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大人の領分④佳奈(後編)
ナツメくんは思ったよりずっと優しくて、意外と背が高くて、そして賢い大学に通っている、大学二年生だった。
カナが台本を音読してあげると、体の奥から出る、身長や体格からはちょっと想像のつかない、低い、よくとおる声で、たどたどしくカナの言葉を復唱して、すぐに全部、頭に入れてしまう、不思議なユキ。
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3月6日のことを話さずに済ませるのと同じで、ユキには話さないけれど、ナツメくんの話にはもう少し、続きがある。カナが院生になった年、ナツメくんは留年していてまだ三年生だった。という、話だ。
カナは大学の正門前のカフェで本を読んでいた。レヴィナスとかアドニスとかそういうのだ。1ページも読めば人生が混乱して眠くなってくるような本。いつもどおり、まどろむように同じ単語を見つめて、たぶん布状のものについてだったと思う、考えていたら、目の前の席にどさ、と座る男の子がいて、当然のように、ナツメくんだった。
いるかなーって思って入ったら、本当にいるんだもん。髪、伸びたんだね。
ナツメくんは優しくて、記憶のなかのナツメくんよりは、ほんのり、肌が疲れていて、結局背が高くて、教養課程が終わったあとはカナと同じ賢い大学の、違うキャンパスに進学していて、留年していて、まだ大学三年生だった。
歩ける距離なのは知っていたけれど、不忍池まで歩いたのは初めてだった。
彼女と同棲してるんだ、とナツメくんは、言った。
ホテル代はあるけど、タクシー代、ない。歩こう。天気もいいし、まだ昼だし。
カナは久しぶりにナツメくんとセックスした。ナツメくんのセックスは相変わらずふらふらになるくらいすごくって、当然のように、カナはふらふらになった。
ナツメくんは帰らなきゃ、って言った。夜になっていた。仕方ないから、カナはシャワーを浴びて、髪を乾かした。
ねえ、カナ。
ナツメくんはカナからくるくるドライヤーをふんわりと奪って、横に置いて、後ろから抱きしめて、いまさら、こんなことを、言って、カナを困らせるのはわかってるんだけど…と、もごもごと呟いて、ため息をつくように、息を飲んだ。カナは鏡の中を見つめた。ナツメくんのつむじしか見えなかった。そうだった、ナツメくんにはつむじが二つあった。カナが見たのは、どっちのつむじで、それはどっち巻きのつむじだっただろう?
カナのこと、愛してるよ。
カナは、会わないあいだに、ナツメくんの性格が変わったんだと思った。一応、ナツメくんには同棲している彼女なんていなくて、ナツメくんは大学四年生なのかもしれないな、とも、カナは考えてみた。ナツメくんはバカなのかもしれないという考えが頭をよぎった。ナツメくんが何を言いたいのか、さっぱりわからなかったからだ。ナツメくんは、性格が変わってしまったのかも、しれなかった。
なっちゃんは…私のこと、困らせたいの?
ナツメくんは、カナの首筋に顔を埋めたまま、首を振った。夜で、髭が伸びてきていて、なんだか肩のあたりが、ザラザラした。
ううん。伝えたかっただけ。言えて、よかった。もう、帰らなきゃ。ね。
ナツメくんは別れ際に、携帯電話の番号が変わったと言った。
そっか。最近、私も変えたけど、なっちゃんの番号、なかったと思う。聞いといたほうがいい?
ううん。それなら、いいんだ。じゃあ。
ナツメくんはくらくらするくらいセックスが強い男の子だった。
…そのさあ、夏目くん。
ユキはカナの耳元で、思い出したように囁いた。
夏目くんはさ、佳奈のこと好きだったのかな。
ちょ…こんな時に、昔の男の、っていうか、記憶の彼方の、男の子の話…?
好きだったんだろうね。
さあね。変わった子だったな。うちの大学の人、三分の一くらいは確実に変だからね。その三分の一だったんだと思う。
きっと、好きだったよ。
だったらよかった、かもね。
ユキは黙って絶妙に腰を使った。カナはものすごく感じて、なんにも言えなくなった。
あのさ。
なに。
忘れようね。夏目くんのこと。忘れて。ね?
カナは、自分はいまきょとんとしてるんだろうな、って思った。
話したの、やだった?
ううん。実はずっと聞きたかった。
もう忘れてるよ。学科さえ覚えてない。
うん。忘れてね。できればもう、名前も。
カナは、笑ってユキを抱きしめて、唇をユキの頰に押し付けてから、ユキの頰を両手で、びよん、とつまんで伸ばした。
わがまま。名前くらい、いいでしょう。
じゃあね、覚えとくのは、名前だけ。
この状態で話しても、滑舌いいんだね…?
鍛えてますから。顔だけじゃなくて、腹筋も見て。
うん。ずっと見てる。
カナがうっすらと指でたどると、腰に差し掛かった時、ユキは、あー、あ、やめてくすぐったい、や、やめ、そこ弱い弱い、って、身をよじった。
…うん。名前だけね。いいから、動いて? いっぱい欲しいよ? こんな時に他の人の話なんて。忘れさせてほしくなる。
ユキはいつもどおり。くらくらするくらい、セックスの強い男の人だった。
まだ…いま、気持ちいいから、動きたくない…ちょっとだけ、うとうとしてても、いい?
うん。時間見てるから大丈夫。起こしたげるね。
ユキはカナの隣で、穏やかに微笑んだ。
そっかナツメくんは、男の子だったんだ、と、カナは半分、夢うつつに、考えた。ユキは台本を取り出したようだった。紙をめくる音がした。もう一本たばこを吸いはじめたのが、においでわかった。そっか…ナツメくん、は、…男の子だった。
本当は、名前も覚えてない。夏木くんだったかもしれないし、もしかしたら下の名前が夏実だったのかもしれない。カナには夏目っていう知り合いがいて、同じだったか、似ていたのかさえ、もう、覚えていないのだ。いつの頃からか、カナはとりあえず、ナツメくん、と呼ぶようになった。そしたらナツメくんは、すっかりナツメくんになってしまった。
カナは3月6日がカレンダーに見え始める頃になると、もう思い出せないナツメくんの、しかも、カナが見ていなかったなにかを、思い出そうとして、最後には諦める。カナは、たしかになにかを、見ていて、覚えていないせいで、思い出せないのだ。丁寧になぞると、ときどき、細部を思い出すことがあって、そんなときカナは、そうだ自分も、ナツメくんも、そこにいたのだと、思う。その細部がカナの想像でしかないとしても、それでもカナは、細部を思い出せた、と、思ってその、本当かどうかわからない細部を、ナツメくんの思い出にしていくしか、ないだろう。
3月6日はカナにはたぶん一生、ナツメくんの日で、カナはたぶん、その話を一生、誰にも、しない。
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