春を謳う鯨 ㊵
麗はフォークを持ったまま、鈴香の右手をゆびさした。
握りしめてるから。何本も跡、ついてる。婚約者さんからの、プレゼント?
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鈴香は…どうすれば…?
鈴香はもちろん、何も考えなかったわけではない。けれど行動は、何も考えなかったのとそれほど、変わらなかった。結局「ちょろい」人みたいだな、と苦々しく思いながら、本当に「そういう」ことにならないなら、会えると…麗に、言った。連絡先を交換して、麗はメッセージがいいか、LINEがいいか、頻度はどのくらいがいいか、時間帯はいつがいいか、電話は掛けてもいいか、事細かに尋ねた。鈴香は、別に、非常識な時間帯でなければなんでもいいし、いつでもいいと言った。
だからね、聞かれて困るようなことは、話さないで…見られてもいいような内容しか、送らないで。守れる? 守れないなら、もう何も信じない。いいね?
麗はどことなく複雑そうな顔をして深く、頷いてから、女の子のふり、したほうがいい?と、訊いた。鈴香は首を振った。
男友達で、女の子のふりしてメールしてくる子、いる?
麗は、それには答えずに、おしぼりを丸め直しながら、目を伏せた。
あのね。鈴香さん。俺、…鈴香さんに…会いたい、よ。
鈴香は無言で、麗を見つめた。
…なに?
ううん、ほんと…私のこと、どんなふうに、好きなのかなって、思って…。
わからないんだ。
…。
だから、会いたいんだと思う。会うと少しずつ、わかってくる気がする。
もう…わかったこと、ある?
んー、自分のことは…あんまりかも…。会うと、会えなくて苦しいのがなくなってすごく、楽になるのは、わかった。
…そう…。
鈴香は…鈴香は恋愛は、わからない、けれど、…そういう恋愛は、きっとすぐに、会わないほうが楽になる…鈴香は気づけば、それを寂しいと思わなくなっていて…大人に、なったんだな…。
いいよ。来週の水曜日、じゃあ食事、しようか。
麗の顔つきが見るからに明るくなって、鈴香はまた当惑しながら、もごもごと、話を続けた。
…あんまり、遅くなるのは嫌だから、今日と同じくらいの時間帯がいいな。それで、どう?
…うん。うんうんうん。うんうんうんうん。
ちょ、なに、犬みたい。
鈴香さんて、夜景見ながら食事するの好き?
…あ、え、まあ…そういうのはそういうので、嫌いではないけど…。そういうところって、学生から行くところじゃないよ。お互い近いし、この辺でいいんじゃない。こないだ、友達と行ったレストラン、結構よかったから…そこ、連れてってあげる。
初めての食事にその辺のレストランって、俺、違う。
…君が違うかどうかは…。
いま…夜景見ながらって訊いた時さ、思い浮かんだ場所、あったでしょう。よく行く場所?
え、…ううん…。
有名? 俺、品川プリンスかと思った…違うね? 池袋? Nタワー? 六本木? あ、東京以外? 違うな…。
黙って聞いているだけの鈴香に向かって、独り言を呟くように畳み掛ける麗に、鈴香は本能的な動揺を感じて…隠した。この子…?
タワー…芝公園? 当たり?
…。
鈴香さんにとっては、どんな場所?
…婚約してる人と。初めて行った、そういうところ…。
それからずっと、行ってない?
そんなにずいずい、来られると…怖いよ…なに? 賢いって、言いたいの?
ううん。鈴香さんね、たぶん、自分で思ってるよりずっと、だだ漏れ。そんなに…わかりやすいのに、なんにもわかんないんだもん、俺、今はいいけど、たぶんまた苦しくなるな…。なんなのかなぁ…。
…。
冷めたコーヒーを飲むなんて…このところ、仕事でうっかり集中しすぎた時くらいのものだった。鈴香とってのぬるいコーヒーは、ただ不味いだけではなくて、自分の時間をコントロールできていないことの、現れだ。鈴香はコーヒーは熱いうちに飲みたいし、アイスクリームは溶ける前に、食べたい…。鈴香はなまぬるくなって酸味を帯びたコーヒーを、飲み切って、空けたコーヒーカップを横にやり、いましがた店員が、ごゆっくりどうぞ、と置いて行った緑茶を前に据えて、それがまだ温かいことを、確かめた。
いままで…好きになった人、どれくらいいるの?
尋ねた鈴香に、麗はどことなく、考え深げな様子で、モンブランにフォークを刺し入れながら、答えた。好きらしい好きは、ひとりかなぁ。昔ね。子どもの恋愛。大学では、全然。
それは…こんなふうだったの?
んーどうだろ。好きになってもらったと思って好きになって、…今度は好きになりすぎて、そのせいで振られた…?
…。
ま、だから全然、違うよ。ていうか…もうよく、覚えてないや。なんか…他人の恋愛みたいな感じ…。鈴香さんはそういう恋愛、ある?
私は…。さっき言ったでしょう、恋愛自体、するっていうほどしなかったし…まずそんな、どったんばったんするような恋愛は…私は、好きじゃないよ。
ふうん…。安心したい?
どちらかといえばね。
じゃあ安心、しよう。俺もどったんばったんは、俺っぽくない感じが、するから。ちょうどいいや。
な、…十分、どったばった、してるでしょう。困るのは、私、嫌い。
知らないふたりなんだから、初めは仕方ないよ。なんだかんだ俺たち、最適解を導きつつあると思うけど。ちゃんと、話し合ってよかった。ね?
さあ。よかったかどうかはまだ、わからないんじゃない? けど…約束を守れるうちは…かつ、君が、飽きるか諦めるまでは、まあ…いいよ。私も君みたいな「友達」がいれば、なんだか生活にハリが出る気がするし。
麗は、涼しげに笑って、チーズケーキ食べちゃっていい? と、訊いた。鈴香は、こちら側に置いてあったチーズケーキを、向かいへ押しやった。
「友達」かぁ。鈴香さんって、親友、何人くらいいる?
…。さあね…。
ミナガワの顔が思い浮かんだけれど…ミナガワは、いま、「親友」…? 鈴香は時計を見た。
あー、なんだか大変な1時間だったな…。帰って私、ご飯作らなきゃ。ケーキ、ゆっくり食べてから帰ったらいいと思う。じゃあね。
今度こそ財布から千円札を1枚、抜き取って、麗に渡した。麗は…意外に…すんなりとそれを受け取って、両手で持ちながら、あのさ、東京タワー見たい、で俺の希望、通ってる? と、尋ねた。
鈴香は、立ち上がった姿勢で、なんと答えたものか、考えた。別に、実のところ、鈴香はどこだって…そうだ、一応…。
いいよ。連れ回してると思われたくないから、大人っぽい格好、してきてね。
あ、そっか…や、まーかせて。ほら、名刺の裏の、一人株式会社ね。仕事用のスーツ。着てくよ。
いつも帰るくらいの電車には、乗れた。ああ、予約は…まあ、いいか、気が利いていなくて、していなければ、近くの飲食店に入れば…それが気軽でいいのだから、むしろそっちを、調べておこう…。
吊革を掴んだ腕に頭をもたげて、見慣れた風景が流れ行くのを眺めながら、鈴香はふと、ひとりごちた。
なにそれかわいい。馬鹿みたい。…か…。