マープルさんと世界の終わり
BBCの古いドラマ『ミス・マープル』シリーズにはまっている。軽い気持ちで見始めたのだが、さすがに難解で、これはディープな沼である。
メインの事件や推理が魅力的なのはもちろんのこと、当時の世相やイギリスの歴史、閉鎖的な人間関係やそれらを背景にした人々の価値観といったものまで、場面ごとに「面」で追っていくとなお面白い。
原作の時代設定は戦前・戦後を跨ぐものの、私が観ているジョーン・ヒクソン版は1950年代の設定になっている。
日本人から見れば敗戦直後の混沌とした時代に、英国の、あくまで一般の人々が、その「戦果」をどう捉えていたかが登場人物の取るに足らない会話にすら内包されている。
加えて、階級や人種による差別意識、町や村という小規模で閉鎖的なコミュニティゆえの人間同士の軋轢も折り重なり、ワンシーンごとに厚みをもって視聴者を刺激してくる。
聞くなり吐き気すら覚えるような差別的な台詞も幾度となく出てくるが、果たしてこれに嫌悪感を抱く資格が自分にはあるだろうか。
例の『関心領域』を観た後だから、なおさら自問自答も深まる。
いまの世界情勢をとってみても、怒りを覚えると同時に、自分のそのような「偽善的な正義感」を嫌悪し、さらにその嫌悪感すら結局は自分に酔っているのではないかと思えて、以下エンドレスである。
それでも、そう思えて仕方ないほどには狂った世の中だ。平和ボケだとしても、「自己嫌悪」と「自己陶酔」の間で踠き続けるぐらいの正義感は、せめて必要だと思う。
かくして、『ミス・マープル』は私にとってただの「娯楽」にはならなかった。だからこそ、ただいま二周目を半分終えるところである。さて、あと何周したものだろうか。