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ダイヤモンド・プリンセスの対応と日本のリーダーシップ

日本人にはリーダーシップがないというのは、世間でよく言われることだと思う。

その真偽はわからないが、真偽を確かめるには、リーダーシップとは何かという事を定義しなければならないし、おそらくそれは定義されるものではないと自分は考えている。

私は就職活動を腐るほど受けて、実際に腐って現在に至るわけだが、採用面接に望む前の適性試験のようなもので、必ずと言っていいほど

【自分にはリーダーシップがある方だ】

【当てはまる やや当てはまる やや当てはまらない 当てはまらない】

のような何の意味があんのかわからない適性検査を反吐が出るほど受けた。

多分試験に落ち続けるごとに自分の性格が外交的から内向的に変化し、芸術家を尊敬度が増していったことは間違いないと思う。

この試験で実際にリーダーシップがある人材かどうかを見分けることは不可能だろうが、リーダーシップがある人間に自分が見られたいかどうか、ということや、リーダーシップがある人間だと自覚しているか勘違いしているかということを、面接官は面接前に照らし合わせることが出来るとは思う。

もちろんそれで納得できる成果を出すには、面接官と受験者の考えるリーダーシップとは何かということが合致していないといけない。

ネスレの面接を受けた時も、リーダー的な経験をした事はありますか?と面接中に聞かれたことがある。それほどリーダーは至る所で求められている。

しかし、私は不意に考えるのだが、本当にリーダーは必要なのだろうか。我々はリーダー、あるいはリーダーシップとやらに何を求めているのかということである。

前に「採用基準」という本を読んだことがある。確かマッキンゼーに勤めていた方が書かれていた本だとは思うが、簡単な言い方にはなってしまうが、リーダーシップというものは誰もが素質として持っているという内容が書かれていたと思う。

私もその意見にはかなり納得できる。そもそも生まれてからの経験などでリーダーシップを持ち合わせている人などいるのかどうか疑問すらある。

この人には強く意見が言えるけど、この人には面と向かって意見を言えないという体験は誰でもあると思う。ただ、誰それ構わず自分の意見をぶちまける人を我々はリーダーとして尊敬できるのだろうか。トランプ大統領やボリス・ジョンソン首相は日本でも生まれうるのかということである。

変な話、リーダーに向いているという人かどうかは、たまたまその組織の部下に信頼されるかどうかであったり、狂ったリーダーのパワハラまがいの圧力でも耐えられる部下がいるか等、組織や環境によってかなり違いがあると思う。

退職代行を行う会社があるが、自分はどれだけバイトが嫌で仕事に行きたくなさすぎても、退職代行を使うことはしなかった。

辞めたい時にやめられないという文化であったり、退職の意志をはっきりと上司に言える雰囲気ではないというのは、日本の特徴的な文化とも言えるらしい。簡単にいえば、ビジネスでもマーケティングでもそうだが、場所が違えば、求められる物が違うという話である。

エリンメイヤーという方が書いている「異文化理解力」という本がある。それによると、国ごとにリーダーシップの認識の違いが書かれている。

内容はうろ覚えだが、確か北欧のノルウェーだかデンマークなどの国では年齢や社歴、雇用形態など関係なく、組織全体がフラットな関係で経営方針などで意見を出し合い、全員が納得できるような有効的な意見を出せる人がいれば、じゃあ、君が主導でこのプロジェクト進めてみようか。という雰囲気になるらしい。

簡単にいえば、個人としての性格や素質といった情報より、目的に沿った意見の質に重きを置かれる傾向がある為、リーダーシップを持つ人に従うというよりは、状況に適応したアイデアに沿って全体が動くというイメージである。

逆にプーチン大統領など、日本人から見ると、いかにもリーダーシップ満載というようなイメージをもつロシアだが、簡単にいえば豪腕であり、独断での意思決定能力を持つ人間をリーダーシップを持つ人材として求められる傾向があるらしい。簡単にいえば、人ありきでのリーダーシップと言える。

ロシアと一口に言っても多民族国家ではあるが、プーチン大統領の姿を見てもわかるように、リーダーたる人間は、意思決定を迷わず行使し、国民全体をリードしていくというイメージがロシアには求められていると思う。

それを踏まえて日本はどうかというと、様々な意見があるが、どちらかと言うとロシアのようにトップ立つ人間が決めるというイメージが強いように感じる。

しかし、それは国民がそれを望んでいるというより、簡単にいえばリーダーという責任者を決めるようなイメージに近い。

もし、このプロジェクトが失敗したら、リーダーとしてのお前の失敗だと、責任の所在を明確にできるような、ある種の、学級委員と言われながらも、実質的には先生の雑用係であるような、組織の中で必要だからというリーダーに成り下がっているイメージがある。

安倍首相が決めたことに国民全体が動いているようなイメージは全く無い。アベノミクスで経済成長しているだの、雇用は増えているだの言っても、誰もがこの国は平成から令和になるまで、衰退しているのを知っているし、おそらくこれからも希望がないことを知っている。

我々は安倍首相を直接選挙で選んだわけではない。あくまでも政治家レベルまでしか国民は決めることが出来ない。どこぞの政治家が横領しただのワイドショーがグダグダ言っているが、残念ながらどこかの誰かが選んだ政治家である。その点は国民にも責任がある。

前置きが長くなりすぎた割に、結局こんなもんか、という感覚になるのを承知でダイヤモンド・プリンセス号の話を始めるが

今回の件で政府は何を決めたのか、国民の不安を解消できるような案を打ち出したのか、おそらく日本国民で理解できた人は、ゼロだったと思う。

我々日本人というのは地震のある国で生まれている。大震災で多くの犠牲が出ても、先人たちの知恵やテクノロジーの発展で乗り越えてきた。

誰しもが備えあれば憂いなしで、情報を正確に取得することの重要性を理解しているし、なによりパニックになることが一番あってはならないことだと認識しているはずである。

地震が来るかもしれないと、準備を備え過ぎても、なんだ結局来なかったじゃないか。となればそれが平和だと言うことを知っている。

今回のコロナウイルスの件で、その教訓は活かされたのか、政府は国民をなんだと思っているのか理解に苦しむ場面が多かった。

元々の発生源は中国だなどと言ってしまえばそれまでで、これから宇宙人が襲来して街をめちゃくちゃにしてしまう事態や、もっと現実的なところで言えば北朝鮮のミサイルが日本の民間機や街に落ちる可能性もある。

その時に、致死率の低いコロナウイルス程度でこれだけ後手後手に回ってしまう政府の対応は、正しい判断ではないことは明確だろう。結論から言えば、国民がリーダーシップがあると思って選んだ政治家が選んだ内閣総理大臣は、リーダーシップが無かったという話になる。

これは我々がリーダーシップと考えていたものが、緊急時に役に立たない全く見当違いの産物だったか、もしくは、リーダーシップなど存在しなかったのかどちらかだと思う。

ダイヤモンド・プリンセス号の中の乗客もそうだが、船に閉じ込められたまま従業員として勤務している人達も気の毒でしかたない。

私がもし海外から船に乗ってこんな日本の対応をくらったら、私は間違いなく日本は先進国としてのレベルに到達していない国だと判断するし、一生旅行もしないと思う。

子供が日本人と結婚したいと言ったら絶対反対するし、おもてなしの文化と言われても完全な嘘だと知っているし、メイドインジャパンもただ高いだけのダサい商品に見えてしまう。

中国が即座に突貫工事で病院を創り上げた姿は、さすが中国だなと思うところがあった。具体的な表現はできないが60%くらいの計画でも、計画を進めながら100%を目指して向かっていくというイメージが近い。

ただ、それが不測の事態に決断するということである。それだから失敗も臨機応変に成功するパターンもあると思う。

もちろん中国政府はコロナウイルスをもっと早く公表できた事や、WHOとのやりとりも怪しい点が多いが、感染拡大を収めるということに重点を置いた政策として、武漢を隔離するなど強行手段は個人的にはかなり評価できる点だと思う。

武漢は首都ではないにしても、東京と同規模の人口を持つ都市を日本政府にあそこまでの判断ができるかと言われるとノーでしか無いだろう。

今回のダイヤモンド・プリンセス号の日本の対応は完全にチャレンジを欠いた失敗であるに違いないと思う。放っておいたら船の中で感染が広まるのは誰がどう考えても理解できたはずである。

中国のように病院に患者が溢れるほどパニックになっているわけでもなかったし、医療設備などが備わっていないわけでもない。さまざまな国籍の方々が乗っていたことは間違いないが、多くは日本人の高齢者である。

船内で持病を持つ人が、常備薬が切れてしまうと困るなど、様々な情報も政府は得ていたはずである。緊急性のある判断が求められる中、死者を出す程の船を見殺しにした罪は大きいだろう。

ダイヤモンド・プリンセス号の重要員の人達がとても良く働いてくれてたと言っていた乗客がいたのが印象的であった。船に閉じ込められた日本人にとっては、日本にいるにもかかわらず、心の支えとなってくれたのは日本政府より異国の従業員なのである。

日本語が通じない海外の乗客達の立場を考えると気の毒で仕方ないし、本当に申し訳ないとさえ思う。

日本政府の能力ではもう船に乗っている3700人程度の人間も救い出すことは出来ないのである。単純に考えてそんな政府が1億2000万人の財政赤字に超高齢化を迎えている国を救えるわけがない。

この場合の日本政府に求めらた能力とはなんだろうか。

簡単にいえば決断力だろう。チャーター便で武漢から帰国した日本人2人が検査を受けずに普通に帰宅した際、我々はかなり政府の対応に疑問を持った。

政府の見解としては、法律がないので、強制検査をすることはできなかった。との事だったが、残念ながら法律を作るのが政治家の一番の仕事であって、それはあまりにも幼稚な言い訳にしか聞こえなかった。

なぜ武漢から帰国した人達を収容する施設があるのに、ダイヤモンド・プリンセス号の乗客を収容する場所がないのか。

中国のように、無いなら急いで作れ!というような心意気を政府が見せることもしなかった。その結果、死者を出したし、検疫官や船に入った役人まで感染者が出た。

よく人間とロボットの違いは何かという問いに、ロボットは人の命令を効くことしか出来ないと言われるが、この国の政府は、法律と自分たちの立場を守ることを命令された質の悪いロボットだろう。

東日本大震災も原発事故自体が原発のせいとなっているが、あれも結局は政府や東電の人災であって、しっかりと職務をまっとうして人命優先にしていれば問題は起こらなかったはずだ。

結局日本は、何が国として優れているのかわからなくなってきた。

結婚して子供産まない世帯が増えるのも、こんな国なら子供も産んでやらないほうが幸せだろうとさえ思ってしまう。

就職しようが、何しようが、国が潰れたらおしまいであって、そのような問題に向き合わないことが、この国の国民の幸せとして定義されているような気がしてならないのである。

結局、深刻な問題の責任から逃れたいという文化が、日本の決断力を鈍らせる最大の要因である気がする。




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もやい
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