春を謳う鯨 ㉕
できない? どうして?
…どうしてって…。
鈴香は、時計を見た。
楢崎くんと目が合った。
掴んで出した自分自身で、鈴香の頰を叩こうとする楢崎くんを、手で払って、鈴香は楢崎くんの、裏側のつなぎ目に向けて、舌を出した。
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盛り上がらないな…。
楢崎くんはしばらく無感動にただ、立って鈴香を眺めていたかと思うと、呟いて、太腿と根元に添えられていた鈴香の両手首を拾って右手にまとめ持ち、鈴香の両腕を引き上げた。
な…。
花とお菓子、ね。事前に銘柄と売場調べて狙って買って、花は花で、予約しとけばいいだろ。嫌気がさすほど手際、悪い。
今日、休日だよ…? のんびり、その時の気分で、選びたいの。
それは自由だけど、そのせいでこんなことになってるの、ちょっとは問題視しなよ。俺だってゆっくりしたいんだよ、でも、鈴香が急いでるんじゃね…?
…。私は、のんびりしたくて早起きしたし、急いでなんてなかった。けど、もう家、出たい。今日のたっくん、感じ悪いよ。…離して。
楢崎くんはにやりとして、続きしてくれないなら、このまま勝手に続けてその一張羅、びたびたにするよ…? と、囁いた。
鈴香は目を伏せた。さっき、キスをされた時に、突き飛ばして出て行くことも、できた。…そういうことだ。楢崎くんにとっては、判断のボールを委ねられて、ゴーサインを出したのは、鈴香のほうなのだ…。
顔を上げた鈴香の口の中を、何回か、往復した後、楢崎くんは鈴香の手首を掲げ上げているのとは反対の、左手で、鈴香の口角を掴み、容赦なく突き当たるまで、腰を沈めた。呻いて、膝で楢崎くんの脛を叩いた鈴香をみて、楢崎くんは一旦、鈴香の喉からは退くと、その左手を自分と鈴香の唇に添え、深さを調節しながら、抽挿するような腰つきで鈴香の口蓋に先端を擦らせて、鈴香を見下ろした。
情けない。何年付き合ってるの、喉まで使わないと全部入らないのは、わかってるでしょ。練習しようとか思わないの?
鈴香は言い返そうとしたけれど、当然、頭を揺するのが精一杯だった。楢崎くんは十回に一回くらいは、鈴香に自分を最後の最後まで押し込んで、その度に鈴香は呻いて手足をばたつかせた。楢崎くんにまとめて持たれた手首は…鈴香の、決心の足りない抵抗では、頑として動かなかった。
ほら。苦しいならなおさら、さっさと終わらせないと。もっと舌使って。…もっと、気持ちよさそうにしなよ、こっちの気分が悪い。
早くこの場を切り抜けないとという気持ちと、そんなだから結局なにも変わらないんだという気持ちが…入り混じって、ぶつかりあって、どんどん心を真っ黒に、塗り潰していく。鈴香は本当は楢崎くんとは、優しく愛し合いたい。鈴香は本当は楢崎くんと優しく感じ合いたい。鈴香は本当は、機嫌よく笑っているときのような楢崎くんと、そのままの雰囲気で、セックスしたい。付き合い出した頃はそれでも、少しは気遣いがあったけれど、鈴香はもう、あれが、鈴香を失いたくない気持ちから出た気遣いで、楢崎くんが鈴香とそうしたいからではなかったことを、知っている。
嫌々されたって、嬉しいわけがない。
嬉しいわけがなくて、だから鈴香は楢崎くんに、自分から何かをしてと言うようなことは、なくなってしまった。本当は…。本当は…?
そしていま、…鈴香の目の前には、不機嫌な楢崎くんの、心ない言葉と、突き刺さるように鈴香に向かう、楢崎くんの性しか、なかった。愛の営みとか、交流とかいう言葉が鈴香の頭の中をよぎって、鈴香を悲しい気分にした。愛はもしかしたら、あるのかもしれない、けれどここには営みも、交流も、ありはしない…。鈴香は、引っ越したばかりの、家具も照明もない、がらんとした部屋ですごす寒い夜のような、楢崎くんのセックスが、…鈴香は心底、嫌いなのに…。
…。仕方ないなぁ。へったくそ。もういいよ、先のとこだけ舐めて。
少し…安堵して、苦しくて溜まった涙が瞬きごとに、こぼれ落ちて伝うのを、頰に感じながら、言われたとおりにした。
…。
…いくよ。
鈴香は眉根を寄せて、体を強張らせた。
楢崎くんは鈴香に根元まで、自分を沈めるのと同時に、鈴香の手首を持っていた腕を引き上げ、鈴香の腕と、ドアと、自分の腰で、鈴香の頭を動けなくした。鈴香の内側をめがけて、断続的に生温かい液体が当たって、抵抗して波打つ鈴香の咽喉の隙間を、重力に助けられながら流れ落ちて行った。鈴香は…鈴香はどうすればいい? 吐いたりしたら、せっかく、選んだ服が…鈴香は、楢崎くんが注ぎこむあいだ、なるべく喉を開いて、耐えきった。
…。ああ、…顔まで性器って感じでこれ、いいなあやっぱり。鈴香が頑張ってる感じも、すごくそそるし…。
楢崎くんはため息をついて、落ちきらなかった滴りを、鈴香の唇で拭いた。
…。…な、んで…? なんで、そんなこと言うの…?
なんで…? 鈴香とするの、大好きって言ってるんだけど?
こんなの、するって、いわないよ…。
俺にはなにも変わんないよ。鈴香がもっと上手だったら、汚れないから毎回、口のほうがいいくらい。まあ、普通にするほうが気持ちいいから、仕方ないけどね。下手なのは残念だけど、あんまり経験あってもそれはそれで、気持ち悪いし。
…離して。
楢崎くんは鈴香を解放して、涙を拭いて口を塞ぐ鈴香の肩を、二回、軽く叩いて、はいはい、頑張ったね、ありがと。化粧、直したほうがいいんじゃない? と言い、自分はリビングへ、ウェットティッシュを取りに行った。
鈴香は一緒に入ってきた空気が遡上してくるのにまだ、えづきながら、シンクに向かった。
いまなら、まだ、間に合う、いまならまだ…だって、指輪も届いてない。全部、絵空事で…でも、楢崎くんがこんな風にひどいのは、たぶん半分は、鈴香のせいで…いったい、どこから、なにを直せばいい? 鈴香は、どうして、それでも離れられない?
こんなのやっぱり、おかしい…。
でも、おかしいのは、楢崎くんだけじゃ、ない。
鈴香もだ。
鈴香はいつもの考えに陥っていく自分を、他人事のように眺めた。鈴香は結局ずっと、こんなおかしいことを、こんな「セックス」を、受け入れ続けている。鈴香が怒っても結局、そのうちまた戻るのは、もう何回も経験してきて、鈴香は諦めたつもりでいるはずだった。ちょっと…鈴香が我慢するだけの話だし…だいたいはひどいけれど、すごくいいと思うときも、たまにはあって、結局、その「たまに」のせいで、鈴香は別れを切り出せない。だから結局、鈴香の問題でもあって…それに…鈴香はたぶん、楢崎くんとはどう考えたって鈴香が思うような「普通の」セックスなんてできない、だったらなおさら、楢崎くんに何かを求めても、関係がこじれるだけだ。
鈴香は、自分を棚に上げているわけでもない。鈴香は、結局、楢崎くんと万が一、性的にうまく行ってたって、他の誰かがいないと、きっと…。
でも、だめだ。
ひとでなし同士、随分とお似合いだ、なんて皮肉は、いまはとても、言えなかった。
鈴香は…せめて…口腔に残る苦味だけでも全部、洗い流そうと、吐けるだけ吐いて、口をゆすいで、ティッシュで口を拭った。
ティッシュを見て、鈴香は唇を噛んだ。
口紅とファンデーションは、もう全部、取れてしまっていた。