7年前ボツにした小説「魔法のない世界」 p.2
ここは、ビナエラ大学の講師室の一角。
一枚の紙を握り、ローリエはそれは長い溜息をついた。
『あなたの元にアリスちゃんを送りました。協力して事に当たってください。彼女の到着までに事態が急転した場合、時間を稼ぎつつすべての学生を避難させ、合流を待つこと。厳しいかもしれませんが、がんばってね。』
ローリエは残念だった。彼女は、入職したばかりのビナエラ大学の同僚みんなから憐れまれていた。魔女のお使い。周りからは、いいようにこき使われるだけの存在のようにも思われていた。
先週、人生初めての講義をすれば、学生から訂正の指摘が相次ぐ。実技試験では学生に敗北。その結果、甘く見られ、誇りも存分に傷ついて、魔女協会から派遣された本物の魔法使いであるという事実が、かろうじて彼女を先生たらしめてくれていた。
異世界からの侵略と聞き、ローリエは嫌なことを想像した。学生が傷つけられる、大学が破壊される。街が乗っ取られる……それだけはあってはならない。無理とは言うが、できることがあるのではないか。ローリエは正義感が人一倍強かった。決意を新たに、次の講義へと向かう。
「えー、こんにちは。さて、今日は瞬間移動の法です」
講義室の大きな黒板の前に立ったローリエは教鞭を執った。数少ない学生たちの真剣なまなざしを感じる。人数が多ければより緊張もあったかもしれないが、ビナエラ大学には、小さな学生から大人まで含め、魔法使いの卵は百人程度しかおらず、そのうえ彼女が担当する講義は、魔女協会による面接の合格者のみを対象とした特別なものであった。そのおかげで、ローリエもそれほど緊張しなくて済んでいる。
「はい、先生。何でこの講義はこんなに学生が少ないんですか」
最年少の女の子が手を挙げた。
「エミリさん。面接を実施したと思いますが、合格したのはあなた方のみです。魔法の道というのは、長く余談の許されない、果てのない遠泳のようなものです。面接に合格したということは、その素質を買われたのだと思ってください。さて、先の数回では実技を通して、皆さんの能力を見ていきましたが、今日からは少し座学が増えます。さて、皆さん。利き手の人差し指を立てて下さい。何ができると思いますか?」
「先生」
別の学生の一人が声を上げる。
「瞬間移動くらい、誰だってできますわ」
ローリエはそれを聞いたとたん、全身から冷や汗を噴き出した。
「エマさん。できない方もいらっしゃいます。これから必要になったとき、それもすぐにです、もし、知らなかったら、大変ですから」
「この中でしたら、ほんの数人が、できないだけですわ。それに瞬間移動なんてすぐに覚えなくても、大したことないのではないかしら」
「もし、誰かに襲われたとしたら」
「このビナエラで? は、でしたら私とクレアが守りますわ。それに私には優秀な姉だっておりますの。十分じゃないかしら。それに、それだけ深刻なら魔女の一人や二人来るでしょう」
そう言い切り、金髪を靡かせる。碧眼がらんらんと輝いて、自信の強さを物語っている。ローリエはますます顔色を悪くした。
今日は、負けてはいけないの。ローリエ。この子たちの安全を最優先にするには、いま瞬間移動の法を教え、させて、来る日にできるようにしなくては。ローリエは内心でそう言い聞かせ、新たに情熱の炎を燃やした。
「どうしようもないときは、一人で問題に対処しなくてはならないのです。エマさん。分かってください。魔女協会だってやすやすと人を送れる状況にないのです」
「ええ、あなたを見ていればよく分かりますわ。人手が足りていない事くらい」
(ああ、お母さん。私はいままでとてもいい子でした。でしたよね。あなたの言うことに従順に、そして自分に自信と誇りを持って、あなたはそう教えてくれました。一度、修行が嫌になって逃げだした時も、それがあなたの選んだ道ならと、ついぞ責めることはなかった。ああ、お母さん、しかし、私は今、人を殴りたい)
ローリエは、まぶたをぐっと閉じ、ごくりと何かを飲み込むと、口調に平静を取り戻して言った。
「いまは、私が教師です。いま、これを覚えなくてはなりません。エマさん。クレアさんもよろしいですね。では、できる人はできない人に教えてあげること。私はちょっと、少しだけ講師室に戻ります。その後で熟達の度合をみます」
はっきりと言い切り、ゆっくりとした歩調を維持して講義室を出ると、ローリエはその場にしゃがみこんだ。
(あああアリス。助けてアリス。もしくはヘリン。ううう……大丈夫、私は間違ってない。間違ってないんだから……)
「何してるんです」
「ひゃあ!」
素っ頓狂な声をあげ立ち上がると、学生課の男性が覗きこんでいた。
「先生、お客さんが来ていますが」
「へ?」
男性に連れられて大学玄関に着くと、見たことのない女性が立っていた。ローリエに気づくと、彼女は手を振りさわやかな笑顔を見せた。
「魔女協会派遣講師のローリエです。どなたですか?」
「お初にお目にかかります。私は聖良と申します。この大学の卒業生です。アリス先生には、とてもお世話になりました。実は、アリス先生からお手紙を頂いたのですけれど」
彼女が差し出した手には手紙が一枚。ローリエの顔から一切の表情がなくなる。
「訳あってビナエラに向かっているから、先に、現職の派遣講師を援護してほしいと頼まれました」
・・・
フー国の玄関口、ピロピロ峠まで向かう馬車に揺られながら、アリスは、この旅の目的地――六年前、はじめて教壇に立った場所のことを思い出していた。
(思い返せば、何もかもが重たかったなあ)
重たい講義用の準備資料、重たい講義室のドア、重圧、はじめて学生の前に立った時の、重たい空気。最年少派遣講師という肩書。ビナエラの話が出た時に、調子に乗って受けてしまったのが運の尽きだった、と回顧する。
(世界有数の魔法使いの卵が集う、ビナエラ。わたしみたいな生え抜きの、たまたま運が良かっただけの雑草には到底通えない最高峰。入学条件は、旧高等魔術三種、すなわち火炎、水撃、雷撃を習得済みであること。そんなものわたしにはできなかったし、今もできる自信がない)
(そんなデキる人たちに囲まれて……最初は教えよう、教えようと思っていたけど、結局開き直って、分からないことは教えてもらいながら、なんとか三年間をやりきった)
(いろいろ思うことはあるけど、まあ、いい経験だったのかなあ。ね、レカミエ……いや、コチニール。ごめん、やっぱ、君の名前はレカミエにする)
指を立て、くるりと回転させ宙に便箋を取り出すと、人差し指を指揮棒のように振るって本文をさらさらと書き終えた。その便箋を、一度両手で掴んで丸め、再び手を開くと、手中から白い鳩が出現した。
「いけ、鳩ぽっぽ」
妙に勇ましい口調に後押しされ、鳩はほっほと鳴きながら、馬車が進む方角へと飛び去って行った。
――