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大人の領分②晴人
「待ってるよー あ、駅前の百均で縄跳び10本、『鮎川兄弟カムパニイ』の領収書で買ってこれる? 明日の草野球の景品、買いそびれちゃって」。分かりやすすぎるかとは思いつつも、晴人は送信ボタンを押した。すぐに返ってくる「お待たせしてます えー明日?! うっかりにもほどがある! 了解ー」の文言に、あーあ本当、良い子だよね、と、口角を上げる。梨恵。はやくおいでよ。いっぱい、可愛がってあげる。
恋人が17歳年上だと言うと、その場は凍りついて、だいたい話が何一つ進まなくなる。熟女? 熟ってなんだ。美魔女? 魔女ってなんだ。梨恵はそこまで歳を食っているわけではないし、熟女というより天女だし、美魔女というより、魔女っ子だ。一部の女子は妙に色めき立つ。晴人になら容色が衰えても愛してもらえると、思うらしい。けれども、そういう奴に限って、17年後に容色が衰えても愛してもらえるほど愛らしい女になるとは、夢にも思えないようなのばかりだ。だいたい、梨恵は、今のぴちぴち? してるくらいしか芸のないそいつらが足元にも及ばないほど、強く、美しい。女としても、人としても。
晴人は飛び交う、安くて雑な会話を微笑んで聞き流して、ひとりごちるのだ。…どうでもいいこと考えすぎなんだよお前ら。目の前のものをよく見て、心に従えばいい。見ないための眼鏡かけて、見えない見えない言って、馬鹿じゃねえの? 考えるにしても、そんなくだらないことじゃなくて、せめて、どう楽しめるかを考えろ。情けねえな。
在庫きいたりして時間かかっちゃった。ギリギリ10本あったよ。買い占めちゃったなぁ。
梨恵は晴人に、領収書と一緒にレジ袋を渡して、ブーツのジップを下ろしながら、別にすぐそこなんだから、買いに出るついでに迎えに来てくれてもよかったんだよ? と、呟いた。
さっみーもん。部屋着から着替えるの億劫だったし…ありがと。
わかるけどねー晴人のうち、居心地いいもんね。
晴人は、あがりがまちに上った梨恵を、抱きしめて、頰に頰を押し付けた。
梨恵のほっぺ、冷たい。今日、ほんと、寒いよね。
ん…晴人は、あったかいね。
レンジが鳴った。
…?
うん。ココア作っといた。今日はもう仕事、入ってなくて、明日も設営、午後でいいんでしょ? だったよね? あったかくして、ゆっくり、いちゃいちゃしよ。
小さく頷いて、晴人に一度、力を込めて抱きついてから、梨恵は先に部屋に入り、えー、あったかすぎじゃない? どうせすぐ暑くなるんだから、こんなに暖房、きかせなくていいのに、と晴人に話しかけながら、鞄とカメラとダウンを、部屋の隅に置いた。
梨恵が…買ってきた縄跳びは、色とりどりの蛍光色で、梨恵の白い肌にむっちりと食い込んで、下品に映えた。折りたたんだ腕と脚を、腕は1本ずつ、脚は2本ずつ使って結ばれて、ベッドの上に肘と膝をついて四つん這いになった梨恵を、ベッドにもたれるように床に座って、晴人は感心して眺めた。
一言で言うと、ものすごく、そそる。
逃げないように上下に寄せて、張り切った胸元も、寒いのか、興奮しているのか、先端がぴんと勃って、息が触れるだけでも感じそうなほどだ。
わかんないとか言って、結構、ノってきてるんじゃない?
え、ずっと、この姿勢はちょっと、キツいかも…。
腰が溶けちゃって?
晴人は梨恵の下生えを中指で探って、少し、ほっとした。大丈夫。ずいぶん、出来上がってるみたいだ。
あ、それも、あるけど…。
梨恵? まだ、なんか…怯えてんね…?さっきも言ったけど、俺は梨恵を傷つけるようなこと、絶対にしないよ? 貶めるようなこともしない。ただ、梨恵に、もっと楽しんでほしいだけ。安心してね。ね?
晴人は梨恵の唇を舐めた。梨恵がものほしげに唇を開いて、舌を出しかけ、晴人が離れたのを知って、引っ込める。手のひら全体を使って、さわさわと乳首を擦ってみると、梨恵は切なそうに体を震わせ、縄跳びの柄がからからと、音を立てた。
ほらね。気持ちいいね…?
あ…うん…晴人、…キス、したいな…。
愛撫は続けたまま、重ねた唇を濡らして、優しくこすり合せる。そのまま、舌の先だけを、絡ませたり、転がしたりすると、梨恵の唾液がどっと増えるのがわかった。舌の表側のざらつきも、裏側の隆起も、吐息の湿度も、梨恵が晴人に集中し始めたことを、物語っている。
ああ、射精しそうだ。
愛おしいなんて、照れくさい言葉、恋愛では一生使わないと思っていた。でも他に、なんと言えばいい? 慈しんで愛おしむ相手がいない、全ての不幸な人間に、この光を浴びさせてやりたいくらいだ。梨恵が、愛おしい。
息継ぎに顔を離して見つめ合う。梨恵のとろんとした眼差しを味わいながら、晴人は、混じり合った二人の唾液で照り返す、ふくよかな唇を、梨恵の頰を支える右手の、親指で拭った。
腰、落として、そう、ぺたん。ちょっと楽?
あ…うん…。
結んだビニールの軋む音。梨恵のなめらかな背筋と、うっすらと浮き出た骨盤。乱雑な結び目が食い込んだ腿。収まりのいい場所を求めて、じりじりと足裏がうごめく。体を開いてうつ伏せになった梨恵の、少し浮いた腰からシーツへ、蜘蛛の糸が落ちるように、きらりと、一本の光の筋が零れて、シーツに辿りつく。晴人はベッドに上がって、余った二本の縄跳びを適当にまとめて持ち、それを使って梨恵の体をそっと、這うように撫でた。
梨恵がため息を漏らす。
ちょっとだけ、刺激、強くしてみる?
え、…ね、痛いのは、嫌いだよ…?
ううん、ゆっくり、だんだん強くするから、ちょうどいいと思ったら、言って。
梨恵の背中に伸ばした縄跳びを、波を立てるように何度か、注意深く振るう。やがて、梨恵は、う、と声を漏らして、身をよじらせた。
どう?
それ以上、強くしないで…でも、続けてみて。
梨恵の体に触れたい気持ちを抑えながら、しばらくのあいだ続けてみると、梨恵の声が切なげにうわずってきた。
あ…あのね…?
うん。なに?
ふとももの…うちがわ、してみて。
晴人は微笑んだ。じゃ、仰向けに、なろっか。梨恵にキスしてから、支えて裏返す。
…なんという眺めだろう。
晴人は、立ち昇る梨恵の匂いに鼻腔をひくつかせている自分を認めた。結局、人間も、獣だ。
梨恵、俺、我慢するの、大変。ちょっとだけ、触っていい? 触りながら、してあげる。ね。
梨恵は晴人に、穏やかに、微笑み返した。うっとりした表情。そうか、自分もきっと、こんなふうに、うっとりと、梨恵を見つめているんだな、と、晴人は思った。
泊まればいいのに、と言うのは、いつものことだ。梨恵は仮眠のような眠りかたをする。寝顔を見たことは何度もあるのに、朝陽を浴びる梨恵の肌を見たことは、数える程しかない。駅まで見送りに出ないのは、晴人なりのポーズだ、けれども、寝巻き姿で玄関までしか見送らない晴人に、やっぱり泊まって行こうかな、と呟く梨恵を、期待していないといえば、嘘になる。
忘れ物ない? 取りに帰ると、終電ないかも。気をつけてね。
うん…。
梨恵の気まずそうな様子に、晴人は首を傾げた。
どうしたの?…俺、なんかダメだった…?
ううん、と、梨恵は頭を振り、一瞬俯いたが、すぐに、晴人をじっとみて、いつもの調子で…いや、気を取り直したように、いつもの調子を装って、いつもとは全然、違う話を、切り出した、のだった。
あのね、…あのね私、来月からオーストリア行くことになって。実家大分だし、たぶん日本にもそんなに帰らないし、もう東京には、帰ってこない。だからもう、晴人には会えないと思うんだ。今日が、最後。寂しいなぁ。
え…。
寂しいなぁ。あ、ちゃんとご飯食べるんだよ…? 晴人は人に作ってあげるんじゃなきゃ、テキトーになっちゃうから、心配。
あ…じゃあ、最後くらい、送っていくよ。
ううん、いいよ。いつもどおりがいいの。一応ね、何にも考えてないわけじゃ、ないよ。晴人は、いつも通りでいて。
けど…。
あんねー…晴人はさ、若いじゃん? かっこいいし。私、ずっと、ああ、いいなぁって、思ってたよ。ずっと、あー私って幸せ者だなって。メルボルンね、行ったら、旦那さん、いるんだけど、あんまり面白くないし、大事にセックスしてくれないんだよね。晴人はさぁ、夢を叶えてくれたっていうか、なんかね、いい思い出になった…。
えへへ、と、なぜか照れた様子になったかと思うと、梨恵は晴人の手を一瞬握って、踵を返し、じゃあねとも言わずに、そそくさと開けたドアの隙間に、体を滑り込ませるようにして消えていった。
ドアが風圧で一旦止まり、気が抜けたようにゆるゆると閉まる。ぴくりとも、動かない自分。足早に遠ざかる靴音。
覗き窓の廊下の光が、こちらの動きに合わせてチラチラと揺れるのを、しばらく無言で見つめ、晴人は眉間に皺を寄せたまま、冷蔵庫の前にしゃがみ込んで、ドライジンとトニックウォーターを出した。氷が切れかけているな。そんな、普段通りの配慮は、普段通りに、できるのに。
…今日が、最後?
なにに最後があるというのだろう? 梨恵は、なにを言って…。
メルボルンってなんだよ…。
晴人は、作ったジントニックが濃すぎることに一口目で気づいたが、そのまま、一気にあおった。
旦那って、なんだよ…。
グラスを割れないように加減して置ける程度には、冷静だし…頭がクラクラするのは、入れすぎたジンのせいだ。
ついていけねーわ、さすがに…。色々、ついてけねーよ…。
シンクの縁に手をついて俯いた、腕と脇のあいだ、サイドテーブルに見慣れない光を見つけ、晴人は近づいて、確かめた。梨恵の、ダイヤのピアスだった。
これ本物だから! たっ、っかかったんだよ、まじで。個展終わって、すっごい気に入ってくれる人にすっごい褒めてもらってね、貯金叩いて、ご褒美に買っちゃったんだぁ。
耳舐めたい、外せばいいのに、と言った晴人に、なくなったら困るじゃん外さないよーだ、と、梨恵は言い返したのだった。
だったら、なぜ、ここにある?
晴人は、駅に向かっている梨恵を想像したが、途中で立ち止まって晴人からの着信を待っているのか、忘れちゃったけどまあいいや、と今ごろ駅の明かりに照らされはじめているのか、晴人には分からなかった。
いいや、梨恵がなにかを忘れたことなんて、一度もない。…分からないんじゃない。決心が、つかないだけだ。
「一応ね、何にも考えてないわけじゃ、ないよ」…?バッカじゃねえの、何にも考えなくていいんだよ、考えてんじゃねえよ、ていうか…考えさせんな、俺は、考えるのは、苦手だ…。
いつから決めてた?
どこから黙ってた?
どうして隠してた?
なんで今更、打ち明けた?
…どこからが本当で、なにが、嘘…?
なんで?
…なんで? なにが、なんで、だろう…? なんで、俺は、疑いもしない…? なんで、俺は引きとめない? なんでここにいる? なんで? なんで、命令された犬みたいに、ここでこんな風にじっと、立ち尽くしてる…?
拍子抜けしているだけだ、そう思いたかった。もう一度、今度はわざと、濃いめにジントニックを作って、晴人はソファに身を任せた。氷の音でさえ、騒がしい。いったん、態勢を立て直してからでないと、動ける気がしなかった。
とはいえ、頭に回ってくるアルコールを感じながら、ここで呆然とピアスを見つめていても、なんの解決にもならない、と思いはじめた時だった。突然、ドアがガチャガチャ言って、晴人はびくりとした。そういえば梨恵が出て行ったあと、開けたままだ。もしかして、たぶん…いや、どうだろう?…錠は外から一旦閉まって、また、ガチャリと回り、梨恵が手を大仰に振りながら、入って来た。
やっほう。ドッキリでしたぁ。
晴人は何の言葉も、出てこなかった。
あのさ…。
びっくりした? びっくりした?
や、あのさぁ…。
どう? 楽しい?びっくり?
びっくり? したよ…。なーんなんなんなんだよまじで。おーいー。
晴人は、梨恵がブーツを脱いだのを見て、自分で許せないほど、自分が安心しているのを感じた。終電はもうない。少なくとも朝までは、梨恵はここにいる。怒りをぶつけるのは、梨恵の話を聞いてからだ。
梨恵は晴人を抱きしめた。
ごめんね…。
…なんなんだか知らねーけどさ、そういうからかいかたは、俺は嫌いだよ。面白いんだろうけど…。
ごめん…。
…? うん。まんまと引っかかったよ。なに、そんなしょげてんの。うまかったけど、もうしないで…? ね。
あのさ…どこから、嘘だったと思う?
? どこからって…え? 全部…?
梨恵は晴人をじっと覗き込んでから、顔を両手で押さえて、親指で晴人の頰をゴシゴシさすった。
それがね、正解はね…、
正解…?
…ぜんぶほんとう、でした。
晴人は二度目に黙り込んだ。「全部本当」…? ついさっき、よだれを垂らすほどよがりながら、晴人、ずっと愛してるって、言ってた、あれのことか? 寂しいな、なんて、あんな軽々しく呟くだけで立ち去った、あの背中のことか?
晴人。ごめんね。ね、ごめんなさい…。
梨恵は、泣いていた。快感以外の理由で泣く梨恵を見たのは、今日が初めてで、…こんな風にこどもみたいに泣く梨恵を、晴人は初めて見て、…。
梨恵は、泣きながら、吹き出し始めた。
え、さすがにイラッとするよ? 今度はなに。忙しいね。
だってもうさぁ…ないわー。ないよ。最後のセックスが縄跳びって。バカじゃん。
梨恵は泣きながら、笑って、晴人も、それにつられて、笑った。笑いながら晴人の心には、梨恵があまりにも、まるで、過去の笑い話のように、ただの事実のように言い放った、「最後のセックス」という一言が、ぐっさりと、刺さっていた。
しかたねえし! 俺なりにさあ、マンネリとかやだと思って、頑張って工夫したのに、なにこの感じ。
ねー。はは。晴人、ほんと、…いい子だよね…。
もたれかかってきた梨恵の背中に手を回して、もう片方の手を、梨恵の頭に乗せる。
…。俺は悪かねぇよ? 言ってくれれば、よかったでしょ。
何を? もう会えないって? …言えないよ…。さっきはさぁ、ツライのに気持ちいいから、ほんと、大変だった…。
…。まだ、しばらく近くにいるんだから、会えないこと、ないでしょ。
梨恵は口を開きかけたまま、晴人の耳朶を愛撫した。沈黙が走った。
うん。晴人。ありがとうね。…会えないってね、晴人が思ってるより、ずっと、複雑な言葉なんだよ。
はあぁ? 簡単だよ。会いたければ、会うんでしょ。会えるんなら、会うでしょ。都合のいい時だけ、年上気取ってんじゃねえよ。
梨恵は答えなかった。
会えないんじゃ、ないんでしょ? 会わないって、決めてるだけじゃん、そんなの。
目が合った。梨恵は、晴人をじっと見たまま、微笑んだ。
そう。会わないって、決めてるんだよ。
二人でベッドに入って、ただ隣り合う。こんな風になっているのは梨恵のせいなのに、梨恵はただにこやかに、晴人とこんなにゆっくりするの、ひさしぶりだな、と言ってみたり、晴人の体のほくろを、星座を辿るように神妙になぞってみたりして、そのうちに壁に背を向けた晴人の背中に耳を押し当てて、ちょっと寝ようかな、と言って、それっきり、黙ってしまった。どんなに夜が更けたところで、眠れるはずもない。寝たふりを続けていると、梨恵はそっと起き上がった。うなじに梨恵の唇を感じた。服を着る音。鞄を確かめる音。なにか、ガチャガチャした金属を置く音。ブーツのジッパーを上げる音。…ドアが、開いて、閉まる音。
それでも、寝たふりを続けていた…が、晴人は不意に、大切なことに思いあたって、がば、と半身を起こし、サイドテーブルを覗き込んだ。ピアスの代わりに、鍵が置かれている。晴人は脱力する勢いで枕に顔を埋めて、うつ伏せになった。
息が苦しいのは、枕に顔を埋めているせいだ。
いよいよ呼吸しにくくなって、晴人は体を転がし、仰向けで息を大きく吸った。エアコンの唸り声の奥で、音が聞こえるには遠いはずの、電車の音がした。
静かだ。
静かな夜。冷え切って薄暗くて、静かな、普通の、夜明け。夜なんて、明けなければいい。畜生。
すぐ隣の道を、こんな時間に何を迷っているのか、車が近づいてきて、のろのろと通り過ぎる気配がした。
ヘッドライトで透かされて天井に映るカーテンの色味が、ヘッドライトの通過とともに揺らいだ。
やがてまた部屋は、未明の静寂と薄闇に、浸された。
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