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憧れていた世界が、絶望だったとしたら(あちこちオードリーを見た感想)

昔、「夢をかなえるゾウ」という本がヒットした。

今でもヒットしているのかもしれないが、調べてみたら4巻まで出版されていた。

私が読んだのは1だけだが、「何事も期待しすぎないほうがいい」的なことが書かれていたことは覚えている。

昨日(12月15日)の「あちこちオードリー~インパルス板倉の絶望の兆しチェック~」を見て、結構社会で重要なことを端的にまとめて素晴らしいことを言ってるな。と思った。

まずお笑い芸人という世界に憧れて入る人が多い割に、お笑い芸人としての仕事のみで芸能界を生きていける人というのは、かなり希少ということである。

漫才師であれば、漫才しかやらないというのは、かなり無理がある。

最近だと漫才とコントという分け方をするので、漫才師とコント師なんて言い方をするが、テレビに出てずっと漫才とコントをしているわけではない。

昔はネタ番組という、ネタだけ永遠にやるテレビ番組だったり、女優やアイドルと芸人が一緒に出るコント番組がそれなりにあった。今はほとんどクイズ番組になっているが、ネプリーグが始まったばかりの頃もクイズブームだなんて言われていた。

お笑い芸人と言っても、単純にテレビに出てテレビタレント的な仕事をやっていきたいという人もいる。普通に司会をやりたい人もいるだろうし、そこらへんの分類は特にされていない感じがある。

欧米だと日本のアイドルや芸人のようなくくりがない、歌手なのか俳優なのか、コメディアンなのか区分けがよくわからない人は珍しいらしい。

芸能界は一般の社会とは違った華やかな世界で、中でもお笑い芸人というのは、一般社会では生きていたくないようなハミ出し者が一発逆転で大金を稼げる唯一の道であるかのような雰囲気もある。

そのようなお笑い芸人になろうと、芸能界に憧れる人も多い。

実際は芸能人と銘打っていても、ほとんどがフリーター・無職の状態で、芸能界一本で生活できない人がほとんどかもしれない。数年前まで毎日テレビで見る人も、急に今は見なくなったりしている。

私もお笑いの世界には憧れていた。芸人になって好きな芸人の後輩になって、会いたい人に会って、珍しい経験をしたいと思っていた。しかし、いろいろ調べるほど、どうもなんだか思ってたのと違う感じになりそうだな。と高校か大学あたりで思うようになった。

漠然と私が憧れていたのは、ちんちんを出して、人の悪口を言ったり、ウレタンのデカいバットで人をぶん殴ったりして世間一般の人より大金を稼いで生きていけるから芸能人になりたいと思っていた。その一方で大御所が出るクイズ番組の司会とか、自分が生まれる前に人気だったような歌手と一緒に仕事したら、どうするんだろうと要らぬ心配をしていた。

現実的なところでは、サラリーマンのような8時間近くパソコンに向かって笑顔が無い仕事なんか人間がやる事じゃないと思っていたので、笑わせることが仕事であれば、周りの人とふざけて笑いに溢れた職場であることは間違いないという確信が持てたからでもある。

もっと細かく言えば、芸人という仕事の幅は限りなく無限で、飽き性の自分としては同じことをずっとやらなくて済むし、世界中に飛び回ったりするのも仕事で行けると思っていた。

ざっくり言ってしまえば、一般の社会人では不可能なことを仕事として成立させて、ストレス無く生きていけるように思っていた。

だが、調べてみればみるほど、そうではないことがわかってきた。

個人的に覚えているのは、めちゃイケでしりとり侍や数取団だったり、トイ・ストーリーのコスプレしたアトラクションで氷水のプールに落ちるのも、世間が廃止しようというムードが高まって、自分の理想の芸人の仕事というのは無くなっていくんじゃないかと思い始めた。

そこからは今知るように、その予感は現実のものとなって、CMの広告代などもネットに抜かれて、テレビの影響力というのは健在ながら、ネットの台頭によって一党独裁という感じではなくなった。

そして今はもう、芸人と言ってもエリート・サラリーマンのように、仕事できる人が活躍するような感じもある。

芸人であっても、世間の言うことを聞いて、上司や取引先の言うことを聞いて最大限の仕事をする。社会のハミ出し者の受け皿では確実に無くなってきているし、みんなが応援したくなるような主人公が求められている感じがある。

12月15日のあちこちオードリーに出演していたインパルス板倉さんが『スナック菓子みたいな人生を歩んだ人間の未来は見える』的なことを言っていた。

このスナック菓子みたいな手軽な需要を拾いに行くのは、まさにサラリーマン的な仕事で安定を取ることだと思う。開拓していないというか、子供の前でオナラしたら絶対ウケる先の見えることを大人相手にやればいいパッケージ化されてる雰囲気の笑いである。

私が一番芸人に憧れていたのは、『人間はなぜ笑いたいのか』という問の回答が見つけられる気がしたし、定量化や数値化出来ない笑いという感情を引き出せる人間が一番素晴らしい尊敬されるべき人間と思っていたからでもある。

手ぶらで登場して、喋りだけで表現して、人を笑わせて価値が生まれるというのは一種の打ち出の小槌のような金の稼ぎ方でもある。

仕入れも無く何も生産しなければ、専門知識を教えるわけでもないし、笑ったあとの人間と前の人間の人生が大きく変化するわけでもない。

地球上で一番おもしろい人間になれば、喋っているだけでお金が稼げて、なんだか人として存在価値を認められた気分にもなる。人間に序列をつけて、地球上で一番おもしろい人間を決めることはできるのか興味もあった。

そして、また板倉さんの話に戻るが『お金などの対価は、能力ではなく人気や需要に支払われる』という事である。これはYoutubeなどを見ても、多くの人が感じていることかもしれない。

同じ時間帯に裸で芸人が走り回っている番組と、国の防衛費を上げるべきか討論する番組が放送されていたとして、『能力』は確実に政治の討論番組のほうが必要なのに、実際のギャラはおそらく芸人の方が高い可能性がある。

それは政治とお笑いではなく、お笑いとお笑いでも当てはまる。これはお笑いという仕事で、広告が関係してくるようなビジネスだと、この傾向が強まるのかもしれない。

人気が皆無だけど面白いお笑い芸人でもそうだし、めちゃくちゃマイナースポーツだけど世界トップ選手みたいな場合も当てはまると言える。

ダイソーで商品がめちゃくちゃ便利に改良されたら、それはかなり能力が評価されて、需要が拡大することに繋がる。だが、芸人のような仕事というのは、目に見えないものを扱うので、その改良というのは見えにくい。

芸能界でなくても、自分のやっていることを貫くべきか、世間と足並みを揃えるべきか悩む人も多い。簡単に言えば、これをやりたいという特定の仕事があるのに、受け皿がなかったり、生活できるレベルまでお金を稼げるか微妙というものである。

アート系の仕事もそうだろうし、小説家とかゲームを作ったり、クリエイティブ系の仕事もそんな要素が強いかもしれない。

世間に合わせずに自分のアイデアで世間をあっと言わせるのはカッコいい。だが、貧乏だとダサいし、永遠に売れない可能性もある。

生活できるレベルや大金を稼げるレベルまで売れるということは、それだけ買う人がいるということである。要は多くの人に刺さるという事で、その分だけ大金が入る可能性がある。

逆に言えば、多くの人に刺さるということは、それだけ分かりやすさを追求した事でもあり、オリジナリティのある尖ったアイデアからはほど遠いとも言える。

ヒットさせるのも簡単ではないので、ベタを抑えてネタを作るのもいいと思う。ただ、見る人から見れば、『あぁなるほどね。』みたいな感じになってしまう。客の笑い声で会場場ぶっ壊れるようなネタにはならない、ということだと思う。芸人にウケるネタと世間にウケるネタは違うなどともよく言われる。

板倉さんは自分の世界を貫いた人間の末路がどのような人生になるのか、ご褒美はあるのか、と気にしていた。

私も正直、それはすごく気になる。お金の心配がない人は必ず自分の好きなことをやったほうが良いと言う。それはその人の人生経験から編み出された理論なのだから、その人の中では正解だろう。だが、他の人が同じようにやったら、お金の心配が無くなるくらいの結果も同じように付いてくるのだろうか。

そんなことが不安なら、最初からスナック菓子を売るような人生を歩めば良かっただろう。だが、それをやると自分が自分じゃなくなる気がするから、今の自分がこうして生きているのだと思う。

私が芸人を好きな理由は、自分が自分として生きているからかもしれない。

番組の司会は人気によってコロコロ変わるが、その芸人のネタはその芸人にしか出来ない。同じネタを他のコンビがやったところで、プロの筆と絵の具で他人が絵を描くのと同じである。

借金まみれのギャンブル狂いだろうが、旧帝大卒のエリートだろうが、ネタをやる上ではフェアにネタが評価される。その人が何者であろうが、その人の人生を投影したネタで勝負することになる。そういう意味では、肩書社会から逸脱した、フェアに評価を貰える社会である気もする。

テレビ番組になると、その人の性格や人間性や肩書までいろいろ掘られて、玩具にされる感じはある。世間に消費されて、それが芸能界の絶望に近いものだろうか。

売れてしまうと、社会に組み込まれて、繋がりが増えて、社会人のようなサラリーマンになってしまう。その世界が嫌で、芸人として異世界に入ったのに、せっかく苦労して売れて、テレビ局の人と深く関わって、たどり着いた先が社会のど真ん中だったとしたら、猿の惑星のラストシーンみたいな絶望感だろう。

今の異世界はYoutubeなんだろうか。それもじきに整備されて、社会に組み込まれる気がする。そもそもグーグルが支配する世界なので、どうするもグーグルの神様の言う通りである。それなら、フェイスブックのメタバースだろうか。それも現実味がない感じがする。

もっと、人間が人間のままで認められる世界は存在しないんだろうか。

人間らしく、自分らしく生きて、自分が良いと思うものを表現したい人間に価値を与えて欲しい。例えしょーもないことでも、人を笑顔にできる人間の価値は高いと思う。

そんな人間を見ているのが一番ワクワクして面白い。
















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