ハワイタイムマシーンZ/太平洋のど真ん中で 12.ハワイ島にキャプテンクック上陸し、食される
ヒキアウ・ヘイアウはマカヒキ収穫祭の真っ最中でした
マカヒキ収穫祭が行われていたヒキアウ・ヘイアウは、前回の記事の3枚目の写真、ケアラケクア湾を眺める駐車場の右手(東)にあります。石積みがコンクリートでコーティングされていますが、これは現代になってから補強されたもの。キャプテンクックがやって来た時は、ただの石積みでした。
このヒキアウ・ヘイアウが収穫祭の中心ですが、ハワイアンが全てこの中に入って祝い事をしていたわけではありません。カフナ(神官)がヘイアウの中で儀式のようなものを行い、マカアイナナ(平民)は周りでバカ騒ぎをしていました。
そうそう、前回の記事で、マカヒキという収穫祭は、ちょっとした乱行騒ぎみたいやった、と書いたら「本当にそんなことがあったの?」という質問メールをいただきました。でも、これは実際にあったことらしいです。
昔の日本のお祭りでも乱行騒ぎをしていた、というのも本当の話です。NHKの大河ドラマでも、収穫祭の夜の乱行騒ぎで主人公カップルが出会う話がありました。NHKなので、裸のシーンなんかはありません。かなり昔のことで、どの話か覚えてませんけど、まだ小学生くらいやったわたくしは、「どういうこと?」と、親に質問して適当にあしらわれたことがあり、頭に残ってしまいました。
乱行ではないですが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では、夜這いの風習について紹介されています。
・未婚の若い女性は、夜は離れのようなところに寝ていて、夜這いを受け付ける
・いろんな男がやってくるけど、断ることもできる
・妊娠した時、女性は夜這いに来ていた男の中から夫を選ぶ
・なので、結婚後は夫の子だが、初めての子は夫の子では無い可能性がある
こういう風潮は、海洋民族の中ではよくある話なんやそうです。
どんどん話がそれていってしまってすいません。戻します。
キャプテンクックとはどういう人やったのか
キャプテンクックがカウアイ島を訪れたのは1778年1月です。彼はそこからまず、アメリカ大陸のカリフォルニアへ向かい、西海岸を北上します。ちなみに、当時のアメリカ西海岸は、スペイン領土でした。ただ、完全に征服している感じではなくて、まだまだ未開の地はいっぱいあったみたいです。
キャプテンクックは、西海岸を北上し、ベーリング海の探索までして、1779年1月にハワイ島へ帰ってきました。カウアイ島を出発してから約1年。日本の江戸時代に、そんな短期間で動き回って帰って来たのです。これはすごいことやと思います。有能で真面目な艦長さんやったんでしょうね。
もうひとつ。キャプテンクックがハワイ島へやって来た時は50歳でした。それまでの航海で、南太平洋(オーストラリア周辺)の地理について、いろいろ大発見しています。まあ、発見と言っても、そこにはすでに先住民がいらっしゃったので、あくまで西洋社会から見て、ということになりますが。
ハワイ島で、キャプテンクック一行は大歓迎されます。ハワイアンからすれば、マカヒキ収穫祭をやってる最中に、ロノ(農耕と平和の神)が現れたのです。大歓迎して当然かもしれません。
大歓迎とはどういうことか。乱行騒ぎみたいな祭りごとの最中に、神が現れたのです。キャプテンクックたちのもとには、女性のハワイアンが群がります。船乗りたちも大興奮です。男ばっかりで、ずーっと船乗りしていたわけですから、とんでもなくハッピーやったでしょう。まさに酒池肉林!
キャプテンクック一行は、ケアラケクア湾に約1カ月も滞在したそうです。
「あれ? 真面目な艦長さんやったんちゃうの?」
と、思われるかもしれません。真面目すぎて、乗組員たちとはいろいろあったみたいです。で、ストレスが溜まってる乗組員たちを抑えるために、この酒池肉林を利用したのでは無いでしょうか。
※キャプテンクックの経歴&航海について色々書いてあります▶︎wikipedia
そして、キャプテンクックは殺されました
出港してすぐ、レゾリューション号の帆柱が折れてしまいます。冬やったから風が強くなってたんでしょうか。キャプテンクックたちはケアラケクア湾に引き返します。
ここから先の話もいろんなところに書かれています。
・ロノだと思っていた一行が、マカヒキ収穫祭が終わってから再び現れた
・しかもロノの象徴である帆が折れていた
・キャプテンクックたちはロノではないとばれた
いやしかし、帆が折れていたから、ロノじゃないと思われたと書かれているものが多いですが、そんなに単純でしょうか?
とにかく、キャプテンクックたちは、ケアラケクア湾に停泊し、帆柱を直そうとします。船乗りさんたちは、この前の酒池肉林を思い出して、ちょっとワクワクしたかもしれません。
が、ハワイアンの対応はとても冷たかったそうです。キャプテンクックたちは、船の水を補給させてもらおうとしますが、ハワイアンはそれを拒みます。そして、ロノではないと分かったキャプテンクックたちに対して、いろいろ仕掛けてきます。
よく、ハワイアンが、ディスカバリー号のボートを盗み、それを返してもらうため、キャプテンクックがビーチまで出ていった、と書いてありますが、実は前日にも盗難騒ぎがあったみたいです。かなりピリピリした感じやったんでしょうね。前日の盗難で、取り返しに行ったディスカバリー号の士官が、ハワイアンのアリイ(王族)を殴っています。そして、2回目。今度はボートが奪われました。キャプテンクックは、こんなことばっかりされてたら、帆の修理もできないぞ!と、焦ったのかもしれません。
ハワイアンから人質をとって、修理が済むまで、盗難騒ぎをなくそうとしたみたいです。が、ハワイアンは完全に怒って、キャプテンクックを取り囲みます。キャプテンクックも、これはやばいと気がつき、人質作戦を止めようとしますが、ここでキャプテンクック側の見張りが、ハワイアンを撃ち殺してしまいます。
思わず撃ってしまった、とか、よく書かれています。っていうか、世界中を航海している彼らは、何かあると、銃をぶっ放して危険を乗り越えていたわけですね。キャプテンクック側の見張りも、銃をぶっ放せば、ハワイアンはビビると思ったんでしょう。ハワイアンは、そんなことに怯むような人々ではありませんでした。っていうか、それで一気に殺気立ち、キャプテンクックは殺されてしまいます。
1779年2月のことでした。
ケアラケクア湾にはキャプテンクックの記念碑があります
ケアラケクア湾を泳いで対岸まで行くと、なんだか立派な記念碑が建てられています。キャプテンクックの記念碑です。彼が殺された場所だ、と言われていますが、この碑が建てられたのは1874年、ずっと後のことです。正しいかどうかはわかりません。
その時殺されたのは、キャプテンクックと4人の兵士やったそうです。彼らは殺されただけでなく、バラバラにされて食べられています。え?ハワイアンは人食い人種やったのか?と思いますが、ちょっと違います。
ハワイアン文化では、例えば王さまのような品位を持っている人は食べられることがあったようです。得られるものがある、と思われていたのです。戦って負けた王の肉は食べられたりしています。なので、普通に亡くなられた王さまの亡骸は、秘密の場所に埋められています。カメハメハ1世のお墓がどこにあるかわからないのもそのためです。
ハワイアンたちは、キャプテンクックたちがロノではないことは分かっていましたが、権威のある人々だと思ったのでしょう。キャプテンクックの死体をバラバラにして持って帰ったそうです。食べたかどうかは記録にありませんが、乗組員たちが、キャプテンクックの遺体を返してくれ、とお願いして、帰ってきたのは、肉体の一部やったそうです。
。。。。つづく