春を謳う鯨 ㉞
鈴香は、さっきまで柿本がいたところにふと、目をやった。ティッシュボックスから、三角に折られたティッシュが覗いていた。
たまにしか会わないけれど、柿本が何かしたあとを見ると鈴香はいつも、狐に抓まれたような気分になる。
柿本が使ったあとの洗面台は、まるで使われてなどいなかったかのように、いつのまにか、綺麗に拭かれていた。
◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆
---------------------------------
鈴香は席に戻ってひと息つくと、念のため共有フォルダを確認してから、立ち上がり、斜め向かいでなにかの資料を漁っている奏太に声をかけた。
中山。ガラスの、松田さんのチームの昨日の議事録、アップしてある? 案件フォルダには、上がってないみたいなんだけど…。
奏太ははっとしたように顔を上げて、首を振った。
清書してない。
いいよ。メモでいいの。
や、なんつーか、メモにさえなってない。30分ちょうだい。急ぐ?
あー…うん、夕方には意見書、他のと一緒に先生に持って行って、すっきり直帰したかった…。明日、別件で松田さんに会えそうなの。ひと通り揃った状態で状況、伝えたい。
鈴香が話すあいだに、奏太は資料の下に手を入れ、底からPC作業用に使っている眼鏡を掘り出して、掛けてみせた。
ね、いま。スイッチ入れた。明日のフィルムの打ち合わせ準備って、そのあとでいいもんな。あのねその、実は準備さぁ…いますぐにはうまく言えないけど、もしかしたら困ってるかもしれないこと、あって…明日の朝、相談の時間もらえる?
…? うん。明日はたぶん9時前には来てるよ。すぐ話し合えるようにして今日、帰ってくれると助かる。じゃあ…ガラスのほうは、昼前にもらえるね?私、今からちょうど1時間くらい、質問に出るから、帰ってきたら声かけるね。忙しいとこ悪いけど…よろしくね。
はいっす。昨日、言ってくれてたのにな。ごめんなー…。
ね、…大丈夫? なんか、ハマってない? 難しくなる前に、何に困ってるか教えてもらえたほうが、安心なんだけど…。
うーん…それがね。ハマってるかどうかも、わかんねー…。整理すれば大丈夫だと思う。
そう…。
早速、画面に向かってぱたぱたとキーを打つ奏太を、鈴香は見つめた。
…するよ。恋愛。でも、叶わないの。
奏太の…恋愛の相手が、倉沢さんなのだとしたら…。
…そしたら、路地裏に入ったとこの、電信柱の陰でね、ぶっちゅうううって。
ミナガワが嘘をついていたとも思えない。けれど…。
田中さんと。別れたらしいよ。別れるだけじゃなくて、来月で辞めるって。…で、噂なんだけど、光学の堂島さんと、結婚するらしいの。
柿本の話を聞きながら鈴香は、奏太が先週のはじめ、高熱だとかで休んでいたことに、思い当たっていたのだ。ちょうどそのすぐ前に、上司が熱中症で休んでいて、それできっと、目立たなかった。けれども奏太が突発休なんて、そういえば…。
違う。ぐるぐると頭を巡る、声と憶測から距離を取るために、鈴香はいつのまにか浅くなっていた呼吸を、意識的に整えた。
鈴香に、なんの関係がある?
鈴香はこのところ自分のプライベートが慌ただしくて、他人事に立ち入る余裕がなかった。奏太とのことは、つい先月とはいえもう、遠い昔のようだし、先週休んだ時の奏太の様子からして、よく覚えていない。だいたい、倉沢さんが奏太と関係を持っているかどうかさえはっきりしていないわけだし、奏太が倉沢さんの噂にどれほど関わっているかはおろか、そもそも奏太が噂を知っているかどうかだって、わからない。
わからない。いずれにしても、鈴香に変化はないのだ、鈴香には、なんの関係も、ない…。
どうした?
視線に気づいたらしい奏太が、眼鏡越しに鈴香を見つめた。
なにを…考えてるんだか。でもそう、これが、正解なんだ…。鈴香は奏太に、手にした書類を示した。
あ。ううん、ちょっと、考えごと。行ってきます。
おー。いってら。
奏太は画面に視線を戻しつつ、ゆるゆると、手を振った。