どこにいようとも 奇跡を忘れない
はじめに:この記事を書いた人は古川さんのファンなのでほぼほぼ古川ヴォルフガングに関することを書き綴っています。そして殆どTwitterで呟いたことの再放送です。
2024年8月19日に帝劇で幕を上げたモーツァルト!が先日11月30日博多座にて大千穐楽を迎えました。
古川雄大さんにとって2018、2021に続き三回目、そして恐らくラスト※であろうヴォルフガングという大役で板の上に立つ彼の姿をしかと目に焼き付けようと帝劇を訪れた8月19日ソワレ一幕終わり。
それまでこれがラストの始まりだな…と少し感慨深くセンチメンタルな気持ちになっていた私を吹き飛ばすような衝撃。
私はいま何を見て何を聴いたんだ……???
円盤含め親の顔より観たモーツァルト!、上司の声より聴いた影を逃れて、それなのに全く知らない古川ヴォルフガングと影を逃れてがそこにいた。
こりゃあ大変なものと出会っちゃったなあと孤独のミュヲタ状態になり必死に追いかけた8~11月、帝劇梅芸博多座と続いた旅路がいよいよ終わりを迎えたので下記につらつらと自分の印象を書き綴ろうと思います。
(※ご本人の口から「卒業」のお言葉が出ました。でも80%らしいので残りの20%に全ベットしようと思います。この世はでっかい宝島なので)
京本ヴォルフガング
幸運に一回観ることが叶った京本大我さんのヴォルフガング。
初年というのは誰でも初々しさも加わり純度の高い、人間離れしたヴォルフガング像が出来上がるのかなとこの役に対して思ってるんですが、京本さんは自身の持つ雰囲気と声の性質なのか完全に「アマデと共にたまたま人間界に降りてきてしまった人ならざるなにか」に見えました。
『 神はその独り子をお与えになるほどに世を愛された』の一節を思い出すような、ルルドのマリアに近いような、我々人間が偶然に目視できる奇跡。
レクイエムも京本ヴォルフは書けないのでは無く書こうとする人の身に限界がきた、と思わせるラスト。
古川ヴォルフとはまた違う解釈と描き方でとても素敵なヴォルフガングでした。またやってね。
古川ヴォルフガング
前述した京本ヴォルフが『人の形をした奇跡』だとすれば、今年の古川ヴォルフは『奇跡を宿す運命を背負った人間』でした。どこまでも人間らしい、たまたま落ちてきた星を飲み込めてしまった少年。星に選ばれた人。
星の依代として生まれた青年がもがき足掻き苦しみながら輝く姿。『才能が宿るのは魂か肉体か』はこの作品の有名なコピーのひとつですが、古川ヴォルフは『ひとつの肉体にふたつの魂は共存し得るのか』という問いをこちらに投げかけているようにも見えます。
アマデと音と戯れながら『このままの僕を愛してほしい』と無垢に輝き大胆不敵、縦横無尽に舞台を駆けていた古川ヴォルフが「自由だ!」と声高らかに宣言した直後に始まる大ナンバー『影を逃れて』。
『どうすれば自分の影から逃れられるのか 自分の定めを拒めるのだろうか』『運命に従うほか無いのか 影から自由になりたい』の言葉たちで初めて観客が触れる古川ヴォルフガングのこれまでの苦悩の大きさ。
天から自分を操ろうとしている糸が彼にだけ見えているような、そしてそれに逆らい孤独に戦おうとしている姿。物語が一気に表情を変え加速したまま咆哮に近い歌唱で一幕は幕を下ろします。こりゃあ大変なものと出会っちゃったなあ(リプライズ)
父、姉、妻、二幕で沢山の別れを経験する古川ヴォルフ。
特に父の死を知った後の錯乱と怒りはこれまでのどの年よりも激しく、そんな状態でも自分を照らし出そうとする星から降る金の光に大きな体を小さくしながら涙する姿。
見上げた空に何を見たのか、何を決意したのか、憔悴にも近い状態でアマデの後をついて歩み出す古川ヴォルフ。
アマデを憎み、それでも誰よりもアマデの生み出す音楽に魅力される姿に人間の複雑さ・愚かだけど愛しい人間らしさを見た時、観客である自分が泣きそうになる気持ちになりました。
完成した魔笛の譜面と出会ったとき、そして演奏している時の古川ヴォルフのあの表情。人間は抱えきれない祝福に出会うと泣くんだね。
レクイエム作曲を決意した時のアマデに向けた視線と赤い羽根。予想だにしなかった依代が持つ魂の輝きに対する天からの数々の試練に決着をつけるような、反旗を翻すような姿で譜面に向かう古川ヴォルフ。
影を逃れてラストを模倣するように自分の腕にペンを突き刺しても血のインクは現れず、アマデが刺すことに意味があると言わんばかりの残酷さにいよいよ力尽きようとしたその時、アマデが差し出す白い羽根。
最初の頃と同じように2人きり、幸せな箱庭のような世界で流れ出すメロディ。力無く、それでも幸せを携えた瞳で呟く「僕こそ音楽」。
壮絶な、そしてどこまでも戦った一人の青年の人生は最後まで星と2人きりで終わっていく。
天の祝福と個人の幸福はイコールではない、星を飲み込めてしまう人は星としか行けない遠い所へ行ってしまう、けれど星に飲まれず人として歩むその姿を我々は時に「天才」と呼ぶのではないか。
そんなことを考えさせられる古川さんのヴォルフガングでした。
この究極の「人間らしさ」は古川さんが以前から心に留めている「歌は話すように、台詞は歌うように」が辿り着いた一種の境地なのだろうな、観ることが出来て幸せでした。
そしてこの作品にかかせないアマデを演じた三人の子役の皆さん。9~10歳って本当?私が10歳の時はねるねるねるね食べてタイヤブランコに乗り高速で回してくる同級生にキレてたよ。
本当に本当にみんな素晴らしかったのでほぼ箇条書きですが一人ずつ覚書を。
ひまりアマデ
三人の中で一番大人っぽかったひまりアマデ。ヴォルフを見つめる姿も凛々しく、ヴォルフの音楽に特化した一部が見た目だけ子供のまま、中身は共に(もしかするとヴォルフ以上に)大人に成長しているようなアマデでした。
大人の体を持ち音楽を自分の名で世に放てるヴォルフへ怒りと羨望すら持っていそうなアマデ。
終始クールな表情が影を逃れてで初めて年相応の子供の癇癪らしく歪むのが印象的でした。
星アマデ
ひまりアマデがヴォルフと共に成長した一部だとすれば、星アマデは子供のまま時を止めたヴォルフの一部。パパが冒頭で放った『子供のままなら!』が呪いとなって彼を縛っているようにも見えました。
影を逃れてでもヴォルフの腕を見つけた瞬間に泣き出しそうな表情が一変、「なんだこれを使えばいいのか」と言わんばかりの表情に幼い子供の持つ残酷さが見えて怖かった。
葉奈アマデ
演出家が「カリスマ性があるアマデ」と評していましたが正にその通り、アマデの姿を借りた人ならざるなにかでした。
なぜ愛せないので崩れ落ちるヴォルフを見ている時も、隣でヴォルフの母が息絶えた瞬間も葉奈アマデは少し微笑んでいるように見えて、ヴォルフが寝ている時はアマデの姿すらしていないのではと思わせる底知れなさ。
影を逃れてでも怒りと焦りというよりも「人間は無限で無く有限の存在なのでは?」と気づいたような、計算が狂ったと言わんばかりの迫力が印象的。
ヴォルフの腕を見て「有限を最大限に使う方法」を瞬時に見つけたような、人間では太刀打ちできない存在。カーテンコールでの可愛らしいご挨拶を聞くまで実は毎回怖かった。
3人とも本当に本当に本当に素晴らしいアマデでした。大人のあの熱量の歌芝居の迫力の最も近い所で台詞を用いずに重要なキャラとして存在することの過酷さ。
どうか三人とも世界中の柔らかく優しいものを食べていてほしい、大人は勝手に願っています。本当に素晴らしいアマデをありがとうございました。
最後に
数少ない男性のタイトルロール、ほぼ出ずっぱりの出番量に難曲に次ぐ難曲。『モーツァルト!』という作品を聞いた時に私はまずこの言葉達が浮かびます。
人間離れした美貌で薄幸の美青年の代名詞のようであった古川さん。
けれど2018年の初年から演じるヴォルフガングは一貫して人間らしい生き様であったなと、そして今年の2024年、その究極を生きる姿を観ることが叶ったのだなと一ファンとして勝手ながら幸運を噛み締めています。
『舞台の役として自由に生きる』、この境地に至ることがどれだけ難しく険しい道であるか。観客である私には想像もつきませんが、それでもそこに辿り着いた貴方の誠意と努力に敬意と感謝しかありません。
素晴らしいモーツァルト!を、忘れられないヴォルフガングをありがとうございました。
乾杯!古川ヴォルフガングに!