宗教についての考え方が周りとはズレていた
小学生の時、クラスメイトとのクリスマス会に出席した。
交換用のプレゼントを用意して、席につく。
じゃあお祈りからはじめようかと提案して、ドン引きされた。
この時はじめて、自分の宗教観が他とズレていることを自覚した。
信心深い家庭に育ったわけではない。佛壇と神棚がある部屋で、クリスマスパーティーをするような“一般家庭”だった。
お寺さんとの付き合いはあったが、朝晩に勤行するわけでもなかった。
ただ、信仰は、どんな信仰であれ尊重すべきものだ、という気持ちがどこかにあった。
だからファッションで十字架を身につけるという行為には、嫌悪感があった。
一方で寛容でない宗教は嫌いだった。
なので、自分の宗教観がどう育まれたのか、自分でもよくわからない。
神社仏閣を訪ねることが好きで、学生の頃はバイトして購入したカメラを持って、一人で旅をするのが好きだった。
中国にいた頃、友人と莫高窟に行った時、宗教のどういったところに興味があるのかという話になった。友人は仏像等の造形物に興味があると言った。私は美しい造形物はもちろん好きだった。運慶もミケランジェロも好きだ。
ただそれ以上に
「信仰の奥にある人間の普遍的な思い」
に興味があった。
友人の質問のおかげで、私は信仰に対する私のスタンスに気づくことができた。
だからといって、それについて研究していったわけではない。
私の問は、研究するには漠然としすぎていたし、なにより私にそんな根気はなかった。
学生時代にパスポートをとった。
その時、欧米の価値観として、特定の宗教に対する信仰がない人間は信用されない、ということを教わった。
私は日教組が幅を利かせていた頃の日本サゲ義務教育をどっぷり受けた世代なので、素直に
「私ダメじゃん」
と思った。
今は、日本人的な神様との関わり方は好きだ。
とりとめのない文章になっているが、もう少しお付き合い願いたい。
中学生の夏休みに“旧約聖書”読破にチャレンジしたり、大学は仏教系(学部は違うが)に進学したり、私のぼんやり宗教探索は続き、仏教って宗教というより哲学?じゃあ、宗教の定義ってなんやねん?(関西人ではない)
と、答えのないまま月日が過ぎている。
今、スピリチュアルという視点を得て、腑に落ちることもあるが、結局わかっていないこともある。
たぶん、このまま、私はぼんやりと宗教と向き合ったり、一緒に歩いたりするんだと思う。
中年になって福祉を学んで、福祉における宗教の立ち位置を考える機会も得た。
一貫してあるのは、宗教の本質は救済だという思いだ。
これだけは譲れないのである。
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