春を謳う鯨 ㉘
けれどそこでも、答えは、ひとつだ。
ミナガワには、恋をしていてほしい。
鈴香は、ときおり車窓に映る自分の、手元に目を止めた。鈴香の姿は光の加減で透き通りながらも、かろうじて見分けられた。顔は、翳って見えずに、花の白さと、菓子袋の淡い緑だけが、浮き上がるように、流れ行く風景に重なって、それだけ止まって、映っていた。幽霊というのはもしかしたら、こんな感じに見えるのかもしれないと、鈴香は思った。
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日向にいるようにあたたかかった。体が揺れたのがベッドのスプリングのせいだと気づくまで時間がかかり、スプリングが揺れたのはミナガワがベッドへ腰掛けたからだと気づくまで、さらに時間がかかった。ここは…ここは、ミナガワの家の、ミナガワの、ベッドの中で…?
鈴香。足の先まで、ぽっかぽかだね。
ミナガワは手を差し入れて、鈴香のふくらはぎに触れた。
ん…ほんとだ、あったかい…。私、寝ちゃってた…? 目を閉じただけだと思ってたのに…。
そんなに長くは寝てないよ。15分くらいじゃないかな。
ミナガワは鈴香を見つめた。言葉は出なかった。見つめ合った。ミナガワの瞳は…真っ黒で、とても、澄んでいて、油絵で描かれた肖像のそれのように、星が揺らいでいて、鈴香は捉えられると、目が離せなくなる。出会った頃からずっとそうだった。初めから、素敵だなと思って、見ていた瞳が…いま鈴香に、その光を注いでいる…。
大丈夫? だるかったりしない?
心配そうに尋ねるミナガワに、鈴香は微笑んだ。
ううん、ただちょっと、うっとり、休んでたいだけ…。
ミナガワはペットボトルを差し出した。少し前、鈴香が気に入って飲んでいた、ブレンド茶だった。季節商品だったのかな、もうコンビニで見かけないんだ、と、ランチで会ったとき、コンビニを横目にぼやいたのを、思い出した。もうどこにも、売られていないと思っていた…。
あ、これ…。
えへへ、とミナガワは笑って、上体を起こした鈴香の前髪を直した。
お茶を口に含んで、蓋を閉め、鈴香はまた、ベッドに身を横たえた。全身が、明るく、虚脱していた。鈴香はミナガワを見上げてから、気恥ずかしくなって上掛けを手繰り寄せ、顔を半分隠した。上掛けはガーゼで、鈴香の火照った肌の上を、涼やかに滑った。鈴香は自分の体が急にぞくりとしたのを、驚いた気持ちで感じた。
意識とは別のところで、快感を、体が、思い出している。鈴香は雲の上から地上を眺めるような気分で、甘い残滓が体の芯を突き抜ける感覚がそこにあることを、確かめた。
ミナガワは…鈴香の入口の浅いところから、鈴香の先端まで指を優しく、何度も、往復させて、鈴香をうっとりさせた…ミナガワは、花にとまる蝶のような軽やかさで、鈴香の高揚した岬に、そっと触れた。焦らすようにそのままそっと触り続けてほしいと、鈴香が伝えると、ミナガワは鈴香に柔らかな眼差しを注いで、微笑んだ。鈴香は…光を浴びた蕾が、他にどうしようもなく花弁をほころばせるような、そんな、無力な確信に照らされて、どうしようもなく、けれども歓びに浸された心地で、ミナガワと合わせた目に、涙を溜めた。聴こえない、あまりにも美しい音楽を、体だけが感じて歓喜に打たれているような、感覚だった。ミナガワの優しさに連れられて、いちばん高いところまで上りつめた鈴香は、離れそうになるミナガワの指先を追いかけるように、切なく小さな嬌声を漏らして…その、自分の声の向こう側に、鈴香はときおり、せせらぎのような水音を聞いた。戸惑う鈴香に、ミナガワは気にしないでいいと言った、…全部、出したらきっと、すごくすっきりするよ。ね、気持ちいいね…? …ああ。…鈴香…。
鈴香? 大丈夫…? と、ミナガワはもういちど、尋ねた。はっとして、鈴香が頷くと、ミナガワは鈴香から上掛けを優しく奪った。
お風呂入れたんだよ、ぬるめにしたから、お風呂でゆっくり休も。…あ、…シーツ、替えちゃおっか。あは。下のバスタオル、びしょびしょだね…? 寝てるとき、冷たくなかったかな。
あ、ううん、私は全然、けど…。
鈴香はベッドが心配になってすぐに立ち上がって、それから、ミナガワが下着を着ていることに気づいて、ミナガワから受け取ったバスタオルとシーツで、体を隠した。
…。ごめんなさい…。
ミナガワはシートをめくって見せてベッドマットが濡れていないことを示し、鈴香をリネンごと抱きしめて、額にキスをして、ずっと、言ってるよ。なんにも「ごめん」なこと、ないよ。鈴香が気持ちいいの、私、大好きだもん、と、囁いた。
鈴香が大好きで、気持ちいい鈴香が、大好き。ね。いま、すごく、嬉しいんだ。だーいすき、だよ。
鈴香は…さっき、レストランから帰ってミナガワが見せた涙を、思い出した。本当に…? そんなこと…?
…好きって、言っても、いい…?
鈴香が尋ねると、ミナガワは、うん、言って…? と、鈴香を強く、抱きしめた。
好き…好きだよ…。なんだか、難しいけど、私は、ミナガワのこと、特別で…やっぱり、好き…。
ミナガワは、寂しさと嬉しさの入り混じった、優しい笑顔を鈴香に向けた。
鈴香とミナガワは、そのまま軽く、少し、長く、唇を重ねた。