春を謳う鯨 ㉜
(…)ずっと探していたのだと思う。たぶん、やっと、見つけた。鈴香の求めるものを持っているのが、たったひとりの人ではなかっただけだ。鈴香は、もう、探さなくていいし、選ばなくていい。安心して、他の、自分の、大切なことを、大切な人たちのために、頑張ることができる。
結局、何も得てはいない。辿り着けないまま、秘密を抱えて、ひとりぼっち…。ここは、どこ?
心のどこか、隅のほうで膝を抱え、俯いて、正反対の言葉を交互にぼそぼそ、唱えている自分から、目を逸らして鈴香は、ミナガワの記憶で体と心をいっぱいにしながら、座れた昼下がりの中央線に、うとうとと揺られた。
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月曜は、祝日で休みだった。鈴香がミナガワの家から帰ってきた日曜、楢崎くんはロードバイクで箱根のほうまで出掛けていた。夕飯を一緒に食べるはずだったけれど、自転車がパンクしたとかで楢崎くんが遅くなって、鈴香は家で野菜炒めを食べてから、楢崎くんの家に向かった。楢崎くんは途中のカレー専門店で済ませたと言っていた。近所の串かつ屋に少しだけ飲みに出た。寝る前に、鈴香は日焼けで真っ赤になった楢崎くんの肌に日焼け用のローションを塗ってあげた。
日焼け止め、塗らなかったの?
汗で落ちちゃった。まあいいかなと思ったら、西陽がすごくて…けど時間の目算もずれてたし、ただただ走ったんだ。鈴香を、待たせてるからね…? 走り過ぎでハイになってるんだろうな、ちょっとしたヒーロー気分。
腕を塗り終わった鈴香は、ベッドの縁に腰掛けている楢崎くんの後ろに回ってベッドに座り、焼けて赤くなったうなじと、耳のまわりに、ローションを塗ってあげながら、苦笑した。
別に…私は危機的状況にあるわけでもないし、悪い人に捕まって囚われてるわけでも、ないじゃない。それに、ああ、またかって…それほど、待ちに待った感じでは、待ってなかったよ。ご飯も食べてたし。
走ってないとわかんないよ。待ってる誰かがいれば、帰宅がミッションになる。ただ来た道を帰ると思うと、何やってんだろうなって、ふと冷静になるっていうか、情けない気分になって元気、出ないんだよね。
ふうん。
鈴香はローションを塗ったあとの楢崎くんの耳裏を嗅いでみた。ミントの匂いがした。
…。今日は、俺…。
…あ、違うよ、そういう意味じゃ…ミントの、匂いだなって…。
ミナガワといたときの気安い気分が、うっかり、出てしまっていたことに気づいて、鈴香はひやりとした。鈴香は少し下がって、楢崎くんの裸の肩を叩いてから、Tシャツを目で探した。
箱根なんて…電車があるのに、なんで自転車で行こうと思うのか、未だに理解できないけど…大変だったでしょ。寝る前の片付けは私がするから、たっくんはもう、寝なよ。明日は日焼け、引いてるといいね。
…。
楢崎くんはローションのボトルを受け取ると、しまいに行かずに、そのままヘッドボードに置いて、立ち上がり、腰に右手を当てて親指で揉み込んでから、鷹揚に、伸びをした。
…?
仕方ないなぁ。
え。…あ、…ほんと、違う、よ…。
振り返った楢崎くんの表情を確かめてそのまま、壁に付けて置かれたベッドの、壁際まで後じさった鈴香を、追い詰めるように、楢崎くんはベッドに乗り上げて、にじり寄った。
またそういう…昨日はやりすぎちゃってヘソ曲げてただろ。ちゃんと、普通に、しよっか。
それ…腹が立ってくるから、思い出させないで。
そう? 俺には結構、いい思い出になったけどね…?
…。
顔を背けた鈴香の髪に指を挿し入れて、楢崎くんは鈴香の頭を片手で掴んだ。
ちっさいなぁ。いつでもへし折れそうなんだもん、ときどき、自分が怖くなる…。
…自覚あるんなら、優しくして。
さあね。そういうのは俺の趣味じゃないよ。これでも精一杯、合わせてるつもり。
勘違いもいいとこだよ? 全然、歩み寄れてない。…疲れてるでしょう、明日でいいと思う。
明日は筋肉痛できっと無理。
じゃあ、来週。
ヘソ曲がり。
楢崎くんは掴んでいた鈴香の頭を引き寄せて、抗弁しようと開いた鈴香の唇を、唇で塞いだ。
…ミナガワは、鈴香の体を、変えてしまった…こんな…。鈴香は楢崎くんの火照った手脚に火傷しそうな思いで、息苦しいほど深いキスを受けた。楢崎くんは鈴香のルームウェアを下だけ引き剥がして、自分も脱ぐと、ごく事務的に準備して、鈴香を自分の上に導いた。
痛いの嫌でしょ。自分のでぬるぬるにしてから入れたらいいんじゃない?
…。
上、脱いで。
…。
ミナガワは、鈴香の体を、変えてしまった…こんな…鈴香は、ミナガワと体を重ねているときの、駆り立てられるような、近づいて、近づいて、やがてすっかり重なるような、あの感覚が蘇るのを感じた。俯いて、自分の感覚に没入する鈴香を、楢崎くんは気まぐれに愛撫しながら、無言で見つめていた。楢崎くんは、入ったあともしばらくは鈴香に体を貸していたけれど、すぐに、全然だめだね、ぬるいよ。と、呟いて、鈴香に後ろ手を突かせ、鈴香の腰を抱え持って、激しく揺らした。
ほらね、こっちのほうが、好きだ。ね。ね。ねえ?
鈴香は歯を食いしばって、苦々しい気持ちで、仮借なく浴びせられる快感に耐えた。まだまだ足りないというように、楢崎くんは上を取ると、抱え掴んだ鈴香の腰に、自分を打ち付けた。体の浮いた鈴香は、辛うじて付いている肩甲骨とつま先に、打ち込まれるたびに重みが掛かるのを感じながら、ときおり、呻くように喘ぎ声を漏らした。
は。いーい顔。やっぱり、したかったんでしょ。認めなよ。
鈴香は答えずに、眉を寄せて見せた。楢崎くんは満足げに口角を上げて、そのまま鈴香の両手首を両手で取って、それを手綱のようにして小刻みに激しく突き上げた。
…! …! や、たっくん、…。
鈴香。…あ…。
叩きつけるような動きが、楢崎くんの体に走った緊張とともに、已んだ。楢崎くんは鈴香を引き寄せたまま、少しのあいだ動きを止めていたかと思うと、何度かゆるい抽挿を繰り返してから鈴香に軽く口付けて、呼吸を整えながら、ずるりと、体を抜いた。
…。もう無理。俺きっと、早死にする…。
…自業自得、でしょ…。
楢崎くんは外した、重たげなゴムを、捨てといて、と、鈴香に渡した。鈴香はそれを摘んだまま、のろのろと起き上がった。ルームウェアを下敷きにしていることに気づき、もう片方の手で引き抜いて、楢崎くんのほうに投げた。
お茶を飲んでシンクを片付けて、鈴香が寝室に戻ると、楢崎くんはボクサーパンツだけはどうにか穿いた、という様子で仰向いて、鳩尾に左の掌を、額に右の甲を当てて、寝入ってしまっていた。鈴香はベッドいっぱいに伸びた楢崎くんの体をそっと乗り越えて、向こう側の隙間に入り、楢崎くんの剥き出しの腹部に気休めにTシャツを巻きつけて、その上に上掛けをかぶせ、自分もその中に入り、壁を向いて、目を閉じた。