春を謳う鯨 ㊺
麗のグラスからは時々、ウィスキーの香りが漂ってきていた。自分が、酔いすぎずに、けれどもはっきりと酔っているのを、感じた。ふと、いままで気にしていなかった、音楽に耳を傾けた。ムードだけはある、知らない曲がかかっていて、鈴香は今日のことは忘れないだろうけれど、このメロディーまで覚えておくことはないだろう、…また…と、思った。
誰かの、何かの、曲の話…楢崎くんと来た日、楢崎くんはBGMの話を鈴香にした気がする。でも、誰のどんな曲の話をしたのだったか、鈴香にはもう、思い出せなかった。
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お手洗い、行ってくるね、と麗は…行ってしまった。
このタイミングで…?
鈴香は…麗が浪人しているといましがた判ったから、1年は縮まったかもしれない、それでもなお軽く5つは年上の、…それなりにちゃんとしている社会人で…麗は、奨学金をもらっていて、これからも研究生活を送ろうとしている、大学生だ。連れてきたことがないだけで、連れてこられたことはたくさんあるのかもしれないし…本当はかつかつで、もしかしたら鈴香が払うのを、期待しているのかもしれない。
鈴香は考えるのが面倒になって、スタッフに財布を見せた。そうだった、デートは、お金がかかる…佐竹さんといて気にしたことはないし、ミナガワとは家でばかり会っていて、たまの食事もだいたいは、割り勘だ。楢崎くんとは初めからずっと、外での食事は楢崎くん、家での食事は鈴香が持っていて、この前、引っ越したら食費は家族カードに一本化しようという話を、した…大人になってから鈴香は、こういう局面に身を置いた記憶が、そういえば、ないのだった。そうか、…こんなふうに最後を迷うようなデートを、もう長いあいだ、していなかったんだな…。
ちょっと待って…これは、デート…?
銀盆から滑らかに差し出された、重たげな会計板は、鈴香の手に触れる直前に、横から奪われた。
あっぶねー。もしやと思って急いで帰ってきたら…だめだよ、慣れないことしないで。
…。でも、タイミングよかったから…。
スタッフは、すっと消えていった。開いた会計板のなかに目を落とした麗の表情を見て、鈴香はこみあげる笑いを、こらえきれなかった。
うっかり気が大きくなって追加オーダーしたせいで、見事に予算オーバーしたんでしょ。私も若い頃、あったなー…。もう少しだけって、思った私が悪いんだし、額面、違ってないかだけ確かめたら、いいよ、このカード載せて、渡して。
麗は、会計板を表にしたり裏にしたりして、何か考えている様子を見せてから、自分のカードを挟んでスタッフを呼んだ。
ね、じゃあね背伸びぶんのハーパー半分と、お子さまメニューぶんの、チョコレート。奢ってもらっていい?
強がるね…?
ちっがうよ。全然違う。甘えてんの。
ふうん…?
鈴香は財布から千円札を3枚、抜き出した。昔は…人に会う前に崩すのを忘れていたりして、こういう時、困ったりもしたな…今はもう、ほら、困らない…。
学生らしいデザインの、形押しのある二つ折の革財布にそれをしまって、財布で胸元を軽く叩いてから麗は、俺、ウィスキーとチョコレート、好き。なんだけど。ね、今日からは、大好き。と、微笑んだ。
タクシーを拾う前に、麗はホテルの裏手を少し散歩しようと言った。暗い小径を抜けると、ライトアップされた、薄明るい広場に出て…向こう側、ひらけた夜空のいちめんに、煌々と東京タワーがそびえ立っていた。
わ、おおきい…。
平日だからか、たまたまなのか、人払いでもしたかのように人がいなかった。前は…? そうか、見にくる余裕なんて…これを見るのは、鈴香は、初めてだ…。
立ち止まった鈴香の隣に、麗はポケットに両手を入れて、並んだ。恋人だったら…あるいは、これから恋人になるふたりだったら、計算どおりもどおりに、ここでキスでもするのだろう、けれど、鈴香と麗は、拳ふたつぶん離れて立って、動きもせず、話しもせず、夜空に浮かぶ精緻な照明を、見上げていた。
ちゃんと、時間通り帰れるようにしてくれたんだね。
もちろん。鈴香さんは安心がいいんだから、俺は鈴香さんが安心して会えるように、するよ。今日は、わがまま言っちゃったけど、次からはどこだっていい。鈴香さんの行きたいところ、言ってもらえば、俺がコース調べて、迎えに行って、鈴香さんが帰らなきゃいけない時間に鈴香さんを帰す。鈴香さんと、どこかに行って、ずっと話して、そんな風にずっと、会ってたい。どこでも、いいんだ。鈴香さんと、いたい。
なんか…。
なに?
ううん、カルガモのお母さんって、こんな気持ちなのかなって思っただけ。
俺。鈴香さんがお母さんでも奥さんでも…お姉さんでもおばさんでもお婆ちゃんでも、なんでも、なんになっても、好きだよ。鈴香さんが好き。カルガモみたいじゃないとこだってそりゃ、あるけどでも、まあ、…。
「仕方ない」?
…。
口癖なんだね。本当に、「仕方ない」の? 大丈夫?
…。カルガモの子どもみたいで、好き?
そうだね。好きだよ。赤ちゃんみたい。
にっこりと笑って、麗は鈴香の腕時計を、指さした。
麗は、東京タワーを横目に引き返す鈴香の、半歩後ろをついてきた。
鈴香さんは自分からは俺のこと、全然訊かないね? どうして?
どんな人ですかって訊いて、こんな人ですって答えるような人の話、信じられる?
それ…俺が訊いて鈴香さんが答えたこと、信じるなってこと?
…私は、…訊かれたから、答えているだけ。嘘はついてないけど、信じてほしいというわけじゃないし、そんなふうに言うからって、信じるなって言ってるわけでもない。知ってほしくて話すわけでもないけど、麗が知りたいなら、話さない理由はないと思う。…そういうものでしょう。
そうかな…。
訊かれないと、不安?
興味ないのかなって、思うよ。
それは麗が、興味があると訊くタイプだからだよ。私は麗じゃないもの。…だいたい、見れば、わかるでしょう? 誰かさんが言うには私、わかりやすいタイプらしいからね。
悪戯めかした口調で、麗に笑いかけた。タクシーがホテルの乗り場に控えているのが見えた。鈴香は車止めからはまだ離れたところで、立ち止まった。
どうしたの? だれか、乗っちゃうかもよ。
どんな人かなんて…。
…?
焦って訊かなくたって、だんだんわかるから、いいんだよ。
それって…と、麗は言いかけてやめ、後ろで手を組み、一歩前へ出て、鈴香を見た。
来週は? どこかに行ける?
来週は忙しいな。
再来週なら? 俺、午前中に集中講義入ってるだけなんだよね。夜なら全然、バイトも仕事もなんでも、都合つけるよ。再来週は?
再来週なら…。
やた。
午後休くらいは、取れるよ。
え、…。
私もここ最近、遊びっぽいお出かけしてないし…どこか、平日昼に空いてそうなところ、行こうか。
麗は鈴香の右から、車道側の左へ移り、鈴香の横顔を確かめるように、見つめた。
空いてそうなところってどこ? 施設? イベント?
別に、特にどこに行きたいって、ないんだけど…。
答えながら、間近に向けられた、見慣れない端正な面立ちに思わず、目を逸らした。遅れてやってきたらしい酩酊感に瞬いて、鈴香はふた呼吸、考えた。
あ。お台場のあの、デジタルアートのやつか、どこかのVRかな。まだ行ったことないから、行ってみたいなって、ずっと思ってたかも。
まーかせて。何曜日?
木曜かな。どう?
もちろん。何曜でも。再来週の、木曜日ね。
スーツじゃなくても、いいからね。
? なんで?
なんでって…と、鈴香は言い淀んだ。
そういうところ行くのには動きにくいし…。
し?
し…いくらなんでも、格好良すぎるよ。そういうのは特別な日に、取っといて。
麗は、…言われ慣れているだろうに…にこやかに、うんうんうんうんうん、と頷いて、わずかに触れるような仕草でそっと、鈴香の背中に一瞬、手を添えて、鈴香をタクシー乗り場へ、促した。