美人薄情
漢江彼岸からタクシーで旧市街まで帰還した主人公は、鐘路のYMCA前で下車する際、借り物のα7000を2台とも持っていないことに気づいた。時系列的には「ブルーライ・トヨコハマを歌えぬタイプ」の続きである。つまり、1987年12月か翌年1月のとある日の深夜だ。
「おかしいな。どこに忘れてきたのだろう」酔っ払いの頭では思い出せない。
左腕の時計をちらり見た。当時たしか、SEIKOのオレンジの文字盤のダイバーズウオッチのレディースサイズか、TIMEXの黄色いアイアンマン・インディグロ(アナログ)のどっちかを着けていたはずだ。そのことは話の筋とはまったく関わりない。書き手がちょっと懐かしく思い出しただけである。
短針は2時に近かった。主人公は思わずキャロル・キングの♪It’s too lateを口ずさんだ。そして、つぶやいた。
「オー、ノオ」
ぼんやりした頭で考えたのは、なくしたものなら出てこないだろう。ここは日本ではない。しかし、借り物なので返さなくてはならない。保険には入っている。とすると、盗難届か紛失届、あれ、盗難証明か紛失証明かな、そんなものが必要なんじゃないか。たぶん、うーん、警察で発行してもらうんだろうか。さて、警察はどこにあるのかな。
そこへ向こうから、街灯がつくる自分の長い影を抜いたり抜かれたりしながら若い女が歩いてきた。髪が長く背の高いスタイルのいい、女子大生のような年恰好だ。深夜の人影のない街に、ヒールの音がカツカツと高く響いていた。
彼女にお願いしよう。
「ヨボセヨー」これだけ韓国語で、あとは英語だったが、彼女は理解してくれた。主人公には女神に思えた。実際、主人公の基準では典型的な朝鮮美人だった。今の整形美人ではない。一重まぶたで切れ長の三白眼、高い頬骨、少しめくれた上唇のエキゾチックなクールビューティである。主人公のそれまでのタイプではなかったが、ストライクゾーンとはあっという間に広がるもんである。しかも、その口から飛び出した言葉も神だった。
「ついてきて。いっしょに警察に行きましょ」コクのあるちょっとハスキーな声だった。
道すがら話を聞くと、やはり大学生だという。名前も教わったが覚えていないので、ここではファサとしておこう。細かいことは秘密にしておく。そう、覚えていないだけである。
しばらく真冬の深夜のソウルの街を歩いて、着いたのは明洞にある交番だった。今、調べると「明洞派出所」というのがある。たぶんそれだ。
所内には、制服の警察官が2人いた。ひとりは頭の薄くなった年配で煮ても焼いても食えないような疲れた面構えをしていた。もうひとり、奥の方にいたのは若く背の高いイケメンだった。ふたりとも英語はまったく通じなかった。
ファサが主人公に代わって年配に事情を説明すると、年配は主人公に向かってちょっと待ってろという身振りを示し、背中を見せてデスクでなにかを始めた。
繰り返すが主人公は前日の夕方から飲み続けである。その警察官は自分のために何かをしてくれているのだと思い込んでいた。冷静に考えると、そんなわけあるはずがない。それまでに抱えていた仕事もあるだろうし、なんせ、飛び込んできたのは酔っ払いの日本人である。
主人公は立ち尽くして待っていたが、疲れたので、その辺のデスクから椅子をガタガタ引きずり出して座った。年配が振り向いてジロリとにらんだが、何も言わず、また机に向かった。
奥で若い方に事情を説明してくれていたファサが--と、これも主人公の勝手な思い込みである。ふたりが話している韓国語の会話が理解できるわけもなく、だれもが主人公のために骨を折ってくれているとお花畑なことを思えるほどには酔っぱらっていた--言った。
「あたしはそろそろ帰るわ」
主人公は立ち上がってそばまで寄ると、右手を差し出した。
「カンサムニダ。コマプスムニダ。サンキューベリベリマッチ。たいへん助かった。ところで、お礼がしたいんだけど、あす、いっしょに食事なんて、どう」
ファサは右手を出して儀礼的に軽く握って、すぐに放した。
「食事? いいわよ」
やはり女神であることよ。
主人公はちょっと興奮して言った。
「ではでは、あしたの6時にこの場所で待ち合わせでは、いかが」
「いいわ」ファサは答えた。そして、踵を返して通りに消えた。
警察官たちが自分のための手続きを進める様子はない。どうせ明日またここに来るんだ。そのときでいいや。主人公はそう考えておいとますることにした。
「あしたの夕方、また来ます」英語でそう言い残して交番を出た。警察官たちはチラリとも見ようとしなかった。
宿舎に戻ると、カメラは2台ともベッドの上に放り出されてあった。そういや、相方と別れるときに預けたんだっけな。一件落着。
相方には、朝になってから昨晩のあらましを伝えた。そして、続けた。
「で、だ。今晩の晩飯にはその美女が来てくれる」えへん。
日中をどうやり過ごしたのか覚えていないが、午後5時半には相方と明洞派出所の前にいた。カメラはあったのだからもう手続きは必要ない。外から様子をうかがうと、昨夜の年配が同じような陰鬱な風情でデスクに向かっていた。
6時になった。ファサはまだ来ない。6時半になった。まだ来ない。
「どうやらふられちゃったかね」
「そのようだね」
「甘かったね」
「世間は厳しいんだよ」
とりあえず、派出所の中に入ってみた。年配が顔を上げてこっちを見た。
身振り手振り、片言韓国語と英語を交えて尋ねた。
「きのうの女子大生は来なかったか」
意外な返事が返ってきた。
「来たよ」
えっ。それで?
「〇×といっしょに出かけたよ」
どうやら〇×とは、若いイケメンの方の警察官のことらしい。
美人はどこでも薄情である。少なくとも主人公の人生では。
Photo by courtesy of Wayan Vota. https://www.flickr.com/photos/42925588@N00
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