解散となり、日系二世たちは「軍人のための奨学金」を利用して学校へ通い始めました。その結果、プランテーションの労働者としてハワイへやってきた親の子どもたちが、大学を卒業してビジネスを始めたり、政治家として活躍し始めることになります。ここで忘れてはならないのがこの人です。

ジョン・A・バーンズ

モンタナ州生まれのアメリカ人です。戦争中はFBIの連絡官として、日系人の調査(要は敵国日本と通じてないか、みたいな調査)をしています。バーンズはそこで、日系人たちの特性を知ることになります。

日系人は諜報関係の事件が一切ない
・日系人は差別を受けても、まじめに一生懸命生きている

日本民族の優秀さにもびっくりしたようで、バーンズは、 日系二世たちをまとめて立ち上がらせることを考えます。記録では1948年から、ハワイの民主党をまとめる人間として活躍し始めています。

ちなみに、アメリカには2つの政党があります。それぞれが重視するポイントを分かりやすく書くと以下のような感じ。

・共和党 = 国
・民主党 = 国民

その頃のハワイは、準州なこともあって、共和党が仕切っていました。バーンズはこれをひっくり返すことを考え始めます。民主党で日系人議員たちを育て、ハワイを民主党にするのです。

1949年 日系人議員が誕生
1954年 ハワイで民主党が圧勝

この背景にはいろいろあります。1952年に移民国籍法(通称マッカラン=ウォルター法)ができ、移民労働者がアメリカ人として帰化したことが一番大きいと思います。この頃、ハワイの人口比率で一番多かったのは、サトウキビプランテーションで働く移民労働者でした。その移民労働者の多くが投票できるようになったのです。

1959年、ハワイはアメリカ50番目の州となります

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この当時、アメリカ合衆国はまだ48州の国でした。1912年にアリゾナ州ができて、それっきり動きはありませんでした。が、第二次世界大戦の影響で、アメリカ合衆国は世界を制する大国になっていました。ハワイも大きく変化しています。サトウキビプランテーションはまだ行われていましたが、観光業が力をつけ始めていました。

・1956年 年間の観光客15万人突破

まだ日本は終戦からの復興時期です。

・1952年 GHQが日本を去る
・1958年 東京タワー完成

ハワイの民主党議員たちは、ハワイをアメリカ49番目の州にすることを考え始めます。これはアラスカに負けてしまいますが、ハワイは1959年にアメリカの州になっています▼

・アラスカが49番目の州になる 1959年1月
・ハワイが50番目の州になる 1959年8月

ちなみに、アラモアナセンターができたのも1959年ですが、1955年に地鎮祭が行われていますから、これは偶然みたいです。ちなみにアラモアナセンターはこの後、どんどん大きくなっていきます。アラモアナセンターの大きさ比較▼

・1959年/約6万3,000㎡ 店舗数87
・2019年/約22万3,000㎡ 店舗数350以上

ダニエル・K・イノウエについて

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ホノルル国際空港は、2017年からダニエル・K・イノウエ国際空港という名前になっています。分からない人にはなんともややこしい名前ですが、この名前と意味も、ハワイの歴史に大きく関係しています。

ダニエル・K・イノウエは両親が日系移民である日系二世です。442部隊の一員としてヨーロッパ前線に戦い、右手を失っています。撃たれても右手を失っても戦い続けた、その時のことは、Wikipediaに詳しく書かれています▼
・ダニエル・K・イノウエについて(Wikipedia日本語)
・ダニエル・K・イノウエ(Wikipedia英語/もっと詳しいです)

ダニエル・K・イノウエの夢は医者になることでした。右腕を失ったことで彼はそれを諦め、政治学を勉強し始めます。そこからの活躍がすごいです。ハワイには、セントラル・パシフィック・バンクという銀行がありますが、これを退役軍人たちと一緒に設立しています。

そして、バーンズと知り合い、政界へ進出し、日系人初の国会議員となります。ダニエル・K・イノウエが国会議員になった年をネットで調べたんですが、アメリカのWEBサイトも含め、いろいろ書いてあって、どれが正確なのかちょっと分かりませんでした。これかな、と思うものを書いておきます。間違ってたらすいません。

1954年 ハワイ議会の議員に当選
1959年 ハワイがアメリカ50番目の州になった時に連邦議会下院に当選
1961年 連邦議会上院に当選

ダニエル・K・イノウエは、2012年に亡くなられていますが、なんとわたくし、2011年に一緒に写真を撮っていただいてます。真珠湾で行われていたセレモニーを見学に行ったら、お客さまで来ていらしたのです(上の写真右側)

ドキドキしながら話しかけたのですが、なんとも気さくにOKいただいて、めちゃくちゃ嬉しい&興奮したのを覚えています。とてもステキな方でした。

※1961年は、プレスリーの映画「ブルーハワイ」が上映された年です。ハワイが注目し始められていました。

日本人がハワイへやってくるようになります

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わたくしが第二次世界大戦の話を聞いたのは子どもの頃でした。10歳くらいの子どもにとって、1945年はとても遠い昔のことのように思えました。が、今、おっさんになってから考えたら、1945年は歴史の中ではつい最近のことです。理解すればするほど、日本の立ち直りの速さはすごいです。日本はボロボロの焼け野原からたった17年で海外旅行へ遊びに行けるとこまで復活しているのです。

・1962年 日本の海外旅行渡航自由化
・1963年 国際興業、モアナホテル購入

なんと、日本の国際興業という企業が、ハワイのホテルを買収しました。シェラトン・ワイキキなど、中心的存在のホテルが日本企業のものになったのです。敗戦国の企業がどうしてそんなことができたのか。これは、1950年の朝鮮戦争の影響が大きいです。日本は朝鮮戦争に関する軍事拠点としてかなり儲けました。戦争なんかしない方がいいのは確かですが、日本が早く復活できた理由のひとつは朝鮮戦争があったから。簡単に書いたらそうなります。

1963年には、加山雄三主演の若大将シリーズで、ハワイが舞台となります。「ハワイの若大将」です。これね、ハワイ好きなら見ておいた方がいいかもしれません。昔のハワイはほんまに何もなかったんやなぁってのが分かります。

そして、その翌年の1964年、日本で海外旅行が解禁されます。日本政府が観光目的の海外渡航を認めたのです。

ちなみにこんな感じ1▼

・第一銀行ハワイ観光団
・羽田発/パンナム機
・団体客23名+添乗員2名
・オアフ島、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島を7泊9日でまわるというもの
・旅行代金36万4000円
・この時代は$1.00=360円

36万円は当時はかなりの金額です。旅行客は旅行の3年前から毎月1万円ずつ積み立てたそうです。

ちなみにこんな感じ2▼

・当時の平均月収は6万円
・大卒初任給/平均2万1190円
・新幹線(東京-大阪間)2480円

今からは考えられない贅沢な旅だったみたいです。

1970年、往復$250.00という新航空料金が発表されました。当時はまだ、 $1.00 = 360円で固定されていた時代です。日本円にして往復9万円。当時の大卒初任給は4万961円ですから、海外旅行解禁時よりもかなり安くなりました。これにより、日本からの旅行者は前年の約3倍になりました。

こうしてハワイは日本からの観光客が増えていくことになりました。そして、世界で屈指の人気観光地として発展していくことになります。

。。。。おしまい

カメハメハ1世のことを調べた結果、いつしかハワイの歴史を書き始めてしまうことになりました。長々とすいませんでした。お読みいただき、ありがとうございます。



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