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「国民性に影響され続けた”冒険観”は、          ボーダレス時代にどうなる!?」

YACHTING

97年5月号

 「みろ、言わんこっちゃない。だから、NYYCでは、ボルトでしっかり止めておいたんだから。それを、あのカリフォルニア野郎が…」

 先日、アメリカス杯がハンマーで壊されたという外電が入ってきました。
 事件は3月14日のこと。ロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロンのクラブハウス一階のガラスケースに保管されていたカップめがけて、27歳の男がハンマーを振り回した。カップは中央部がペシャンコになってしまったそうです。
 このニュースを聞いた、古くからのニューヨーク・ヨット・クラブの会員が、冒頭のように毒づいたとは、もちろん、外電は語っていません。私の空想です。
 警察に取り押さえられたカップ襲撃犯は、ニュージーランド先住民の言葉を話していると記事は伝えています。続報を確認していないのですが、なにやら、最近は行政改革が成功した国ということが日本で話題になっている同国の、エスニック問題も背景にみえるような気もしてきます。
 そこで、今回の斜め読みは、お国ぶりというか国民性というか、そんなような補助線を引いてみました。

 なんでも、NYYCでは、1851年のワイト島レースで勝って、ビクトリア女王からもらった銀杯を、その後もイギリスをはじめとする挑戦艇を次々と退けた自信から「負けることはあるまい」とばかり、クラブハウスにボルトで固定してしまっていたと聞いています。そして、この、百ン十年もずっと防衛してきたというのが、アメリカス杯をめぐるヒストリー最大の”売り物”でした。

 このこと自体を斜めに見ると…。
 あの手この手で銀杯の奪取を企てる”ワルモノ”にめげず、”イイモノ”であるアメリカがことごとく返り討ちにしてきたの図が想像できます。いわゆるウルトラマン・パターンです。
 日本でも、V9時代のジャイアンツに対して、怪獣役を担う他のセ・リーグの球団は決して勝利しないという”予定調和”が伝説になりえた時代があったわけです。あるいは、春のセンバツ高校野球大会の紫紺の優勝旗は、冬の調整不足という一見、もっともらしい理由で、(かなり昔の話ですが)なかなか箱根の山を越えられなかったなんて例も、ムリヤリ、提出しておきましょう。
 だけど、時代は、ボーダーレスを唱えられて久しい。人も金も旗も杯も、合理主義または市場主義または自由主義または民主主義または人道主義…なんでもいいんですが、従来の”伝説”が担保してきたナニカとは別のナニカの導きにしたがって、移動を始めたわけです。
 そんな次第で、制服があったとしたら、ボタンダウンにレジメンタルタイに違いない、という雰囲気のNYYCの首脳も、防衛艇のスキッパーに、ポロシャツはおろかTシャツのほうが似合いそうな、カリフォルニア育ちのデニス・コナーをすえざるを得なかったのでしょう。
 敗戦の順序は多少違いますが、V9が途切れて、ジャイアンツが”純血主義”(これもホラ伝説)とやらを捨てて、デーブ・ジョンソンを入団させたのと、文脈は一緒です(ホントか?)。そういえば、リーグ88連勝、優勝18回のバレーボールの名門、日立もついに、二部(実業団リーグ)に転落してしまいましたが、このチームも、カネと人がボーダーレスになった時代の波にほんろうされ、それでも、いまだに伝統の”純潔主義”を維持しようとしています。涙…。
 でまあ、話を戻すと、やがて、NYYCのハウスキーパーが、ボルトを左に回すときがやって来ました。カリフォルニア出身のカップ・ルーザーは四年後にオーストラリアからは銀杯を取り戻したけれど、その居場所はカリフォルニアに移ってしまった。もう、こうなったら、伝説の魔力も期限切れ、あとは、カップがどこへ行くかは、文字通り、風次第。今はニュージーランドだけど、ニッポンだっておかしくない(かな?)

 だけど、アメリカ以外に(あるいはニューヨーク以外に)、アメリカス杯が行った先が、オーストラリアとニュージーランド(あるいはカリフォルニア)だけというのは、それなりの必然性もあるのでしょう。
 その説明で、いちばん耳にするのが、「文化風土」です。ニュージーランドじゃ、人口より羊の数のほうが多い、おっと違った、人口の三人に一人がヨットを持っているとか、サンディエゴではないが、同じカリフォルニアのサンフランシスコのハーバーでは、「ここはセイリング・オアシスだ」とか、「静かで安全な係留状態を保ってくれるこのハーバーにして、40フッターの係留料が年に4万円以下で済むとは…。やはりヨッティングは西洋から来た文化であるとの認識を云々」とか(これ、ヨッティング誌の12月号に書いてあった)、そういった、ハード・ソフト両面でのインフラの違いを指摘する声が多い。そして、この手の話は、ひるがえって、わが日本は…と続くのです。
 ソフト面では、海洋レジャー、さらには冒険に対する捉え方の違いをよく耳にします。古くは、犯罪者(という表現は失礼ですね)として日本を出港した堀江さんが、サンフランシスコでは英雄として迎えられたというのが有名です。逆に、日本では、海でも山でも事故が起きるたびに、「遊びで他人に迷惑をかけちゃいかん」と外野の声が沸き起こることが多い。
 事故については、ケース・バイ・ケースで考えなければならないのでしょうが、冒険に関してはワンパターンです。野茂投手が日本を出て行くときに、「わがままだ」という声があって、ドジャースで成功するや、ヒーローになった。その前例があるというのに、今年の伊良部に関しては、またまた、「わがまま」バッシングが起きている。これは、学習されないというより、国民性なんでしょうねえ。出る杭を打ちたいという国民性。
 ヨットでいえば、昨年夏の高橋素晴くんの太平洋横断でも、賛否の議論がありました。このケースでは、結果オーライだったから、アレコレ批判的に書かれても、話題が盛り上がった分だけ、外洋ヨット乗りにはメリットになったんじゃないかな。


  いま一つ気になるニュースは、昨年末から今年初めにかけて、オーストラリアと南極に挟まれた海で相次いで事故を起こした、『ヴォンデグローブ世界一周レース』のケースです。
 『ヴォンデグローブ』レースといえば、私から見れば、冒険も冒険、大ボーケンなわけです。砂漠のパリダカラリーから、1000キロ耐久マラソン、クストーやマイヨールなど、冒険大好きのフランス人が企画したレースです。
 そのレースで相次いだ事故の現場が、先に「必然性」なんて書いてしまっちゃったオーストラリアが舞台になっているもんですから、オーストラリア国民からは、理解あるアクションがあったのではないか、と考えてしまう。
 実際は、そうでなかった。ご存じの通り、「税金のむだ使いだ」と非難の声が上がりました。マスコミは、「救助機一機だけで毎日700万円の出費。フランス人の冒険のためになぜわれわれの税金を使わなければならないのか」と書き立てた。二年前にもオーストラリア軍がヨットレース中の遭難を救助したケースの、「人件費などを除き75万豪ドルの臨時出費」と国防省が国会に報告した例まで持ち出したそうです。
 ところで、外洋ヨットの事故といえば、三月中旬に韓国・済州島そばで日本のヨットが座礁、オーナー(63歳)が亡くなるという事故が起きました。済州海洋警察署が同乗者を救助したようですが、この事件はおそらく、日本ではヨット乗り以外の世間は関心を持たないだろうと思われます。持ったところで、死者も出たことだし、「打つに適した杭じゃない」というのが大方の判断でしょう。(残念ながら、冒険論より反日論が気になる韓国世論の反応は伝わってきていません)
 「好きこそモノの上手なれ」-が、冒険に限らず、人生の基本になっている人は幸せです。自分で企画した冒険を実現するためなら、(過信はあるにせよ)リスクを背負うことはだれも厭わないでしょう。逆に、生活や収入のために、モノの腕が上がったというのは、ちょっと悲しいものがある。
 ここで、ふと思いついたのが、救助される(かもしれない)側ではなくて、レスキューなど救助する側の心理。彼らの、二次災害の危険を背負っての決死の救助活動というのは、遭難したオリジナルの冒険(やボーケン)野郎よりも冒険的かもしれない。誤解を恐れずにいえば、自身の企画でないだけに人為的な制約がいっぱいあって、かえっていっそうゲーム性が高いかもしれない。
 だいぶ前のことですが、富山県警の山岳レスキュー隊のドキュメントをテレビで見たことがあります。明らかに仕事であるにもかかわらず、「好きこそモノの上手」で訓練し、災害警戒に取り組んでいたように思えました。
 いずれにせよ、「命あってのモノダネ」が信条の私には、冒険は「遠くにありて思うモノ」なんです、悲しいけど。
 だけど…。
 南米の最南端からアフリカまで、人類の拡散の逆ルートを、徒歩やカヌー、自転車など人力だけで探検している関野吉晴

さん(=48、『グレートジャーニー』の人です)に、「ご家族は心配しているでしょう」と聞いたことがあります。
 答えは、「いいえ」でした。「ぼくは憶病だから、無謀なことはしないと知っているので、家族は、その点では心配していません」というクールな言葉、これも、格好エエなあ。
  

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