Orchestra Fontanaに寄せて、客席の片隅より
本記事は、アマチュア企画オーケストラ・Orchestra Fontanaの演奏会を観てきた個人の、極めて個人的な感想文である。
邂逅
遡ること約1年前。
「noteに面白い記事を投稿している企画オケがある」
そう認識していた記憶がある。
実は筆者は少し前まで某大学オケに所属していた。その時に知り合った人々を伝って企画オケの話はよく耳に入ってくる(SNSで目に入ってくる)。
「ああ、誰かまた面白いことを始めたんだな」とは思ったものの、その後はたまに目に入ってくる記事を見ながら、ぼんやりと動向を見守る程度。この時はまだ、よくある企画オケの1つに過ぎないと完全に舐めきっていたのであった。
筆者は所謂"福岡の学生オケ界隈"の人間だったのだが、諸々の事情(と生来の人付き合いの悪さ)で疎遠気味であった。そんなこんなでOrchestra Fontanaに参加することはなかったのだが、演奏会の数日前に偶然にもOrchestra Fontana関係者の友人らと会う機会があった。
その時「本当にすごい演奏会だから是非来てほしい」と言われなければ、もしかしたらこの文章を書くことも無かったかもしれない。
どんなものが観られるのだろうとワクワクしながら、当日を迎える。
集結
2023年10月9日、朝。これから"始まり"を見届けに向かう。
電車に揺られながら事前公開パンフレットを眺める。1曲に解説が3種類付いている。正気か?
ついでにTwitterも見る。演奏会当日の朝といえば、だいたい関係者が今日の意気込みを語っているものだ。ところが、どうも様子がおかしい。
「金管楽器の音が弦楽器の音に埋もれる」
「打楽器も埋もれる」
「苦手な人は耳栓持ってくるか後ろの方に座った方がいい」
いやそんなわけ…… え、本当に……?
筆者はオーケストラにちょっとだけ詳しいので知っているが、流石にそんなわけがない。ないよね?
そんなわけないが、100円ショップに立ち寄って耳栓は買った。
ついでに昼食も済ませた。「腹が減っては戦はできぬ」と言うが、まさにこれから戦に行くかのような心持ちでいた。Orchestra Fontanaという大きな何かに、一人でに戦いを挑みに行くかのような。
悲劇の終結を象徴するようなショスタコーヴィチの10番を聴きに行くのに「これから戦に行く」だとは、なんとも皮肉なものだ…… そんなことを考えながら会場に向かった。
会場に着くと、入口には長蛇の列が見える。プレコンサートに間に合わないかもしれないが、仕方ない…… と思いきや、デジタルチケットの前売りを買っていたためにほとんど並ばずに入場できた。かがくのちからってすげー!
フロアスタッフを担当していた旧友と再会を果たしつつ、客席に着く。もちろん後ろの方に。
ほどなくして、奏者がステージに上がった。
プレコンサート
♪ 市民のためのファンファーレ
A. コープランド
まだ騒つく会場。力強い打楽器の一打で、Orchestra Fontanaが始まった。続いて気品のあるファンファーレが朗々と響く。
作曲の背景まで見ると、この演奏会の幕開けとして完璧なチョイスだと思う。
♪ 舞台管弦楽のための組曲第1番より ワルツ第2番
D. ショスタコーヴィチ
気だるげな雰囲気ながらも流れるようにリズムに乗るワルツ。なんとも心地良い。
そんなことよりホルンがなんかすごい高い音出しててすごかった。なんだあれ
♪ 弦楽四重奏曲第1番より 第4楽章
P. I. チャイコフスキー
ここまでの2曲が菅打楽器主体の音楽であったからか最初はちぢこまったような音楽に感じられたが、終わりにはそんなことは気にならないくらい引き込まれてしまった。
4つの弦楽器が歌っているかのような、活き活きとした演奏だった。
♪ 組曲『クープランの墓』より 1.前奏曲 5.メヌエット 4.リゴードン
M. ラヴェル
殊更に個人的な話になるが、筆者が初めてオーケストラの演奏会に乗ったときにこれの管弦楽版を演奏していた。その時のオーボエ奏者の方の姿がいまだに記憶にこびりついている。
筆者はOrchestra Fontanaに誰が参加しているのか碌に知らずに来たのだが、学生オケのつながりでこの曲を完奏できるオーボエ奏者は一人しか心当たりがない。ああ、また聴けるとは。これも一つの再会であろうか。
もちろん奏者の強いことはオーボエに限らず、この難曲を見事に乗りこなしていた。
プレコンサートが終わった後にロビーをうろついていたのだが、他のお客さん同士で「おや、お久しぶりです!……」などと話していたのが聞こえた。Orchestra Fontanaのメンバーには直接関わりが無さそうな年配の方だったが、こうして間接的に"再会"が生まれているらしい。良いことだ、と勝手ながら感じた。
開演
♪ 「ペール・ギュント」 第1組曲 Op.46 / 第2組曲 Op.55より抜粋
E. グリーグ
さっそく「北欧音楽のダークサイド」の洗礼を浴びせられる。なるほど、確かに音がデカい。
全体的に、どっしりと構えて雄弁に、流暢に、時に激しく語りかけてくる演奏といった印象だった。さすが尾崎先生といったところか。ペールの、冷静に考えるといろいろとブッ飛んでいる冒険の様子が鮮やかに描写され、その世界に浸る。上手い朗読を聞いているかのような心地よさだった。
終曲「山の魔王の宮殿にて」。ファゴットのオクターブユニゾンが綺麗に決まり、心の中で拍手を送る。
(筆者はファゴットにちょっとだけ詳しいので知っているが、この部分は地味に難しい。)
どこからともなくトロルたちが次々と加わって、熱狂は頂点に! だがやはり、あくまでその様を読み聞かせているかのように、どこか落ち着いた空気を纏っていた。音圧はデカいが。
一つの物語を読み終えた時の特有の充足感とともに休憩に入る。
まだ力を隠しているな、と思った。
♪ 交響曲第10番 ホ短調 op.93
D. ショスタコーヴィチ
第1楽章。なんとも気味の悪い第1主題が、この曲の世界を形作っていく。弦楽器が揃って ヴンッ と鳴らした時の圧に、やはりここからが本気の爆発なんだろうと震えた。
どこか軽くて空虚で、乾燥している第2主題。漠然とした不安や焦りに駆られて彷徨っているかのよう。それでも音楽は前に進み続ける。
それにしても、やはり音圧がデカい。耳にビリビリと響く。ポケットに耳栓をスタンバイしてはいたが、ここで耳栓をつけたら絶対に後悔すると思い、最後まで取り出しはしなかった。
やがて静まり、ピーーーーーーーー……と不意に鳴り始める高音。あまりにも無感情で空虚で突拍子も無い音で、鳴っていることにしばらく気づけなかった。今思い返しても不気味で見事な演奏である。
第2楽章。貼り付いた笑顔のまま強大な力を振りかざしてくるかのような理不尽。不意に、明るい行進曲のように聴こえる。その狂気的な明るさに恐怖を覚えているうちに、全てを壊して過ぎ去っていった。
第3楽章。いくらか穏やかにはなるが、解説を読むに全く平穏な音楽ではない。
例の「ダサいタンバリン」は、そこだけを見ればまあ……ダサいのだが、こうして単調なリズムを愚直に繰り返すことで独特の雰囲気を醸しているように思う。最後に呟くようなピッコロの"DSCH"なども含めて、何かを表現しようとしているように思えてならない。
ショスタコーヴィチ自身の内面を探っていくような……そういった複雑なものを表現した音楽なのではないかという予感がするが、どうだろうか……。
第4楽章。この曲はショスタコーヴィチにとっての「歓喜の歌」。悲劇の終焉を書いたものとも言えるだろうが、同時にこれは「雪融け」を受けて表現者に宛てた、ショスタコーヴィチからの合図でもあるのではないか?
この第4楽章自体が、「友よ!もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか!」と、叫ぶ声。そう聴こえてならない。
それは終わりの喜びであると同時に、始まりの合図なのだ。
新たな戦いの始まり。思えば表現活動とは──この演奏会も含めて──ある種の戦いに他ならない。誰も殺されることのない、最高の戦いである。この叫びとともに、ショスタコーヴィチは立ち上がり、歩き出した。戦うために。
話を戻そう。
この曲が「歓喜の歌」であるとしても、やはり歌詞は必要ない。全ての楽器が、こんなにも雄弁に歌い、叫んでいるのだ。弦楽器が、管楽器が、打楽器までもが、歌い、叫び、せめぎ合い、なのにそれらは渾然一体となって押し寄せてくる。これはおそらく、Orchestra Fontanaでなければ出せなかった音だろう。すごいとしか言葉が出ない。
それにしたって、オーケストラの演奏において打楽器があんなに全力で振りかぶるのは滅多に見られるものではない。筆者の記憶が正しければこの日の会場は打楽器が響きにくいホールではあるのだが、それにしたってやりすぎだろう。まあ、本当にやりすぎなのはそれでやっと弦楽器と対等になっているところなのだが。おかしいだろ。
やがて暴君は踏み潰され、"DSCH"が何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も狂ったように打ちつけられる。終いにはティンパニまで歌い出し、少し笑ってしまった。
(ティンパニがモチーフを奏でるのは「市民のためのファンファーレ」との共通点だが、今はどうでもいい。)
勝利の熱狂のうちに、見事に駆け抜けた。間髪入れず「ブラボー!」の声。個人的にはもうちょっと髪の1本くらい入れて欲しかったな。まあいいか。
どうせアンコールも用意してるんでしょう? と頭の中で言いながら、終わりの感動と次の期待が混ざった拍手をする。しばし指揮者が出入りしたあと、思ったより早くアンコールの構えになった。
さあ、何が来る?
♪ バレエ音楽「ガイーヌ」より レズギンカ
A. ハチャトゥリアン
ショスタコーヴィチの勝利の叫び、自由への旅の始まり。その旅立ちの前の、束の間の宴。
"スネアおじさん"の快調なリズムがたちまち会場を支配し、喜びと、ほんの少しの寂しさが混じった空気に包まれる。この日1番の全力の打楽器がドシャンと鳴る。
ヴァイオリンを弾いていたOrchestra Fontana代表(と、その近くにいたAくん)のあの笑顔が忘れられない。
影アナウンスが入ってもすぐには拍手が鳴り止まなかったあたり、拍手し足りなかったのは筆者だけではなかったのであろう。
終演
無理。動けない。
あまりの名演ぶりに感動のあまり動けなくなったのは流石に初めてかもしれない。なんとかロビーには出て椅子に座っていたところ、目の前で写真撮影が始まって急いで避けたりした。ロビーは人でごった返していて、それぞれが思い思いに再会を楽しんでいたようだ。
(フロアスタッフの皆さんは大変そうだったな……お疲れ様でした)
筆者も適当な出演者を捕まえて再会に浸らせてもらった。正直、筆者のことはもう忘れられているんじゃないかという気もしていたが、思っていたよりそんなことは無かったらしい。
少なくとも自分はこの輪の中に確かに居た人間なんだと、そういう実感が湧いた気がする。
「どうせまたどこかで会う」
そう言いながら会場を後にした。
いつOrchestra Fontanaは終わったのか?
かくして、演奏会は終わった。
関係者の間での再会が大きな意味を持っていたのは言うまでもないだろう。だが演奏会当日のことを思い返してみれば、筆者含めて、客席側でもたくさんの出会いや再会が確かに生まれていたことを伝えておきたい。
このオーケストラは、まさしくFontanaであったのだ。
筆者が思うに、"憩いの場"は2つの役目を持つ。1つは、人々が集まるための道標。もう1つは、そうして集まった人々が自分自身を再確認する場所である。
憩いの場は、拠り所。この広い世界で自分を見失わないための、区切りの場所。それがあるからこそ、その存在を信じていられるからこそ、迷わずに旅に出ることができるのだ。
この大きな噴水を背に、皆がそれぞれの道へと歩き出しているのだろう。それは、この噴水が無ければ為し得なかった"新たな始まり"であり、決して元の日常にそのまま戻ることを意味するのではない。
噴水は、人々の背中を押し続ける。再び集まることがあるならば、その道標にもなるだろう。その役目はまだ始まったばかりだ。
では、いつOrchestra Fontanaは終わったのか?
実は、まだ終わっちゃいないんじゃないだろうか。
Fontanaはこれからもそこに在り続ける。ずっと、ずっと。