愛を犯す人々_美津紀(みつき) 【投稿】
洗面台の鏡に映る自分があまりにも綺麗で、美津紀は下着を着けただけの自分の姿を思わず見つめる。ホテルから出る直前のこの自分が、美津紀は一番好きだ。姿態。そんな言葉が似合う。念入りな計算の上に乗せられていたはずのファンデーションもチークも、アイシャドウさえ、洗い上げたように落ちてしまっているが、それがどうしたというのだろう。普段なら味気なく感じるブロウ無しの眉も、今は、明るく開かれた瞳によく似合う。艶めいた唇や、ふんわりと紅みを帯びた頰が、自分は本当はこんな人間なのだと訴えかけてくる。なめらかな曲線と柔らかなふくらみを取り戻した体は、チャコールピンクの下着になんの無理もなく馴染み、そのレースよりもいっそう繊細に、幸福なひと時を反射して、茜色の照明の下に浮かぶ。重だるい体とは対照的に、美津紀の心は水に浮かべた白い花弁のように、むしりとられたばかりの新鮮な表面で雫をはじきながら、たゆたっている。自分は、本当はこんな人間だ。女というのは、なんと美しい生き物だろう。
身支度を終えた祐介が、後ろから、美津紀の内腿に手の甲を滑らせて、撫で上げる。美津紀は沈殿しかかっていた快感がまた、ざわめくのを感じる。
予約しなくてよかったね。結局、こんな時間になって。
耳元で囁いた祐介と鏡の中で目が合い、無言で微笑みを交わす。そう、祐介もそうだ…男というのは、なんと美しい生き物だろう。
お腹空いちゃったな。
美津紀は呟いて、祐介の手を取って指先にくちづける。
ね。いっぱい、食べようか。さっきのところ空いてるといいけど。
この辺り、裏に入ると結構、雰囲気のいいところ多いから、空いてなくても大丈夫じゃないですか。…あ、…もうできないんだから、煽らないで。ねえ、メイクできないよ、これじゃ?
祐介は冗談めいた笑みを浮かべて、美津紀の腰を掴むと、自分の腰を2、3度打ちつけてみせ、ソファへ向かう。鏡ごしに、祐介が携帯をチェックしているのが見える。
祐介さん、今日は時間は?
まあ遅すぎなければ大丈夫だよ。ここのところ忙しかったから、その流れでね。美津紀は?
うちは向こうが前泊だから、祐介さんに合わせられます。はーい、ということは…?泊まれますけど?
意地悪なこと言うね。分かってるでしょう。
もちろん。けど、ちょっとくらいあてつけたっていいでしょ、私の方が失ってるもの大きいんだから。
だから、こうやってご機嫌を取ってあげてるじゃない。不満?
ううん。大満足。もっと甘やかしてください。ね、寝顔見たいな、って、言って。
祐介は、ソファに脱ぎ捨てられていたブラウスを恭しい手つきで取り、袖を美津紀に通して、ボタンを留めながら、寝顔、見たいよ?と小さく声に出す。
何。
いいえ。棒読み。
だって、この前、やりすぎてうっかり寝てたでしょう。もう見てるからなぁ。あとね、美津紀だけ寝てるの、案外、暇だった。
ふーん。
え、何。
ううん、祐介さん得意げ。可愛いです。
祐介は美津紀の頰を撫でて、立ち上がり、あーあ、ここ、お会計の機械の音が大きすぎるのだけは本当、萎えるんだよねぇ、と呟いたあと、忘れ物がないか、さっと視線を走らせる。
行こうか。
エレベータの中で、最後のキスをする。雨が降っていたらしい。目当てだったスペインバルが満員だ。時々触れる腕から広がる余韻を楽しみながら、何軒か中の様子を伺って、界隈をうろつき、カウンター席だけのフレンチに入り、お勧めの品書きを適当に選んで注文する。
いいなあ結婚。
頬杖をついた美津紀は、おしぼりを丸め直してカウンターへ置く祐介の、指輪をなぞる。
そうでもないよ。俺は結婚前に戻れるなら、一生結婚しないね。
でも別れないでしょう。そういうの、甘言を弄する、って言うんですよ。
まあねぇ。ごめんね、結婚だけは、してあげられないな。
シェフが伏し目がちに祐介のワインを注ぎ、ラベルを見せる。L字になっているカウンターの向こう側には、真っ当に交際しているらしい、釣り合いの取れたカップルが、熱に浮かされたまなざしを交わしている。仕事帰りだろうか?女の方が少し、優勢なようだ。もうそれほど暑くもない季節なのに脂でてかっている、男の額を目に止めた美津紀は、自分の思い付きに苦笑する。そうか、交尾前の甲虫のようなものだ。
美津紀は結婚したいの?
そうですね、もう5年になるし、そろそろ身を固めたいっていうのが本音。
そっかもう5年?マンネリって言ってたのに、そんなに続いてるなんて、本物かもしれないな。まだ若いもんね、タイミング見失ってるだけじゃないのかな。
私、付き合い出すと長いんですよ。祐介さんとだってもうすぐ3年だし。でももう若いってわけでもないから、いい加減落ちるところに落ちたいなぁ。
まだギリギリ20代でしょ。気持ちはわかるけど、今の時代、結婚にはまだ若いかもよ。…そうだよね、彼と5年じゃ俺とも3年だよねぇ。まあ俺はもともと、なにかと長く保つタイプなの。こういうのも、落ち着いて楽しめて、悪くないでしょ。とはいえ…実は俺もさ、最近、思うところはあるんだ。君まで結婚したら、いよいよ俺たち、どうしようもないな。ってね。
どうしようもないのは祐介さんだけですよ。私は祐介さんのこと好きになっちゃって、弄ばれてるだけだもん。犯罪者。
またそういうことを言う。美津紀だって、俺くらい軽い人間じゃないと、付き合えないと思うよ。美津紀、彼氏のことめちゃくちゃ大切にしてるじゃない。前の人ともそのせいでダメだったんでしょ。
昔の話は忘れてください。私だって勉強してるんですよ。祐介さんは恋人、彼氏は彼氏です。
美津紀は祐介が取り分けたトリュフを口に放り込んで、唇に付いたソースを舐める。祐介は美津紀に赤ワインを選んでみせる。
軽いのは…私が祐介さんに、軽いんでしょう?私、祐介さんのせいで、他の人と付き合えなくなっちゃったんですよ、つまんなくて。でも、同じ人といるとばれやすいし、だから、私には全然、軽くないです。
えー、やだよ、頼むから彼とは仲良くしててよ。俺さ、身勝手かもしれないけど、…。
身勝手ですよ。
…茶化さないで。…身勝手かもしれないけど、他に男は、ほんと、作って欲しくないんだよね。それでこんなに頑張ってるわけ。わかるでしょ、だって3年だよ、3年経ってもこんな感じなんだから、俺は美津紀のこと、ほんと好きなの。でも、美津紀の彼には全然、嫉妬しないんだ。聞いてると、かなりちゃんとした人みたいだし、だからこそ美津紀はこんなに落ち着いてるわけでしょう。美津紀に彼がいると思うとさ、俺の大事な人をちゃんと守ってくれてありがとうって気持ちになるんだよ。
祐介は美津紀の太腿に手を置いて、シフォン地のスカートの上から、少しずつ内側へ指を沈ませる。
俺、美津紀が彼としてるところ想像しても、何にも感じないもん。まあ、あれだ、美津紀がうっかり精液こぼしてたりしたら、ちょっと興奮して舐めちゃうかもしれないけどね。
美津紀は太腿を締める。祐介の掌の熱を楽しんだまま、カウンターの上では、眉をひそめて声のトーンを落とす。
信じらんない。TPOどこ行っちゃいました?ここ、もう外ですよ?
ごめんごめん、なんか興奮しちゃった。そうそう、彼と俺以外に男、作っちゃダメだよって話ね。飲みすぎたかな。君も、飲みなよ。
…祐介さんのそれね、大事な人ってとこ、聞きたいから、何度でも聞きますけど、いまいち、頭に入って来ないな。何回聞いても矛盾して、腑に落ちない。
そうなの、自分でもなかなかに複雑なんだよね。やっぱり、俺しかいないとバランス悪くて、正直重いし、とはいえ俺以外にいるのは嫌だし、だからって全身全霊ではもう、恋愛できないし。
酷い。人間が酷いなぁ。
お互いにね?
私は全身全霊ですもん。
ベッドの上だけでしょ。
どうかなぁ。
やめてよ重い。
待って。はっきりさせときましょ?軽いの、嫌なんです私。なのに結局、こんなに居心地のいいの。おかしい。こんな爛れた関係、人生の予定に入ってないんですよ。私、もっとどろどろに、愛を奪い合ってみたり、したいんです、ほんとはね。
こういうの、嫌なの?
ううん、好き。祐介さんのこと、好きなんですよ。こんなの私じゃない。だから困ってるんです。
はは。俺も好き。困っちゃうねえ、ほんとう。どうしようね?どうにもしようが、ないけどね。
話すことがなくなって、沈黙と沈黙の間に料理が置かれる。デートの日、セックスの後に食事をするメリットは2つある。食事中に会話がなくても済むこと。食事を堪能できること。美津紀はセックスの後は美味しいものを食べるのが好きで、祐介はそれを心得ている。セックスのあと美味しいものを食べて、太腿に祐介の手を感じて、静かに美味しい酒を飲む、この時間が美津紀は、セックスの次に好きだ。
ん…? ああ、入れてるだけが、気持ちいいんだね?言ってくれればよかったのに。いいよ、奥まで刺して、動かないでいてあげる。
祐介が美津紀の肩を押さえて、限界まで美津紀の中に体を埋める。美津紀の全身は鳥肌立って、視界が涙で潤みはじめる。堪らない。完全に届いたところで留まり続ける、絶頂感で、祐介の腕に掛けた指が、なんの制御もできないまま、痙攣する。美津紀は祐介の名前を呼ぼうにも、高く震えるような呻き声しか出せない。
ああ…いいね、蕩けきってて、可愛いなぁ。ほらね、耳も噛んであげるよ…すごくいいんでしょう、これ?
美津紀はデザートを待ちながら、組んでいた腕で、自分を軽く抱きしめる。
どうした?
ううん、さっきのこと、思い出してるの。
ああ、今日のは、よかったね。また、しよう。
別れ際にそっと触れてから振る手。今日はこれで、さよなら。美津紀は慣れた経路を、メッセージを待ちながら乗って、電車を降りると短く、返信する。
回送電車が、警笛を鳴らしながら走り抜けていく。ああ、明日はまだ木曜日か、と美津紀はひとりごちる。
既視感。まるで、何度も何度も同じ場所を周っているよう。一夜として同じ夜はないのに、全てが同じ夜。一回終われば、また次の一周が始まる。まるで鏡と鏡の間に入った時のようだ、終わりもなく、始まりもなく、自分がずっと、続いている。
ほろ酔いも悪くない。美津紀はホームのベンチに腰掛けて、財布から結婚指輪を取り出す。指輪をつけているのを、通り過ぎる男が目尻で捉えている。
男の背中をぼんやり見送ってから、美津紀はひらひらと、指輪の光る左手を振ってみせる。若い時に買ったのが丸わかりの、趣味の悪いあの指輪より、ずっと大人びていて、上品なデザインの、プラチナリング。
言えなかったの。
美津紀はそう言うだろう。けれど、言う必要はない。必要はないし、言って、何かいいことが起きるわけでもない。秘密。秘密は、美津紀を楽しい気分にさせる。不意に、訪れたこの秘密を、美津紀はもう1年近くも楽しんでいる。結婚したがってみせるたびに優越感のちらつく祐介の視線は、美津紀をぞくりとさせる。ごめんね、結婚だけはしてあげられないな、と勝ち誇ったように呟いて微笑んでいた祐介を思い出して、美津紀は思わず、優しく微笑む。
可愛い人。私も、結婚だけは、できないよ。
次の電車が来て、日常を纏った人々が、階下のほうへ流れていく。美津紀はその波が流れ落ちて消えるのを待って、誰もいなくなった階段を、高すぎるヒールを響かせながら、のろのろと下る。
ああ、恋がしたい。恋がしたい、のに、ね。
階下に来るらしい電車の進入風が、美津紀の火照った全身を舐める。美津紀は、風を受けて膨らもうとするスカートを押さえて、まだ欲情している自分の体をうっとりと感じながら、風が止むまで立ちどまる。終わりも、始まりもない。止まっていれば、また次の電車。
まだ小さな頃のことだ。どこかの遊園地のマジックハウスに入り、無限に続いて暗闇に消えてゆく自分の姿を、ぼんやりと眺めていたことがある。無限に続く小さな自分が、不思議そうに手を上げ下げしてみたり、振り向いてみたりしている姿。アルコールに浸された視界にうっすら浮かぶ、そんなイメージを夢中で追ううちに、風が已み、美津紀は階段をまた下る。終わりも始まりもない。この先にも、この後ろにも階段がずっと続いているなら、美津紀は死ぬまで、ほろ酔いで階段を下り続けるだけで、いいのだけれど。
無人の改札を抜けて、今度はエスカレータの静かな振動に揺られながら地上に向かい、ようやく出口に出る。光の箱を思わせるコンビニの対岸で、美津紀はまた、立ち止まったが、何も、買うものなどない。通り雨はいっとき激しかったのか、濡れた地面には水溜りができて、街灯を照り返している。地面にまばらに滲んだ白色をたどるように、ゆらゆらと歩きながら、美津紀は小さく欠伸をする。
明日はまだ、木曜日だ。