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右上端が切り取られていた都立大講師の名刺に関する考察
「右上端が切り取られていた都立大講師の名刺に関する考察」
今は知らないが、当時のスペイン人は英語ができないものと決まっていた。学校教育での外国語がフランス語から英語に替わったばかりだった。だから、背後から英語で声を掛けられたときは、用心するに越したことはないと心の内で身構えておいた。
「何か手伝おうか」
「この町の地図を手に入れたいんだ」主人公は答えた。
マドリッドに着いて一夜が明けた午前中。夜はフラメンコにでも行くとして、日中はとくに急いでやることもないから、地図探しを名目に、安宿から至近のプエルタ・デル・ソル広場まで来たところだった。日本から持ってきた地図は、すでに名称が変更されて数年たつ目抜き通り「カジェ・グランビア」を、「アベニーダ・ホセ・アントニオ」と記載していた。スペインのファシスト党「ファランヘ」の創設者であるホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラからとった名だ。旅行で持ち歩く地図は新しいほうがいいに決まってる。
「ああ、それならホテルに行けばいい。ついておいで」三十前後に見える小柄で細身の男は背中を見せて先にすたすた歩きだした。
そうか、ホテルか。地図を手に入れるにはホテルに行けばいい、と。
信号待ちで並んだとき、主人公は男に聞いた。
「英語、上手だね」
「英国と美術品の取引の仕事をしているんだ」
「ああ、そう」
男が名乗ったので、主人公も名乗った。
たどり着いたのはリッツだった。こんどの旅で主人公が決して泊まることのない高級ホテルである。男はカウンターに取り付き、首尾よく地図を手に入れて、主人公に渡した。
「ほら」
礼を言ってホテルを出ると、だれかが男の名を呼んだ。
振り向いた男はうなずくと、主人公に「失礼」と言ってから、声を掛けた男に向いた。主人公が「じゃあ、どうもありがとう」ともう一度礼を言って歩き出そうとすると、「ちょっと待っていて」と制した。
そのまま行ってしまうのもどうかなと思った主人公は待つことにした。男は相手となにやらひそひそ話をした後、ポケットからビニルの小さなパッケージを取り出し、相手に渡した。かわりに金のようなものを受け取った…ような気がする。相手が立ち去ると、男はこっちを向いて言った。
「ハシシなんだ」
やっぱりな。
「違法じゃないのか」
「スペインでは問題ないんだ。ところで午後はヒマか」
もちろん、なんの予定もない。あのハシシが気になるので、こう答えた。
「時間はある」
「じゃ、僕の部屋に来ないか。コーヒーをごちそうしよう」
「それはありがとう」
かなり軽率な気もしたが、〈殴り合いになっても負ける相手ではないだろう〉と主人公は考えたようだ。かなり軽率である。
男の家は、リッツからそんなには歩かない閑静な一角の、造りの新しい2階建てアパートの2階だった。日本だとマンションと呼ぶかもしれない、コンクリート打ちっぱなし仕上げのモダニズムな外壁の雰囲気は、マドリッドの旧市街とはまったく違っていた。
玄関扉を開けると短い廊下があり、突き当たった左に居間が広がっていて、当時としては相当大画面のテレビが鎮座していた。その正面に、低いガラステーブルを挟んで、一人掛けソファ2つと、三人掛けの長いソファがあった。テレビを正面に見る長い方にに案内された。男は一人掛けに座った。
「きみは日本人だね」
そうだ、と答えた。
「旅行者か」
「そうだ」
「〇〇を知ってるか」
日本ではありきたりの苗字を口にした。なんと答えていいかわからなかった。その苗字の友人知己は何人かいるが、この男の共通の知り合いとも思えなかった。
男は立ち上がって、壁の棚から小さな箱をつかみ、何枚かのカードを取り出して、そのうちの一枚を差し出した。日本の名刺だった。主人公は手に取った。
東京都立大学 講師 〇〇××
縦書きで、そう印刷されていた。おそらく学部名もあったのだろうが、今、脳内に浮かぶイメージに学部名はない。左下の連絡先欄はモザイクがかかったようにもやもやっとして読めない。当時、都立大学がどこにあるか知らなかった。東横線の都立大学にないことだけは知っていたが。
そして、その名刺は右上が1センチほど三角形に切り取られていた。
裏返してみた。何も書かれていなかった。とくに期待していたわけではない。”精査”してみせたふりをしただけだ。
「私の知らない人だ」
「ああ、そう。きみは名刺を持っているか」
「いいえ」
「ああ、そう」
男は再び、向かいのソファから立ち上がりながら言った。
「ちょっと待っていてくれ。コーヒーを淹れよう」
キッチンがあると思しき方へ去った。主人公は、ちょっとだけ〈セルベサのほうがいいんだけどな〉と思ってしまったらしい。やっぱり、かなり無分別である。
それでも、奥でコーヒーを用意するらしい気配を確かめてから、主人公は、いったん玄関に行き、鍵が掛けられていないことを確かめた。居間に戻ると、案内されたソファに体を沈めて、これからどんな展開になるのか、あのハシシの話題へどう誘導しようか考えを巡らした。たばこを一服したかもしれないが、覚えていない。吸ったとすれば赤いマールボロだったはずだが、いずれにせよ、あまり楽しい考えにはたどり着かなかった。居心地が悪くなった。
男が姿を見せて呼んだ。
「ちょっと、こっちへ来て。部屋の中を案内しよう。ここがベッドルームだ」
居間の左隣の扉を開けると、けっこう広いスペースを大きなキングサイズのベッドが占めていた。きちんと片付けられていてあまり生活感はなかった。
「さあ、こっちも」
寝室の前をさらに左に曲がり込み、左手にあるキッチンをやり過ごすと、男は右奥の扉を開いた。
「ここがバスルームだ」
シャワーを使ったあとの湿気が篭ったままだった。
寝室とか風呂場とかの紹介を受けて、ますます居心地が悪くなった。なんのつもりだ。
男はキッチンに戻り、主人公はもとのソファに座って待った。テレビがついていたかどうかは覚えていない。
コーヒーマグを2つ手にして現れた男は、それをテーブルの上に置くと、もとの対面位置ではなく、長いソファの主人公の隣に座った。
これまでの流れから、ある程度、予想された展開かもしれない。
男はさらに尻をずらして近寄ると、両手を主人公の太腿に置いて、耳元で囁いた。
「午後はたっぷり時間があるんだよね」
わはは。主人公は、午後の大事な約束を失念していたと告げて、相手の気持ちになどまったく忖度もせず、そそくさと立ち去るのだが、旅が終わって帰国後、余裕ができたからか、あのままだったらどうなったんだろうか、もう少し確かめてもよかったかもしれない、などと思うこともあったそうだ。そして、もし名刺を持っていたら、やっぱり右上が三角形に切り取られることになったのだろうか、とも。
Photo by courtesy of Spiegelneuronen.
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