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やりがい搾取(死語)
やりがい搾取という言葉
最近やりがい搾取という言葉をあまり耳にしなくなった。というかでたらめだと気付いた。社会でその言葉が一世を風靡していた頃は企業が社員に過剰な労働を強いて、それに見合った報酬や成長機会を提供しないことが問題視されていた。しかし最近のやりがい事情はかつてと異なる。企業における人員配置や仕事の内容に大きな変化があったからだ。
かつては、正規社員には安定したキャリアパスがあり、非正規社員はその補助的な役割を果たすという構図だった。しかし、今はその逆転現象が起こっている。正規社員でも安定したルーチンワークをこなすだけの役割に甘んじ、成長機会を得られないという現実が広がっている。仕事のやりがいを求めるどころか、それすらも叶わない状況が増えているのだ。更には昇進ルートも手狭になり凡人の頭打ちラインがどんどん下がってきている。
かつてのやりがい搾取と現代の問題
やりがい搾取といえば賃金は変わらないけど今までより難しい仕事をしてね、といったものだった。 人件費を抑えるために仕事内容が変わってもその分の報酬は金ではなくやりがいで支払われていたといえる。
それでもやりがいが与えられていた分最近の状況よりも傷は浅いかもしれない。 最近感じているのは総合職が二分化され一方の層は低賃金かつやりがいすら得られないということだ。 かつて非正規社員が担っていた役割を一部の正規社員が担う構造への変化が起きたのだ。
やりがいを求めた若い頃の自分
就活生や新人時代の私は、「やりがい」なんてものを全く意識していなかった。むしろ、「やりがいを求めるなんて甘い」とさえ思っていた。安定した給与をもらい、生活が守られればそれで十分だし、仕事はただ淡々とこなすものであるという考え方だった。与えられた仕事をきっちりこなしていけば、それで自分の人生は成り立つと思っていた。
それから私はやりがい度外視で就職した会社から転職した。そこで中堅的なポジションに就くことになり、だんだんとその考えは変わり始めた。成長を感じられない仕事が続くと、やっぱり物足りなさを感じるようになった。与えられた仕事をこなすだけでは物足りなくなり、自分にとって意味のある仕事をしたいという気持ちが芽生えてきた。これまで「やりがい」とは無縁だった自分が、変化を求めるようになった。
脱ルーチンワークへの岐路
今の部署にいて気づいたのは正規社員でもルーチンワークばかりをこなしている層と、変化のある仕事をしている層に分かれているということだ。前者の層は給与も高く、今後の成長も期待できる。後者の層は40代50代でも新卒3年目くらいの若手と変わらない仕事をしているし給料もあまり変わらない。私の今の30代前半という年齢はその岐路だと思う。ところが簡単には切り替えられない現実に直面する。
やりがいは買ってでも見つけろ
思い返せば「やりがい搾取」なんて言葉は全くのナンセンスであった。年功序列型の会社で"年不相応"な仕事をさせられていた人の自虐風自慢にすら思える。
今の私がやりがいを得るためには、価値のある仕事を自ら見出さねばならない。それができなければあと数年で年収頭打ち、変わらない毎日、相対的に落ちていく感覚を定年まで味わうことになる。こんな想像を膨らますくらいには今の仕事のルーチンワーク的な部分にはうんざりし始めている。若いころには思いもしなかったが平凡な会社勤めの私ですら、今になってやりがいのある仕事ができることの幸せを認識し始めている。
給料ではなくやりたいことで仕事を選ぶとか、今すぐ給料が増えるわけでもないのにチャレンジングな仕事をするとか、昔は鼻で笑ってたけど結局給料にも幸せにも繋がってるんだな。