春を謳う鯨 ㊹
鈴香さんにはそういう秘密、ないの?
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そういう秘密?
今の自分の、いちばん根っこの部分をぐちゃぐちゃにしてるような、秘密。
…。ないよ。秘密なんて、…向いてないもの。見ればわかるでしょう、真面目で堅実なだけが取り柄で、ほんのりマリッジブルーだけど、本腰を入れて遊ぶ勇気なんてない。ずっと同じで終わりのない、ちまちました、地味な仕事してる…もうすぐおばさんになる、サラリーマンだよ。
俺には全部、違って聞こえるよ。
…。もう少しポジティブに言えば、嘘をつくのが苦手で、生きかたが不器用で…それでもどうにか、30前に結婚する目標が叶ってほっとしてる、働き盛りの女子正社員かもね。
ポジティブに言ってるの、それ?
たぶん。印象は悪くないはず。魅力はなくても、ね。
つまらなさそうに、言ってしまったかもしれない。鈴香が俯いていた顔を上げると、優しげな微笑みをたたえた麗がいて…アルコールに濡れたその眼差しを、鈴香に向けて、注いでいた。
俺には鈴香さんは鈴香さんに見える。
鈴香は、なんと答えたものか迷った。「鈴香さんは鈴香さんに」…? どういう、意味…?
それは、…当たり前で、つまらないな…。
そうかな。鈴香さんには、俺が俺に見える?
…。
そういうこと。
麗は静かなペースで、けれどもずっと、飲み続けていた。腕時計を見た。9時…もう一杯くらい、軽めのものなら…鈴香は二杯目から置いたままにしてもらってある、メニューを手に取って、カクテルの字面を指で辿った。あった、たぶんこれだ、サンジェルマン…。
その…女の人ね。
うん。
あとをつけたり、家に見に行ったり、してたの?
あー…うん。別れようって言われて連絡つかなくなって、そのあと少しだけ、遠く、遠くからね。
少しってどれくらい?
1週間くらい。仕方ないよ。俺そのときまだ、高校生だよ。
…。性格はそんなに簡単に、変わらないよ。
もうそこまで、現実の生活に執着ない。ねちこくしたい欲求は研究で発散できてるよ。鈴香さんはそういうの、嫌い?
嫌いっていうか…とりあえず、ストーカーが好きな人はいないと思う。
わ、ごもっとも。でっすよねー、と麗は苦笑して、いったん、ウィスキーグラスの水滴をおしぼりで拭い、戻したおしぼりをつんつんとつついて跡を観察しながら、話を続けた。
あの時の…俺は、他に何にも、することなくて、他に何にも、できなかったんだよ。連絡しないことはできたよ。声をかけないことは、できた。一人でいることも、どうにか、できた。でも考えないでいることは、できなかったんだよね。他に考えることなんて、なんもなくて。今でこそ、したいと思うような何かっていうか、自分にしかできないような何かが、あるけど、あの時はそれさえなかったし…たぶん、物理的に近いのがなによりも、よくなかったんだよ。だって、今はもう…。
麗は脚を組み替えた。クリーム色のカクテルが来て、鈴香はそっと、香りを感じた。これが、ぬるくなる前に鈴香は、帰らなければいけない…。
高校生で、そんな…。
切れてしまった会話を繋ごうと、鈴香が呟くと、麗は調子を明るくして、応じた。
勉強はしてなかったけど高校、毎日ちゃんと、行ってたんだよ。思えば、恋愛まわり以外は普通も普通に、高校生だったの。学校の友達もいたし、コピーバンドもしたし、体育大会では応援団して…文化祭でお化け屋敷作ったり、プールでほらあれ男子シンクロ、曲芸みたいのね、みんなで残って練習して、やったりね。そういうの全部、あの人に話して、あの人は若いねーって笑って聞いて、そんな毎日だったんだな…思えば、はっきりとした記憶って、つらくなってからのしかないや。あーあ…。
…。
子どものことが…なかったら、今頃ただの思い出になってるかもしれなかったのになー…。しかも結構、やり手っぽいじゃんね。おま、高校で?!みたいな。
鈴香は微笑んでみせた。
…。仕方ないよね。仕方ないっていうか…俺のほうからは、大人なんだからそんなのは黙って、適当に言いくるめて別れてくれてたらって、思ったりもするけど…あの人だって人間で、俺の気持ち考える前に、まず自分の気持ちがあるんだから、それを曲げてほしいって俺が思うのはさ、たぶんやっぱり、違うんだよね。…あの人は…きっと俺が、ちゃんとあの人の何かをわかって、その何かを受け入れてあげることを、求めてたんだと思う。でも俺が…わかんないし、受け入れることもできないのは、きっと、あの人にはわかってて、だから…あの人は謝りながら、…がっかりして、怒ってたのかもしれないよね。俺はそれで、怒られてるような気がして、悲しかったのかもしれない。
…。
俺、…大学で東京に出ちゃおうって思って、それから勉強頑張ってさ。勉強向いてて、1年浪人はしたけど、結構いい成績で受かって。いま受けてる仕事も、片っぽなんか請け請けの二次請けだけどまあ、まあまあね、うまく回ってて、2年分の奨学金さっさと自分で返せそうだし、大学でも研究室残っていいよみたいな感じに、なってる。
うん…。
ちゃんとやってるんだよ俺。
うん、きっとね。
俺、…あの人がいなくてもたぶん、生きていけちゃうんだ。そりゃそうだよなって、…まあ、当たり前なんだけどね。なのに、いまのこの、東京での生活は、なんだか、夢の中みたいで…記憶喪失が治らないのを諦めて、新しく生活を始めてるような、そういう喪失感があって…迷子みたいにね、ここにいるっていう感覚があるだけで、ここがどこか、いまいち分かんないんだ。こんなにちゃんと、生きれてんのにね。
麗は、鈴香に嫌いではないかどうか尋ねてから、チョコレートを頼んだ。
すぐに過ぎちゃったなぁ。人といてこんなに時間早いなんて、こないだ技術の試験、グループで受けた時以来。
そんな? 今日って緊張感、すごいんだね。
? 楽しすぎてやばいって、意味だけど…?
そう…。
あ、あれしていい? あーん。
や、無理。
あー。また無理っつったね?
…じゃ、してあげるよ、はい、あーん。
…。
麗は、チョコレートをほおばりながら、少しだけ離れて座り直し、ウィスキーグラスを揺らして、溶けた氷と混ぜてから、口を付けた。
俺のこと、ちょっとは知ってもらえた? 安心できる?
さあ…。そんな話、ありそうもないし…でも…嘘つく意味もない。どうして、こんな話をしたのか、考えてるよ。
考えてもわかんないよ。俺にだってわからないんだから。ただ…。
ただ?
ずっとひとりで抱え込んでおくの、結構、きつかったんだなって、いま、思ってる。
そうかもね…ちょっと楽になったような顔、してる。本当に、誰にも話してなかったんだ…?
麗は無言で、弱々しい微笑みを返してから、小さく二回、頷いた。
私なら関係ないから、話せたの…?
関係ないの?
たぶんね。
俺と鈴香さんはどんな関係?
さあ。だからつまり、…関係のない関係…?
鈴香はサンジェルマンを口に含んだ。火がつきそうなほど強いのが好みな楢崎くんには、鈴香が好きなカクテルは、凝りすぎたお菓子呼ばわりされるけれど…お菓子にはお菓子の楽しみかたがある。鈴香は、味わいたいくて飲むのだ。酔いたくて飲むわけじゃ、ない…。
麗のグラスからは時々、ウィスキーの香りが漂ってきていた。自分が、酔いすぎずに、けれどもはっきりと酔っているのを、感じた。ふと、いままで気にしていなかった、音楽に耳を傾けた。ムードだけはある、知らない曲がかかっていて、鈴香は今日のことは忘れないだろうけれど、このメロディーまで覚えておくことはないだろう、…また…と、思った。
誰かの、何かの、曲の話…楢崎くんと来た日、楢崎くんはBGMの話を鈴香にした気がする。でも、誰のどんな曲の話をしたのだったか、鈴香にはもう、思い出せなかった。