文書パラダイスのどこに座るか〜性で考える文章の向き不向き〜
こんにちは!
日ごろはツイッターで発信をしています、ひろかむと申します。
世の中には色んな形の文章がありますよね。まさに文章パラダイス!例えば専門的な学術論文、それから高校でやったような小論文、論理的な文、つれづれと書かれた文、エッセイ…(すみません、"パラダイス"なんて大風呂敷を広げた割にはこれくらいしか思いつかないです…!)
その人に向いている文章というのがあると思っています。
例えば学術論文や論理的な文章を書くのが向いている人、エッセイや気持ちを表現する文章を書くのが向いている人というのがいます。前者は知識の共有、後者は優しさの共有の為の文書だとおもっています。
なぜこのような分け方をするかと申しますと、これには"性"が大きく関わってくるという私なりの仮説があるからであります。ここでいう"性"は、ジェンダー的な意味合いもありますが、ここでは"性質"という意味も含めます。今から少しずつ説明しますね。
まず、数学者岡潔の言葉をお借りします
私には、女性は情から知へ意志が働くし、男性は知から情へ意志が働くように見える。すると二つ合わせると、意志は全く働かないことになって安定するのかもしれない。
岡潔は女性と男性という分け方をしていますが、"女性的"と"男性的"という表現の方が近いように感じるのと、もっというと「情から知へ(意思が)働く人」と「知から情へ働く人」という分け方の方が正しいと思います。これなら性は生まれ持った身体には依存しません。全ての人について説明できます。ちょっとややこしいので前者を「情の人」、後者を「知の人」と表現したいと思います。ざっくりした言い方になってしまいますが、情の人は優しさや共感を得意とします。知の人は知識や論理を得意とします。
もう少し説明します。情の人は「好き→知識」の順番に意思が働きます。知の人は「知識→好き」の順番に意思が働きます。"山登り"を例に挙げると、情の人は山を好きになって初めて山登りをします(そして知識をつけます)。逆に知の人は山登りをまずして知識をつけます(そして山を好きになります)。何が違うのでしょう、もしかしたらあまりピンとこないかもしれませんね。
もっと分かりやすい例が、冒頭でお話した「向いている文章」です。つまり、情の人はエッセイや気持ちを表現する文章が向いています。同じように、知の人は学術論文や論理的な文章が向いています。なぜなら、文章はその人の思考の性質が反映されるからです。先ほど"性"は性質の意味も含むといったのは、こういう理由からです。どうでしょうか、少しでも伝われば、嬉しいです。このことについては、これからも折に触れて書いていきます。
いま世の中(特にネット)を見渡すと論理的な文章や学術論文の活躍の場はしっかり用意されています。つまり知の人にとってのプラットホームが整備されています。では、情の人についてはどうでしょうか。これについては、もう少し問題を解きほぐす必要があると感じています。なぜなら、今の学校教育は「知の人」を育てるのに向いているカリキュラムで組まれているからです。学校教育を頑張っている人ほど、「情の人」でも「知の人」として生きていくことを迫られます。ただこの考えを突き詰めていくと、性によって教育を変えるという少し過激な結論も導き兼ねないので、また別の機会にお話したいと思っています。
あなたは、情の人ですか?知の人ですか?
ここまで読んでいただいてありがとうございます!おつかれさまです!長かったですね!ふぅー深呼吸…ありがとうございます