講話 畏怖と変容
今日は人間が変わる、ということについてお話しようと思います。人間は、変わりますね。「人が変わったように」などという言い方がありますが、それは人が変わらないという迷妄が言わせている表現です。人というのは、変わります。変わらない何かを信じたい気持ちは分かります。でも、変わるんですね。
よくもわるくも変わる、という言い方があるかもしれない。「物事には必ず長所と短所がある」という考え方は、時に厄介な欺瞞を生みます。この変化には、いいもわるいもないんです。私たちはよくなったとかわるくなったとかで一喜一憂しますが、それは単に変わったのであって、それに評価をしてどうこうというのはみんな、こじつけです。
少し知恵があれば何とでも言えますからね、怪我をしたせいで健康の大切さがわかったとか、恋人を大事にするようにしたらナメられてしまったとか。この原因と結果には、完全に正しい、というのは林檎が木から離れ、何もされなければそのまま地面に落ちる、というような、一意的に再現可能な因果関係はないわけです。いま言った例にしても、怪我をしたせいで苦労が増えたとか、恋人を大事にするようにしたら相手の気持ちに左右されずに愛せるようになったとか、ある変化に対する反応や判断は人それぞれです。それは人によって状況が違うからですし、人によって性格が違うからですね。
だから、そういう「人による」とか「物の見方による」とかいった「反応」の部分を無視して、「人間が変わる」ということについて、考えてみてください。
人間は、変わります。
細胞がそうであるように、刻一刻と変わるし、風向きや天気のように、実のところ一定である方がおかしい。これが一方の「人間は変わる」です。万物の流転、無常の常というような変化、変転です。この変化には指向性がない。ただ、同じでない、という意味での「人間は変わる」ですね。
もう一方の「人間は変わる」は、変容とか変性とかいうような、植物的な時間のなかで生じる、質的な変化です。これは指向性があって、ある程度はコントロール可能だけれども、その活動の大部分が人間にはみえていないような変化です。人間には大樹への成長のようにみえたり、噴火や流れ星のようにみえたりする変化で、加齢などもこちらの変化に入るでしょうね。実際には突然起こるわけではない、ずっと、長年にわたって、その出来事に向かって色々な力学が働いていて、だからこそその状態になる。しかし人間には計り知れない。そんな変化です。
変わるのが、怖い。
…こう思う時の「変わる」は、この後者、変容を指しているのですが、ここには認知のうえで、難しい点があります。
つまり、私たちには第二の変化である変容は、第一の変化である変転を通してしか知れない。しかも、その第一の変化である変転が、第二の変化である変容の指向性のどこに位置するのかが、わからないんです。したがって、人間が目の前の変化に対して抱く恐怖心には、反射的な恐怖心と、より大きな変化にたいする直観的な恐怖心と、2つあるといえます。
このことについては、よく考えてみる必要がある。というのも、本当の「変化」、変容は、私たちには見えていないからです。私たちはその先にやがて訪れる変容を、この、目先の変化への畏れと慄きによって感じ取ることができます。けれども、その変容がどんな変容なのかは、知ることができない。畏怖の瞬間は、変容の端緒、変容の発露をとらえる貴重な瞬間でもあるのですが、それがいわゆる変転に対する生命の防衛反応であった場合、それは正しい恐怖心なのであって、従わなければ死にます。しかし、それが変容にたいする畏怖であった場合、その畏怖を乗り越えなければ訪れない変容が、待っているかも知れないのです。その変容はあなたが待ち望んでいることかもしれないし、絶対に避けたいものかもしれませんが、いま、話してきたように、変わることに価値を見出すのは本人の仕事であって、そして、変わること自体は、「ある程度はコントロール可能だけれども、その活動の大部分が人間にはみえていない」んですね。
畏怖を目の前にして、私たちができることは、ただ変容を受け入れる心の準備をして、賽を投げてみることだけなのです。
今日のレシピ:
「変化に対する畏怖」が理由で、していないことを探してみます。
小さなことでもいい…それを「いま」すると、何が起こりますか?
なにも起こらないか、すぐには何も起こらないなら…してみましょう。
本当に大きな変化が起こるなら…するか、しないかを、いま決めてしまいましょう。もし、すると決めたなら、すると決めるだけでは、いけません…どうすればできるか…飛行機の運賃を調べるところからでも、ノートに計画を立てるところからでも…考える、はじめの一歩を、現実の行動に移しましょう。どんなに小さな行動でもいいけれど、その現実の行動をしないなら、もう「してはいけない」。考えることさえしてはいけません。あなたはいま、しないと決めたのですからね。
自分の本能にたいする尊敬と、ほかの「すること」をする力を守るための意志を、持ちましょう。「自分に自信を持つ」というのは、人前で堂々とすることではありません。自分の本能と、自分の意志を、信じ、貫くことなんです。
お話してきたように、賽を投げるのは、神様ばかりではない。あなたの手にはいま、賽があって、それはあなたがすると決めたことへの「一歩」を現実に移すことで、投げることができます。
これはずっとしまっていた服に似ています…いま一回着てみるか、捨てるかです。着れば捨てないルールでいいんです。一番いけないのは、何もしないで、その服をもう一度、しまうことです。
「未来はすでに始まっている」。
振り返ってみてください。あなたが投げた賽の目を、あなたは最後まで見届けていないはずです。なぜか? 現在のあなた自身が賽の目であるために、あなたからは賽の目が見えないからです。あなたにできるのは、手にある賽を投げることだけです。そして、ある日、自分というものが、賽の目の連なりであって、確率の母数があまりにも膨大なために決して再現できない、ある種の奇跡の上に立っていることに気づくでしょう。
もちろん、それは奇跡ではない。けれども、奇跡のように、あまりに再現性が低いために、二度とは起こりえない事象なのです。(これを人は時間と呼んだり、個性と呼んだりします。)何度投げても、望んだ目がでるとは限りません。しかし、投げることによって、また一回、「あなた」という存在の再現性が、低くなります。あなたらしく生きるというのは…意味ではなく…この、確率です。あなたは最後まで、賽を投げ続けなければならないし、いつでも、あなた自身の手で、賽を投げられるのです。
あなたの手にはいま、どんな賽子が載っていますか?
いま、それを投げたら…どうなるでしょうね…?
私は皆さんが、自分の手に載った賽子を見つめて、いま、胸をときめかせているのなら、それはとても、素敵なことだと、思っています。
以上です。
ご清聴、ありがとうございました。