見出し画像

『貧困は犯罪率を上昇させる』という基本原則をおろそかにすべきではない。

最近ニュースを見ていると、過去にあった歴史的な犯罪レベルの事件の模倣犯が増えているように感じる。

過去にあった地下鉄サリン事件というのは今の若い人たちは知らないかもしれないが、知っておくべき日本の重大事件であるに間違いない。

日本のインテリが通勤する霞が関付近の、丸ノ内線、日比谷線、千代田線などで同時多発的に電車内で化学薬品であるサリンが撒かれて、多くの人が被害を被った事件である。

そしてこの前あったジョーカーの格好をした福岡からわざわざ上京して犯罪を犯しに来た人間は、電車内に火を付けた。被害者はサリン事件に比べれば少ないが、警備員が駅に配備されるなど、もう日本の治安が良いとは胸を張って言える状況ではないかもしれない。その前には、LINEでシカトされた後輩にキレた大学生が硫酸をぶち撒ける事件もあった。

その後も、年寄りの爺ちゃんが似たように電車内で刃物を振り回したりする事件があり、下手するとあと数件出てきてもおかしくなさそうである。

また、2001年にあった附属池田小事件では、男が小学校に侵入し刃物で次々と小学生を無差別殺人のように8人近く殺害や怪我を負わせる事件があった。

それはこの前あった、宮城の「豊里こども園」で起こった事件にも似ている。

もし被害が出ていたら、大変なことになっていただろうし、たまたま男性保育士が複数人いたらしいので捕まえられたものの、女性保育士だけだったり、帰りのタイミングなどが狙われていれば、違った結果となっていたに違いない。

こういう事件が起こると、1人のトチ狂った人間が起こす犯罪だから、未然に防ぐのは難しいように言う人が多い。もちろん人の気持ちをコントロールするのは難しいので、それはその通りなのだが、おそらく彼らが根っから人殺しに興味があって仕方ない人間じゃない限り、防げるようにも思う。

というのも、この前のジョーカーに扮して、わざわざ福岡から人殺しに来た犯人からは、仕事などが上手く行かずに、人生がうまくいかなかった的な発言をしているからである。

要するに、彼に仕事があって、自分が誇れる生き方がうまくいっていたら、この犯罪は起こらなかった可能性がある。

もちろん、それは仮説であって、絶対に防げるわけじゃない。しかしながら、もし人間が遺伝的に一定の割合で頭のおかしい人が生まれるのであれば、どの国でも犯罪率は変わらないはずである。

簡単に言えば、日本はある程度、豊かな国だったので犯罪率が低かったと言える。それは以下の資料でも確認できる。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

【参考:日本における犯罪率と所得との関係
セミ・パラメトリック分析による犯罪クズネッツ曲線の検証
功 刀 祐 之  岩 田 和 之*】

http://www1.tcue.ac.jp/home1/c-gakkai/kikanshi/ronbun18-2.3/07kunugi_iwata.pdf

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

もし、このまま日本の所得が上がらずに、貧困に悩まされる人が増え始めたら、単純に凶悪犯罪が増える可能性もある。

データで見れば、日本全体の犯罪認知件数というのは徐々に減っている。

https://www.kyoto-su.ac.jp/faculty/ju/2019_03ju_kyoin_txt.html

だが、低減しているからといって、これからも減り続けるというわけではない。

むしろ、インパクトが強い電車内でのテロや保育園を襲うような無差別殺人は、人々の恐怖心に深く刻まれてパニックを起こしやすい。

あの事件の後、同じ路線に乗る人は気が気じゃないだろうし、他の沿線であっても、次はこっちに来るんじゃないかなど考えてしまう。

そうなると人々は『警備を強化しろ』とか『監視カメラを付けろ』と口々に言う。

ただ、本当にすべきことは、そのような犯罪者を生まないような社会のシステムづくりであることは間違いない。人が豊かになれば自暴自棄になりたい人間も減るはずである。

『死刑になりたいから、人を数人殺せば死刑になると思った。』という供述はあまりにも身勝手だが、彼らにしてみればそれを実行するに値する精神力と環境で生きているわけである。

もし誰かがストレス無く働ける環境を提供していたらその犯人は犯罪を犯さずに救われるだろうし、犯人を救うだけでなく犯人に殺されるであろう被害者まで救えることになる。

そういうトチ狂った人間が生まれながらにしてトチ狂っているように思う人も多い。もちろんそういう人が全くいないとは私は言わないが、環境が変わったり、一人心を許せる友達がいたりするだけで、ほとんどの人間は矯正可能に思える。

非正規雇用の割合が増えている現代で、人を安く雇い続けることは凶悪犯罪を生む温床になる可能性がある。(※非正規雇用の人が犯罪者になりやすいということでは決して無い)

私は格差があることは悪いとは思わないが、本人の努力を無視して貧困レベルから抜け出せない労働者を生む社会構造は、日本全体にとって良くないと思う。

ゴミのような上司はどの会社にもいる。アイツの仕事なんか誰がやっても変わらないだろうというレベルの仕事で年収700万なんか普通にもらう人間もいる。

そういう人間に使われる年収200万の気持ちを考えたら、「アイツさえいなければ」と考える思考回路に共感できる人も多いはずである。

それが直接、人殺しに繋がらなくても、社会に良い影響をもたらすようなモチベーションにはならない。道端の花壇をめちゃくちゃにするかもしれないし、どっかに落書きしたり、痴漢行為に走ったり、泥棒になるかもしれない。

日本人のメンタルとして、基本的に人助けをすべき理由より、人を見捨てて良い理由を優先させる傾向がある。

例えば小学生が一人雨の中で傘なしで歩いていたとする。

大人がその光景を見たら、まず違和感を感じるのは間違いない。

警察に通報するとか、お父さんとお母さんがどこにいるか、など尋ねるだろう。

だが、「子どもに声をかけたら、自分が不審者だと思われて連行される可能性があるから声を掛けられない」という人が結構普通にいる。

基本的に『疑わしきは罰せず』の理論に基づくものであると思う。

そもそも犯罪を犯していないのに、犯罪者に思われる可能性があるから人の手助けをしない。というのも人間としてどうなんだろうかと思う。

この世の全てを誰かがルールで決めているわけではない。そんな事細かくマニュアルなんか人生に存在しないわけである。目の前の1つ1つの状況を自分で判断して対処できるのが大人であるべきだと私は思う。

いつだか大相撲の巡業で市長か誰かが倒れて、心臓マッサージをしようとした女性救急隊員を「土俵には男性しか上がれません」という理由で救命行為が遅れたというニュースがあった気がする。

そう考えると、人間の命というのは日本ではかなり序列が下なんじゃないかと思ったりもしてしまう。

自分の命は大事だが、どこの誰か知らない人間が勝手に死ぬのと自分が仕事に遅刻するのでは、自分の仕事の方が優先順位が高い人がほとんどかもしれない。

このようなルールに当てはめれば「あいつは派遣社員だからいくら優秀でも給料上げられないんだよ。うちの会社で雇うことも無いし」とか「アルバイトから社員になれる制度はうちの会社ないから10年働こうがずっとアルバイトだよ」となってしまう。

そのような状況下で、ずっと社会的地位が低い人達が一生懸命文句も言わず働いてくれるならいいだろう。

ただ、これからの時代は、下手すると給料を上げないと殺されるかもしれないし、学生アルバイトを数時間雇うなら別だが、介護があったりするある程度の年齢の人間を雇うとしたら、少なくとも殺されても仕方のないような事を平気で続けてきたという事実もある。

金が無いと生活出来ないということはこの世の誰もが知っている。なのに、実力や貢献度が向上しても給料を上げずに安く雇い続けようとする思想の持ち主が社会には数多くいるわけである。

それはつまり、人命より資本主義的な序列を優先させるべきと考える人間が多いことを意味する。

そして非正規や正規でも給料が安く不安定な労働環境で働かされている人間を救おうとする人もいない。金があって、給料を増やせるのに誰かが困っていても、「それを俺に言われても、俺の担当じゃないから。」と当然のように切り捨てて、「俺だって大変なんだよ。」などとわけのわからない話に向かってしまう。

コロナ失業などが増えたのにも関わらず、給料も上がらず、人々の精神状態は良くない。たとえ安定した仕事があったとしてもなんとなくダルいだろうし、将来どうなるのかなと漠然とした不安がある。

目の前にいる身近な他人は、決して赤の他人ではない。その人を助けることは、回り回って自分の大切な人や家族を助けることにも繋がり得る。情けは人の為ならずなんて説法するつもりもないが、事実としてその側面は現実にある。

飲食店でバイトをしていると、余った食料を廃棄する時、「このゴミ袋の食材は、自分の日給の3~5倍はあるよな。」と考えるわけである。

そうなると、自分は何のためにこの給料で働いているのかわからなくなる。会社からしたら捨てても痛くない、ゴミよりも安い値段で働かされているわけである。

そんなことが全国のいたるところで当たり前のように行われている。違和感を感じる人はいない。日常の光景になっている。

食べるのに苦労している人間が、食べ物を捨てる仕事をさせられたり、それを当たり前のことだと思っているのが現代人である。

そのような資本主義システムに自分は参加しているだけで、自分が命令したわけではないし、やれといわれたからやっただけ。と多くの人は考えている。

それでも、人に頼まれて人殺しをした人間も罪に問われるのは普通だし、マルチ商法に関わったら捕まるし、何か違和感を感じたら、変えないとダメなんじゃないか。という意識が働くのが人間の心であると思う。

考えることを辞めてシステムに呑まれるということは、凶悪犯罪に繋がる一因になるかもしれない。言ってしまえば見て見ぬ振りというものに近い。

定かではないが、日本人の共感性が高いのは地震や災害などが多く、古代から助け合って生きてきたからだと言われている、というのを何かで見た記憶がある。

地震や災害がある程度、防げるようになって都市化した社会では、「地震や台風で災難やなー」と他人事になっている人も増えていることだろう。

無差別殺人というのは、誰でもいいということである。特定の人間が原因の憎悪ではなく、自分以外の誰かという抽象的な憎悪に近い。

だとすると、その標的は資本主義であったり、社会であったり、その社会を維持させようとする人間に刃が向けられることになるかもしれない。

私は人殺しを肯定する気はないし、しようと企てたこともないが、平然とパワハラやセクハラをする上司を見て、「なぜコイツは真っ当に自分が生きていることに誇りを持てるんだろうな」と疑問に思ったことはある。

絶対にその上司がいなくなったほうが、少なくともこの会社にはメリットしか無いのに、その上司は自分ではそのことに気づかないわけである。

走る体力もなく、パス精度も悪く、チームメイクも出来ず、点取り屋のストライカーでもないしイエローカードが累積20枚くらい貯まっているオジサンをスタメンで起用し続けるこの社会のシステムは何なんだろう。と疑問に思わざるを得ない。

たまたま最近、サッカー日本代表の監督がいろいろ文句をいわれているが、これはそれを皮肉したわけではない。ただ、世代論はあまり好きじゃないが、あの監督の世代に見られる一種の特徴というか、社会に背負わされた十字架かもしれない。

システムに呑まれずに、世の中が向上するようなシステムを考え続けることが重要で、まずは身の回りの人のことに目を向けるのが先決かもしれない。








いいなと思ったら応援しよう!

もやい
無駄に思えることを一生懸命やっていきます サポートありがとうございます。