ザ・ノンフィクション婚活
以前から私の記事を読んでいる方なら、植草美幸さんのYouTubeチャンネルから何回か記事にしたのを目にしていると思う。
ザ・ノンフィクションで植草美幸さんが取り上げられていて、植草さんが運営している結婚相談所での婚活を頑張っている人達がフォーカスされていたので、自分なりの感覚からザ・ノンフィクションの番組を見て思ったことを書いてみたい。
なんで結婚する気がない(現実的に出来ない)自分が婚活に関する記事を書いているのか謎だが、自分なりに思うのは、自分に結婚したいという感覚が無いから、結婚したいと思っている人達がどういう感覚で生きているのか気になるからだと思う。
私がなぜそう思うのかというと、人間は大人になるにつれて経済的なウエイトが人生の中で大きくなり、愛情とかよりも経済的なメリットを取るために人と繋がろうとする傾向が大きくなってくるからかもしれない。
それは日本独特で、海外だと経済的な事情は加味しても、愛情があるかどうかが優先される。好きじゃなくなったら、子供がいても離婚する。
日本の婚活を見ると、結婚も一種の”人脈”のように感じてしまって、なんか圧倒されてしまう。ヨーロッパのように事実婚が増えてほしいとも思わないが、結婚して子供を生んで育てるというスタイルと現代社会のライフスタイルの摩擦みたいなものは垣間見れる。
聖人君子のような言い方かもしれないが、婚活を本格的にやろうとするほど、愛情が無い結婚になる気がする。データを取って分析して、相手と自分のデータ上の相性を確認して、まるでデザイナーベイビーを作ろうと意気込んでいるように傍から見ると感じてしまう。
ザ・ノンフィクションのテレビでは、見事プロポーズ成功して婚約までいったカップルの顔にモザイクで、苦戦している男性2人はモザイク無しということで、婚約カップルがヤラセだったら嫌だなとか思いながらも、やはりこれという原因を言えないまでも、苦戦しているお二方が結婚できないだろうなという雰囲気はなんとなくわかって、視聴者も一緒に成長できる感覚になる。
こういうのは就職活動の面接などでもそうで、自分では志望動機などを整理して、あれこれ頑張っていても、面接室に入る時がめちゃくちゃ猫背だったり、「そのぉ~」とか「ですから、えぇー」とか、言わなくていい癇に障る口癖を連発していたりするのが原因だったりわかることもある。
植草氏は、恋愛と婚活は違うとはっきり断言しているので、結婚相談所というのは出会いの場とかではなく、本当にただ会員を結婚させるためにあらゆる手段を尽くす場のように見えた。
サッカーで言うサイドから攻めるだの、前線からハイプレスなんてレベルでなく、前半開始直後からロングスロー・ロングフィード多用でパワープレーをやってのけるような、結婚という勝利を手にする為に手段を選ばずに全力を尽くしてる感じがした。
テレビ番組なので、ヤラセなのか本当なのかわからないが、なんというか結婚というのは、したければしたらいいし、したくないのに無理にする必要はないというのが現代のスタンスだと思う。
昭和時代のように、30歳過ぎて「いつ結婚するの?彼女・彼氏いるの?」みたいなことを言われる機会も減ってきている。
結婚ってどうしたらできるの?と迷っている人は多いのかもしれないが、私の肌感覚で言うと、確実に金だと思う。
カネがあればあるほど、結婚はしやすい。これは男性に限らず女性でもそうで、大企業であれば結婚している人が多いし、大企業で社内結婚したら福利厚生でいろいろメリットがあるし、結婚しても働きやすい環境を整えようというムードに乗って、余計結婚しやすいサイクルになる。
飲食やサービス業などじゃない、年齢層高めのバイトのフルタイムや派遣が多い職場であれば、20代・30代で結婚していない人がかなり多い。逆に、大企業で正社員の仕事の中に派遣が2~3人サポートでいるみたいな職場は、派遣だけ結婚してないみたいな感じが多い。
それは社会の縮図というか、そういうもん、という感じになっている。番組中でも植草さんが語っていたが、年収300万の人が年収1000万の伴侶を求めるのは筋違いというものらしい。
恋愛や何かしら結婚相談所とは別の形で出会うなら可能かもしれないが、結婚相談所というのは、そういう場ではないらしい。確かにずっと相談所に在籍していても不良債権化して仕方がないし、リミットがあって早めに結婚させようと思えば、データで過去の数字からどういう人がどういう人と結婚しやすいかを割り出してくっつけるのが、システマティックで効率が良い気がする。
そういう現実を見ると気が滅入るというか、私は結婚という形はそういうことではないと思う。だが、これは仕事として結婚相談所という特性上、仕方がないだろうし、受験のための塾に行っている学生に、「塾で学ぶことは本来の学問ではない。社会では一切役に立たない」みたいなことを言っても仕方がない。人生で結婚したいと思う人へ結婚を与えるのが結婚相談所であり、それ以上でも以下でもない。
私の感覚に近い人は、おそらく結婚できていない。じゃあ、私のような感覚を持っている女性はいないんだろうか。と思っていたら、やっぱりいるもので、こちらのラジオ「バービーとおしんり研究所 Amazon music限定配信」で横澤夏子さんが、婚活について納得できることを語っていた。
お笑い芸人の横澤夏子さんは、20代前半から婚活パーティーに参加しまくって、マルチ商法の勧誘の人だと疑われるくらい積極的だったらしい。
星の数ほど婚活パーティーに参加し、その中で横澤さんが学んだ成果としては、婚活とは理想の相手を探すのではなく、究極的に「自分探し」になるとおっしゃっていた。
どういうことかというと、例えば「身長180cm以上の人が理想」として、フィルターをかけていたとする。だが、理想の人に出会えないと、そもそも何で身長180cm以上がいいんだろう?と考え始める。
その結果、「デートの時に、上を見上げたいから」という抽象的な理由であることを自覚し、「それって結婚に本当に必要なことかな?」と考え直して、身長180cm以上という条件を外して、現在の旦那さんと巡り合ったということらしい。
身長以外にも、「面白い人」だとか「長男じゃなく次男」だとか、経済的な条件だとか、勝手な固定観念や憶測で掛けていたフィルターを外していった結果、現実離れした結婚のイメージを、現実的なものに近づけていけて成功できたとの事だった。
これは私の就活でもあることで、現実にある会社から選ぼうとしたら、自分の理想の働き方や労働条件ばかりを押し付けても仕方がないということがある。
満員電車が嫌だから午後からの仕事が良いと言っても、正社員であれば、それだけで世の中の仕事の5%位になると思う。あったとしても、自宅から通えない距離だったり、やりたくない仕事内容だったり、給料が激安だったりする。
じゃあ、なんで午後からがいいの?と見つめ直せば、別に満員電車を避けられたらいいなら、9時半とか10時くらいでも、職場の近くに引っ越せばなんとかなるんじゃない?みたいに、可能性が広がる妥協案を探していく。
人生において、自分が何かの呪いにかけられているように、「こうじゃなきゃ嫌だ」と思い込んでしまうことがよくある。
仕事はしていないと収入源がなくなるので生きていくのが厳しいが、結婚に関しては正直そこまで必要なものなのかな。と私は思っている。
だが、結婚や子供を授かるにもタイムリミットがあるので、自分のタイミングで決めないと、後々になって後悔してしまうかもしれない。その点は私もまだ若いので先のことがわからないというのもあるし、人生は皆同じじゃないので、考え方によるといったところだろうか。結婚が幸になることもあれば、不幸になることもある。
20代で思っていること、30代、40代、50代と考え方は変化していく。要するにそれが、あの時なんであんな考え方でやってしまったんだろう。と、後悔につながるのだと思う。
自分としては、結婚に関して相手にフィルターを掛けるほど経験がないというのもあるし、こだわりもないし、相手から選ばれるようなフィルターを突破できてないというのもある。かといって、好きでもない人と結婚したいとも思わない。こういう人間は結婚できないまま終わるのだと思う。
ザ・ノンフィクションを見ていると、女性から一方的に家事能力を見定められたり、どんな晩飯を作れるのかライザップみたいに毎晩の食事をLINEで報告させたり、最終的に学歴が低くて結婚相手には無理でした。とお断りされ、あれって結婚する相手にやることなのかな?と疑問に思ってしまう。
赤ちゃんが生まれたら、赤ちゃんのオムツを代えたり、離乳食作ったり、そういう伸びしろの気持ちがあるほうが将来的に大事なんじゃないかと思ったりもするが、どうしても目先の条件や安心材料が欲しいのかもしれない。だが、女性の勘というのも、あながち馬鹿にできない要素でもある。
なんというか、結婚している夫婦を見ていると、犯罪者夫婦もいるし、奥さんがおしゃべりで旦那さんが寡黙とか、夫婦で全然違うことをして別居してるとか、それでも仲良しだったり、ニコニコした完全仮面夫婦だったり、ずっと夫婦で同じ商売を30年以上してるとか、いろいろな形がある。
どんな形であれ、夫婦がお互いに納得してその形に落ち着いているのが重要である気がする。簡単に言えば、それが気が合う者同士ということなんじゃないだろうか。世間がこうとか、普通はこうとか、世間の結婚像を平均化する必要なく、お互い話し合って相手一人と自分が納得すればいい話である。
一概に結婚がこういうもの。と語るのは難しい。だからこそ、自分に合う人がいなければ、それで仕方ないと思ってしまう。横澤夏子さんのように、あらゆる場所に出会いを求めていくからこそ、結局は出会えているわけで、毎日同じような行動をしていたら、毎日同じような日々が流れていく。
これまでの人生を変えようと思い立った時、自分探しの旅が始まるのかもしれない。
愛とは何だろうか。と考えたら、エーリヒ・フロムの「愛するということ」を読んでもらいたい。私は高校の時に読んだ。
簡単に言えば、「与えたい」と思う気持ちだと思う。
欲しい、欲しい、欲しいと相手に要求するのは愛じゃない。赤ちゃんの世話をしたり、相手が要介護になっても世話をできるくらいのメンタルが愛なんだと思う。
現代の人間は簡単に人を愛せると勘違いしている。だから愛されるような方法ばかりを模索して、コミュニケーション能力が低下しているのだと思う。話し合ってすむことでも、愛されようと先行して保守的になり、行き違いを生む。
恋愛ドラマの見過ぎかもしれない。形式的すぎるというか、憧れが強すぎるというか、恋愛フォーマットの企画に沿って無ければ弾かれる感じである。それでも当人同士が幸せならそれでいいし、結婚できない人が増えるだけかもしれない。
人を愛する次元に到達するには、相当な技術が必要になる。人間性を磨くのに、かなり時間がかかるだろうし、相手と話し合って分かり合うにも時間を要する。
結婚は当たり前のことじゃなくなった現代、社会的ステータスとしても、人間性としても求められるものが多くなる。個人的にはそういうフィルターを外して、横澤さんのようにどうしたら相手を愛せるのか考えながら、世の中の人と向き合っていきたい。