阪神淡路大震災の記憶

今日は、阪神淡路大震災から22年。もう、そんなになるのかという思いです。私自身は、前職、海上自衛官として直接災害派遣に従事したわけではなかったのですが、記憶にとどめるべきことは多々ありましたので、記憶のままに記しておきたいと思います。
当時、私は横須賀の2隻の護衛艦で編成される護衛隊に所属していました。隊付と俗に呼称される指揮官の副官、幕僚のような仕事をしていました。前年に結婚し長女が前年の9月に誕生し、部隊から車で30分位の場所の官舎で新婚生活をおくっていました。当日の朝は、いつもどおり自宅で0530に起きて朝食をとっていたところ0547に震災が起きNHKの臨時ニュースで当初は震源地は東海地方だと報道されました。妻の実家は愛知県だったので妻の実家の安否が少し心配でしたが、車で職場に向かいました。
0700に職場に到着してテレビを見たところ、阪神高速道路の高架が倒れ、長田地区の火災の映像が流れており、これは災害派遣だとすぐ所属する艦の現況を確認しなければならないと考えました。
当時、私が所属する部隊は、横須賀から呉に年度末に転籍することとなっていて、1月17日は、呉から多くの乗員が転勤してくる日でした。その経路上である神戸はおそらく交通は寸断されていることが予想され、着任する呉からの乗員の移動には困難と危険が伴うことが予想されました。海上自衛隊は発令日に着任することが原則ですが、上級司令部から交通機関の復旧まで着任しなくても良いとのお達しがありましたが、当時は携帯電話が普及しておらずそのお達しを伝えることはできず、多くの乗員は、ある者は松山経由空路により、ある者は日本海経由でその日のうちに着任してきました。海上自衛隊の躾は幹部自衛官だけではなく末端まで浸透していることを深く感じました。
横須賀からも相当の艦艇がその日のうちに神戸に向け災害派遣で出港していきましたが、私の部隊は横須賀から呉への転籍準備に専念するとの配慮から災害派遣されることはありませんでした。その後、明らかになる惨状に何も貢献できないことにもどかしさを感じる日々を過ごしました。
しかし、翌年に、災害派遣された艦に乗り組むこととなり、当時派遣された乗員から直接話を聞いたり、更にその2年後にその艦で神戸に入港したりして阪神淡路大震災について伝聞する機会は多くありました。
自衛隊にとっては災害派遣における当時の村山内閣の対応の遅れの問題が顕在化してその後の多くの法制上の改善に繋がることとなりました。
定年退職前後に、縁あって芦屋市と神戸市に1年ほど居住しましたが、一見すれば震災の痕跡は見られませんが、子細に見ればどの公園にも慰霊碑があり、知り合いになった方からは震災の生々しい話をお聞きしたりして、記憶にとどめるべき大規模災害だと思っています。
今後、私が生きている間には、間違いなく次の大規模震災が起こることは必ずあるでしょう。その時に備えておく必要性を深く感じています。

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