めでてぇ朝顔
江戸時代の吉原遊郭(ゆうかく)。
ここの唯一の出入り口、大門(おおもん)をくぐると、そこには偽(いつわ)りだらけの愛の世界がひろがっている。
いまは、春をすぎた夏のとき。
夜見世(よみせ)となれば、妓楼(ぎろう)の軒先につるされた、玉菊燈籠(とうろう)の灯火が、幻想的にあやしくゆらめく。
仲之町という表通りに面した、格子をはめた部屋の中からは、行き交う遊び男たちに笑いかけながら、あでやかに手招きをしている遊女たちの姿がみえる。 また、あちらこちらから、絢爛豪華(けんらんごうか)な宴(うたげ)の、三味線やら、小唄やら、手拍子やらも、聞こえてきて、外にいたときの現実の時間を忘れさせてしまうだろう。
男客たちは、今宵も、吉原という虚構の町に酔いしれながら、それぞれに大人のままごと遊びを楽しんでいる。
仕組まれた恋愛やら、疑似的な結婚やら、手練手管(てれんてくだ)の好きなふりなどという、見せかけだけのことに魅了されている。野暮(やぼ)なことをいうのはよそう。嘘そのものに、美しさがある。それが吉原遊郭なのだから。
蛍燈太夫(ほたるびだゆう)は、いまをときめく花魁(おいらん)である。
高級遊女を意味する花魁のなかでも、太夫(たゆう)とよばれる最上位の花魁は、もちろん自分だけの部屋を持っていた。
吉原の数ある遊郭の中でも、めだって華やかな「朧乃卯(おぼろのう)」という看板の大見世。朧(おぼろ)月夜の兎(うさぎ)、という風情ある意味をもつ名の妓楼(ぎろう)で、人々からは通称、「おぼろうさぎ」と呼ばれて知られているところである。
大座敷の大天井は、浮世絵師の喜多川歌麿が描いているし、あちらこちらの障子(しょうじ)や屏風(びょうぶ)には、金箔や銀箔がふんだんにあしらわれている――。
ここは、将軍や大名、大商人たちが集(つど)う、雲の上の世界でもある。
その、「おぼろうさぎの蛍燈大夫(ほたるびだゆう)」といえば、泣く子も黙る、高嶺(たかね)の花だ!
まさか、その彼女が、表通りでお客を引くなんてするはずがない。
美貌にすぐれ、愛嬌(あいきょう)もある蛍燈太夫には、馴染みのお客たちが途切れることなく通ってくる。牡丹(ぼたん)の花のごとき女は、自身の座敷で、くつろいで座っていればよいというものであった。
そんな恵まれた遊女の蛍燈にも、近ごろ、どうにもならない深刻な悩みがあった。
七助の通いが、めっきり減ったのだ。
七助というのは、蛍燈の間夫(まぶ)で、年季が明けたら、夫婦(めおと)になろうと、誓い合っている相手である。
間夫というのは、遊女の本当の恋仲のこと。「間夫は勤めの憂(う)さ晴らし」ということばもある。好きでもない客と、すごさなければならない彼女たちにとって、まことに好きあっている男とのひとときが、どれほど大切かわかるだろう。
そして、年季というのは、借金のことである。遊女たちは、華やかに着飾っていたが、それらの衣装代や身の回りの調度品など、さまざまと自腹で負担しなければならなかった。そのために、代金を、妓楼(ぎろう)にたてかえてもらうこともしばしばである。だから、働いても働いても、自分の手元に入ってくるお金よりも、さらなる借金を背負うことになったりする。これでは、年季が、なかなか返せないわけもわかるだろう。
遊女たちは、だいたい17歳ごろからお客の相手をしはじめて、27歳くらいになるとほとんどが年季明けで引退ができた。だから、遊女の勤めは「苦界10年」といわれたのである。
蛍燈太夫(ほたるびだゆう)は、23歳。身請けのお誘いもあるが、それらの上等な申し出は、うまくかわしてしまっている。なぜなら、彼女の場合は、来年にも、年季が明けると思われるのだ。我慢をしても、あと半年で、自由の身となれるのだ。ここで、だれかの世話になって、囲(かこ)われ者の一生を送りたくはない。なにしろ、蛍燈には、七助という、こころに決めたお人がちゃんといるのだから。
今宵は、めずらしく、その七助との水入らず。
一晩中、居続けるわけにはいかないけれど……。そう前置きをして、彼は、ようやく、この、蛍燈の部屋に顔を出してくれたのである。
七助は、古着などを竿(さお)にかけて、担(かつ)いであるく行商をしている若者で、年は蛍燈よりも2歳上だが、一見すると、彼女の弟のようにもみえた。
一日中、太陽の光をあびながら、力仕事をしているわりに、どういうわけか色白のやさ男で、近ごろ人気の歌舞伎役者ににている。それだから、彼に言い寄る女がいないわけがない。蛍燈にとっては、この容姿端麗なところが、逆にうらめしくさえ思えた。
しかし、当の七助はというと、色恋沙汰にはめっぽううとくて、およそ女心のつかめないところがあった。それというのも、駆け引きというものが、まるで苦手なのだ。よくいえば、裏表のない正直者。わるくいえば、ボケッとしたお人好しである。
けれども、いまは戦(いくさ)のない泰平(たいへい)の世(よ)である。日々の暮らしをまっとうに生きていけばそれでよい。人を信じてもよい。人をだましたり、裏切ったりの、争(あらそ)いの時代はおわったのだ。こうして生きていけることが、この世のありがたみというものだろう。
七助は、長屋のみんなに頼られては、あちこちの子供たちの世話ばかりをしていた。字の読みも書きもできないから、寺子屋(てらこや)のお師匠さんならぬ、お失笑(しっしょう)さんなどと呼ばれることもあったくらいだ。
寺子屋といのは、江戸の庶民の子供たちに、読み書きなどを教えるところ。七助の場合は、それとはほど遠いよなあという、ちょっと皮肉をこめた愛称であった。
だから、彼をほおっておかない女たちがいたとしても、実際に彼のまわりで彼を追いまわしているのは、たいていの場合、女というにはほどとおい幼子たちなのであった。
けれども、蛍燈は、それを目で見て知っているわけではない。だから、七助の口から、かわいい女の名前が出てくると、どうしたって疑(うたが)いたくもなる。それに、幼子と思っていても、あっという間に年頃の娘になるのだから。七助をめぐる恋敵が、突然にあらわれないともかぎらない。
七助は嘘なんてつけない人だ。そうはわかっていても、吉原にいる身としては、どうしても不安がつきまとうもの。
彼は、彼だけは、蛍燈にとって、まことのこころで話しのできる人。そうはわかっているのだけれども。なぜなら、真実の愛がふたりの間にだけはあるのだから。
ひさしぶりに目の前にしてみると、あきれるくらいに、ほれぼれするような……。切れ長の目も、あいかわらずで、蛍燈の好みの男っぷりである。
彼女は、うっとりしすぎて、お酒など飲まなくたって、すっかり酔ってしまう心地がしていた。
「ちょいと、ここへ手をお出し。それから、目をとじて。いいかい、けっして見ちゃならねえよ」口調も江戸っ子らしい。歯切れのよい、べらんめえである。
「ええっ~? なんでありんすか~?」思いっきり、媚態(びたい)をしめしたりなんかしてみる。
ちなみに、吉原遊女のほうは、言葉づかいも、嘘ことばである。
故郷のお国なまりを消すために、彼女たちは「~ありんす」というようにしゃべるのだ。おかげで、それぞれの出身地がばれてしまうこともない。
吉原遊郭は、「アリンス国」などと、おもしろがって呼ばれることもあった。
そわそわしながら、七助は言った。「はやく、ここへお出しよ」そうして、彼女の白くて華奢(きゃしゃ)な手を、自分の懐(ふところ)の方にみちびくのだった。
「……」蛍燈が、ちょっと、頬を赤らめていると、なんということもない。彼は、彼女の手のひらに、何かをのせただけだった。
「それ、見てみろよ、見てみろよ!」
「あれまあ……」ゆっくりと目を開いてみると、そこには、ちいさな黒い粒が3つのせられていた。それは朝顔の種だった。
「どうだい? わかるかい? いいもんだろう?」
「へえ、まあ……」正直、ちょっと、どうでもいいようなものである。これで大喜びするような、そんな子供ではない。もっと言えば、蛍燈は太夫(たゆう)で、この吉原の最上位の花魁(おいらん)なのだから。
こういうところが、七助のたいそう残念な、欠点といえよう。
手土産といえば、かんざしの一本でさえあったことはない。たんぽぽの綿毛の、どこも欠けることなく、たいそう丸いのやら、虫食いの一点もみあたらないで、よく染まった紅葉の葉っぱやら、そんなものばかりであった。
けれども、しがない物売りの彼のこと、蛍燈の部屋に通うだけでも、よほどに節約をかさねてのことだろう。彼女は、自分から、ねだってみる気にはとうていなれなかった。
おそらく、七助にとって、ここは浦島太郎の竜宮城(りゅうぐうじょう)だろうから。乙姫としては、そんな彼に、高価な贈り物なんて、期待できるはずもないのであった。
「粋なことをするもんだろうよ?」鼻の頭を、細長い指先でかきながら、はにかむように七助は言った。
「(この仕草は……!)」こころの中で、蛍燈は驚きの声をあげた。なぜなら、これが、隠しごとややましいことをしたときにする、七助のお決まりの癖だだったからだ。
「ほたる、え? 驚いたかい?」
「かわいらしい。はて、なんざんしょう?」その動揺をかくすように、ちょっと、大袈裟な感じで、彼の肩にしなだれかかってみる。乱れた着物の裾(すそ)からは、深紅の長襦袢(ながじゅばん)がはだけてみえた。
「わからねえ~だろうよ!」蛍燈の艶のある仕草に、鼻の下をのばしながら、七助は自慢げに言った。
「いや~、まあ……、朝顔の種のようにもみえんすけど?」さらに、色っぽい声を出しながら、彼の耳元に、吐息なんぞ吹きかけてみたりもする。
「まあ、そうよ。でも、な、ここからが肝心なところさ。え? そいつが、どういう朝顔の種なのかよ~!」そう言って、また、鼻の頭をポリポリと、人差し指(ゆび)でかくのだった。
「(やぱっり、あの仕草だ!)」今度ばかりは、蛍燈も、目をみはってしまった。まちがいようもなく、これは七助の、あのお決まりの癖にちがいなかった。
「こいつはよ、めでてぇ朝顔っていうんだ!」七助が言った。
「めでてぇ朝顔でありんすか?」
「ああ、お江戸ひろしといえども、いま、この種をもっているのは、俺とおめえだけよ。なにしろ、俺が育てたんだから」
「えっ? 七さんが?」
「そうよ。まあ、アレよ、品種の改良ってやつ! こいつはめずらしい色を咲かせるってんで、すでに話題の的になってるんだぜ。こりゃ~な、ほたる、お宝もんだよ!」
「まあ! じゃあ、めでてぇ朝顔っていうのも、七さんが名づけたんでありんすか?」
「あ、あたりめぇよ、親だからな。子の名は、親がつけるってもんだ」
「すごいじゃあ、ありんせんか! 七さんに、こんな園芸の才がありんしたなんて……」手のひらにあるちいさな種を、さも貴重品であるかのように、彼女はまじまじとみつめた。
江戸では、園芸が大流行。
庶民のあいだでも、品種改良を自分でして、たのしむ者も大勢(おおぜい)いた。
すぐれた園芸種の番付表などもあり、人気のものになると高い値がつけられる。これで一攫千金(いっかくせんきん)という夢もあったのだ。
朝顔などの、だれにでも手に入りやすい花は、それは、もう、みんなが競い合って、品種改良にのりだしている。そこらへんの長屋の軒先なんかで、どんどん新しい種類の朝顔が栽培されていくのだ。
娯楽(ごらく)のすくない時代。園芸は安あがりで、生活にいろどりを添(そ)えてくれる、いいことばかりの身近な遊び。人々は、丹精(たんせい)こめて育てて、自慢の花を咲かせるよろこびに夢中になった。そうして、品種改良によって、新しく生まれた、多種多様なめずらしい花々を、おたがいに愛(め)で合ってもいたのである。
蛍燈は感心したが、それ以上は、どうにも上の空だった。今宵の七助は、やはり様子がおかしく感じられたからだ。
彼女の顔をみても、なんだか、そわそわしている気がするし、まるで、気持ちがほかにあるみたい。
こんな思い悩みは、本人に聞いてしまえばすむことだろう。なんでもない理由がわかって、ふたりでおかしく笑えたなら、どんなにいいだろうか。けれども、そこは蛍燈の女の勘(かん)というものである。のどに鯵(あじ)の小骨が刺さったように、嫌な予感がチクチクと、簡単なことばを言えなくさせるのだ。
さらには、まっすぐな性格の七助のことである、本当のことを聞いてしまえば、おそらく、本当に本当のことをしゃべるだろうから。そのことが、彼女には、むしろ怖かったのだ。
こうしてやっと、会いにきてくれたのだ。あれこれと、問いただしたり、いちいち、気むずかしくして、なんになるだろう。会えてよかった。また、会いたい。そればかりを、恋しい人には思わせたいものでる。だから、蛍燈は、「なぜ、(会いに)来てくれなかった?」「もっと、(会いに)来てほしい!」、そのひとことが言えないでいたのだった。
「そろそろ、帰らなきゃならねえんだ。それに、しばらく来れねえ。だから、そいつを俺だと思って育てておくれ」七助は鼻の頭をポリポリと、細長い人差し指(ゆび)でかきながら言った。
「七さん……」3度目ともなると、この癖もみなれたものでる。何かあるのだろうとは思うけれども、さほど驚くことはなくなった。むしろ、冷静になってくるから、不思議なものである。ここまでくると、落ち着いて、相手の顔色なんぞ、じっくりと確かめることができた。
「朝顔の花が咲くころには、また会いに来られるだろうよ。すまねえが、ここは俺の大事な種にめんじて、ゆるしておくれ」
「せめてお酒くらいは飲んでいっておくんなんし」そう言いながら、蛍燈は布団をひきはじめた。
「おいおい……」広げはじめた布団を、七助がまるめてもどす。
「お布団くらいひいたって、話しの邪魔にはなりんせん」
「そ、そんな余裕はねえ!」
「今宵は月もまんまるでありんすよ」蛍燈は、障子戸(しょうじど)のすだれをあげて、夜空をみせた。
ここは、おぼろうさぎの2階のお座敷だから、窓からは仲之町の大通りのにぎわいも真下にみえる。それに、すだれをあげただけでも、大座敷の宴(うたげ)の、艶のある三味線の音色が近づいて聞こえるようだ。彼女は、布団をひくのはやめにして、彼にお猪口(ちょこ)をもたせてみるのだった。
「じゃあ、一杯だけ……」七助は言った。
「水の流れに月の影~」蛍燈は、江戸の小唄をくちずさんでいた。
まるめられた布団が、なんとも切なく感じる――。
あれから、七助は、酒をぐいぐい飲みほして、すっかり心持ちもよくなっていた。
「他人の女房なんだが、これが見事な女房っぷりでさあ。まだ、娘みたいな幼さなのに、健気(けなげ)じゃないか。嫌がりもせずに、いくらでも酌(しゃく)をするし、おかげでこっちは深酒をたのしむ、まるで若旦那の風情(ふぜい)が身についてくるようだ。いやいや、他人様のことよ~。3番目の後添(のちぞ)えでな、ただ、あまりにも初々しいから、こっちまでいい眺めだっていう、そういう意味だよ!」
いつになく饒舌(じょうぜつ)な彼がうらめしい。お酌なら、蛍燈だって、こうしてしているというのに。
「ほな、もう一杯、グイッとやっておくれなんし!」わざとらしく、小指などたててほほえみながら、彼の持つお猪口の皿にそそいでみせた。
「それにしても、アレだよな。酒代がどうのとか、身体に毒だとか、まあ、そのうち言いはじめるんだろうけどよ。いまのうちはな、若い娘のことだ、そういうことに気がつかねえのか。いや、わかっていても小言を聞かせまいとしてるんだろうな。幼くみえて、お菊ちゃんは、そういう意地らしい気づかいをお持ちなんだよ」そう言いながら、にやついたりなどしている。
「(お菊ちゃんって?)」もう、蛍燈は、気が気じゃなかった。これは、七助、本人の話しなのではないか?
こっちが、遠慮がちにして、だまっているのをいいことに。つまらない話しばかりを聞かせて、ひさしぶりの逢瀬(おうせ)だというのに、これではあまりにも情が薄いというものだろう。蛍燈は、だんだんと、腹が立ってきた。
「これじゃ、お布団をひいても、罰(ばち)が当たらなかったじゃありんせんか? 七さん、さっきから、ずいぶんと男前な飲みっぷりでありんす!」そう言いながら、七助の太ももをつねってやった。
「あ、痛てえ、痛てえ!」
「べつの女を褒(ほ)めそやして、憎たらしい七さんでありんす……」蛍燈は、徳利(とっくり)のまま、そこにある酒をごくごくと飲みほしてみせた。他人の女房でも、女にはちがいないのだから。
「まあ、まあ。そう、妬くことはねえよ」七助はあわてて、その酒の瓶を、彼女からとり戻した。逆さにしてみると、もう、中身は空っぽである。「あ~あ、こんなに飲んじまって……」
「もう、あちきは、好かねえことでありんす!」そう言って、プイッと横をむいてしまった。
「ほたる~!」観音さまでも拝むように、蛍燈に手をあわせる七助であった。
そんなやり取りがあって、けれども、七助は居続けるわけにはいかなかった。
結局、蛍燈は、よくありがちな小言を聞かせたままで、彼を部屋から出すことになってしまった。
この竜宮城でのひとときが、彼にとって、たのしいばかりであってほしい。そう思って、あれだけ努めていたのに。これでは、ますます、お菊ちゃんに軍配(ぐんばい)があがってしまうではないか。しかも、こっちは海から出られない乙姫の身なのだ。いまさらながら、勝ち目のないやり方をしたと、彼女はくやんでいた。
「お菊ちゃん……」きれいな月を眺めながら、彼の帰った部屋でひとりきり、蛍燈はしずかにつぶやいていた。
あれから、ときは過ぎて、めでてぇ朝顔も、くねくねとした蔓(つる)をのばしはじめていた。
――朝4ツ(午前10時ごろ)。
遊女たちは、起きたらまず風呂に入り、髪を結う。
昼見世(ひるみせ)とよばれる、昼の勤めがはじまるまでは、わずかながら自由な時間がすごせた。 夜見世(よみせ)までは、たいしたお客も来ないから、蛍燈も素(す)の自分にもどって、ゆるりと部屋でくつろいでいた。
「蛍燈姉さん!」鈴音(すずね)がうちわを持って、部屋に入ってきた。
鈴音は、蛍燈の妹分で、遊女の見習いをしている。年は14で、新造(しんぞう)とよばれる段階であった。
遊女たちは、幼いときから、その素質をみきわめるべく、さまざまな稽古(けいこ)をさせられる。そして、時期がくると、それぞれ、器量のよい子や見込みのある子、あるいは、そうとはいえない子など、厳密に分けられていくのである。
特に鈴音の場合は、おぼろうさぎにいた遊女がここで産み落とした女子で、母親は病(やまい)ですでにいなかった。だから、生まれたときから、この大門(おおもん)の中しか知らなし、まさに、生まれたときから、ここで必要な芸事のすべてを叩きこまれていた。
「七助兄さんの、朝顔、くるくるしてて、かわいらし」そう言いながら、蛍燈に風を送ってくれる。
「あちきはいいでありんす。鈴音も、のんびりしなんし」朝顔のつるの先っちょを、小指にからませながら、蛍燈はやさしくほほえんだ。
「ほんに、それが赤い糸でありんすなあ。蛍燈姉さんと七助兄さんは、いつも結ばれて……」
「はあ……」思わず、ため息をついてしまった。
「蛍燈姉さん?」 蛍燈の気持ちがしずんでいるのを、鈴音は、心配そうにみつめていた。
鈴音は振袖新造(ふりそでしんぞう)といって、いずれは、蛍燈のような上級の遊女になれる道へとすすんでいた。けれども、それは彼女にとって、余裕でなれたものではなかった。
花魁(おいらん)や太夫(たゆう)とよばれる遊女には、美貌や礼儀作法だけではなれない。大名などのお客にたいしても、けっして引けを取らずに堂々としていられるだけの、高い教養と品性、さらには才知がもとめられるのである。
鈴音は、ひな人形のようなかわいらしい顔立ちをしていたし、琴や三味線、胡弓などもお手の物、生け花、茶、香、さらには、碁や将棋、双六、歌かるた、などなど、芸能にもすぐれていた。しかし、読み書きや和歌、俳諧などの文字にかかわることが、ちょっと苦手なのであった。
そのため、妓楼(ぎろう)の女将さんなどから、「お客は目の前ばかりじゃないんだ。手紙が書けなきゃ、なんにもならないよ。それも、きれいな字が書けないようではね」そう言って、よく叱られていたのである。
吉原で生きるしかない、鈴音の境遇(きょうぐう)を思えばこそ、他の誰よりもきびしくしつけていたのだろう。それが、いずれは、彼女の身の助けになるのだから。これが、女将さんの親心というものだった。
あるとき、「このままでは、中級以下の遊女にしかなれない枠に入れちまうからね!」と、きつくおどかされたことがあって、それがよっぽど堪(こた)えたのだろう。鈴音は、泣きじゃくりながら、真昼間(まっぴるま)の花びらが舞う仲之町の桜並木を、ひとりで走っていってしまったことがあった。
彼女が、10歳のときだった。まだ、禿(かむろ)の年齢で、おかっぱのような、前髪をたらした髪型をしていた。
さすがに、女将さんも、すこし言いすぎたと、あとであやまったくらいの出来事だった。
「鈴音! 鈴音!」蛍燈は、鈴音を探して、桜並木を見渡しながら、そのあとを追いかけた。
春になると、吉原には、おおきな鉢植えの桜が、たくさん運ばれてくる。そして、中央の大通りに、それらの桜の木を、1本、1本、職人たちが丁寧に植えてしまうのだ。つまり、期間限定の桜並木を、仲之町の一本道にこしらえてしまうのである。さらに、桜の根元には、山吹の花がたくさん植えこまれた。
夜桜はとくに有名で、男ばかりでなく、老若男女がこれを眺めにきた。
通りに面した引手茶屋(ひきてぢゃや)に、ならんで飾られた提灯(ちょうちん)の、あやしげな赤の灯火。さらに、桜並木をかこんだ垣根にも、和紙で作られたいくつものぼんぼりが、うつくしく幻想的に灯される……。そこに、絢爛豪華(けんらんごうか)に着飾った、艶(あで)やかな花魁(おいらん)とよばれる太夫(たゆう)たちの、花魁道中(おいらんどうちゅう)の一行が、ゆっくりと向かうのである。
もはや、この世のものとは思えない。ことばにならないうつくしさである。はかない桜の花とかさなって、ここは、お江戸のとくべつな花見の名所になっていたのだった。
凛(りん)としたまなざし、引き締まった口元。
花魁道中の蛍燈太夫をみただろか?
髪は立兵庫(たてひょうご)に結い、前に後ろに飴色(あめいろ)の鼈甲(べっこう)のかんざし。中央にも、おなじ鼈甲の櫛(くし)をさしてある。
打掛(うちかけ)も息をのむようなうつくしさ。
外八文字(そとはちもんじ)という独特の歩き方で、素足のまま履(は)いた黒塗りの高下駄を、ゆっくりと、一歩、一歩、まるでじらすように、前へ、前へと出してゆく……。
蛍燈太夫のその姿は、まさしく廓(くるわ)に咲いた高嶺の花!
彼女が描かれた浮世絵は、飛ぶように売れている。
鈴音は、そんな蛍燈姉さんがほこらしかった。
そして、いつの日か、この姉さんのようになることが、唯一の、彼女の生きる道なのであった。
ようやく、蛍燈は、路地裏にまわったところで、鈴音を見つけた。ちょうど、お狐さまを祀(まつ)った神社の、赤い鳥居の前である。
「――?」蛍燈は、足をとめて、様子をうかがった。なにやら、若い男と、一緒にいるようなのだ。
しずかに近づいていくと、ふたりの会話が、蛍燈にも聞こえた。
「コンコン、どうしたの? このきつねにだけは、とくべつに教えておくれよ」日の光に手をかざして、彼は影絵のきつねを作った。そして、女子(おなご)のような声色(こわいろ)を上手にだして、鈴音をなだめてくれていた。
「いいよ。おきつねさまにだけなら……」鈴音は、その、影でできたきつねの耳に、こそこそと内緒でうちあけ話しをしている。
「鈴音ったら……」その光景をみて、蛍燈は、思わず、クスクスと笑ってしまった。
そのとき、鈴音をなだめてくれていたのが、七助である。彼は、ひとりで昼の桜見物にきていたのだ。
いまから思えば、蛍燈のひとめぼれであった。
それからは、妹分である、鈴音の面倒をみてくれたおかえし。それ以外にも、なんだかんだと理由をみつけては、蛍燈は彼を呼びとめていた。
そうして、若いふたりは惹(ひ)かれあうのが当たり前というように、自然とその距離をちぢめていったのであった。
あれから、もう5年ちかくになるのか――。時のたつのは早いものである。
「七さんの作った、めでてえ朝顔……。いったい、どんなお色を咲かすんだろうねえ」蛍燈は、小指にからんだ、頼(たよ)りなく細くて曲がりやすい、黄緑色の蔓(つる)をみながら言った。
「もちろん、日の本一(ひのもといち)のお色でありんす!」鈴音が、つぶらな瞳で、元気いっぱいに言った。両手でまるく、弧(こ)まで描いて。
「日の本一? まあ……」あまりにも屈託(くったく)のない、この笑顔をみて、蛍燈は笑ってしまった。
日の光がまぶしい。蛍燈は、妓楼の軒先につり下げられた、華やかな玉菊燈籠に目をやった。
どれだけ朝顔の成長を待ったことだろうか。蛍燈は、くる日もくる日も、水をやり、ときには話しかけてやりもした。
そして、夏も盛りをむかえたころ、この朝顔はりっぱな納涼(のうりょう)の見世物となっていた。
めでてぇ朝顔という名にふさわしく、まるで紅白のたれ幕のような色あい模様。真っ赤と真っ白が交互に帯状になった、いかにも縁起のよさそうな花であった。
蛍燈太夫の部屋に、泊まる馴染みのお客たちも、この朝顔をよろこんで眺めた。
しかし、肝心の七助はというと、あれから一度も会いに来てはいない。
「苦界(くかい)」といわれる、廓(くるわ)での生活。
蛍燈にとっては、彼だけが唯一の心の支えなのだから、下の通りに立っているのを一目だけ、2階の部屋から見おろすだけでもよかったのに。
懐(ふところ)の具合とか、なんとか言って、好きあう男女がこうも会わずにいられるだろうか。
正直なところ、いままで、こんなことは一度だってなかった。それこそ、ほんのわずかの間であっても、七助は顔をだしに来てくれていた。
いま思えば、たんぽぽの綿毛や紅葉の葉っぱをみつけては、こわれないように気をつけて届けてくれた、あの彼のやさしさが身に染みてありがたく感じる。
どこも欠けることなく、たいそう丸いたんぽぽの綿毛。そして、虫食いの一点もみあたらないで、よく染まった紅葉の葉っぱ。ある冬の寒い朝、袖(そで)の下から、きらきらと輝く氷柱(つらら)を出してみせたこともあった。それも、たいそう立派な氷柱だったこと!
それが、どれほどしあわせなことだったか――。いまなら、だれよりもわかる。蛍燈にとって、七助は、かけがえのないただひとりの間夫(まぶ)だったのだ。
「お菊ちゃん……」その名を、ちいさく声に出して、彼女は唇をかみしめた。
足しげく通っていたものが、そうでなくなる……。その理由は、たいていの場合は単純なことだ。つまり、他にいい女ができたというわけである。
「あちきは、この吉原遊郭の、最上位の花魁。おぼろうさぎの蛍燈太夫でありんす!」うっすらと涙を浮かべながら、蛍燈は自分を言い聞かせるように、意味もなくそうつぶやいてみるのだった。
それからも、馴染みのお客たちは、かわるがわるに、蛍燈のところに通ってきて、一晩中、居続けた。
そして、とある明6ツ(午前4時)のことである。
ちょいと見世の玄関先で、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜(お)しむまねなどすればいい、気の置けないお客の言ったことばが、ひどく彼女の心をかき乱した。
「なあに。蛍燈さんが後生(ごしょう)大事に育てていなさるから、ちょいとばかり妬(や)けてきただけのことよ。おなじ朝顔を知っている者としてはな」
このお客は新左衛門という名前で、名門の武士なのだが、町の役人でもあり、江戸町内の事情には、とてもくわしいのであった。そして、あれとおなじ紅白のたれ幕をした色柄の朝顔をみたというのだった。
それだけなら、他人のそら似。いや、朝顔のそら似とも思うだろう。けれども、それが、「めでてえ朝顔」という名で知られているもので、お江戸ひろしといえどもそこにしかない、めずらしい品種だというのである。
「まるで貝合わせの遊びだろう? あちらの朝顔とこちらの朝顔がピタリと合う。それじゃ、こっちは、ふたりの仲を見せつけられているというもの。この目は節穴(ふしあな)じゃないぞ~。この町のことなら、なんだって、見逃しやしない!すべて、はあっ、お見通しだぜぇ~!」お芝居に登場してくるお奉行(ぶぎょう)さまのごとく、新左衛門はきりりとした表情をみせて、茶目っ気たっぷりに見栄を切ってみせた。
「ほんに? ほんに、それは、めでてえ朝顔という名でありんすか?」蛍燈は聞きかえしていた。
「ああ、そうだよ。呉服屋の若旦那な。まあ、若旦那といっても、べつに老舗の跡取り息子じゃない。しばらく行商をしていた若者が、このたび店をひらいて大当たりしただけの奴でな。それで、この男の、けち臭さよ。めでてぇ朝顔の株なんか、いや、種の一粒だって、人によこしはしないんだ。商人というのは、金目のものに食らいついたら離れやしないんだから。すべてを独り占めしてやがる。どうせ、価値があがるのを待って、高値で売るつもりなんだろう。まあ、それでこそ、一代であそこまで繁盛させる手腕ありきよ」と、新左衛門は、豪快(ごうかい)に笑って言った。
「若旦那さん……!」蛍燈は、思わず、ハッとした。たしか、お酒を飲みながら、七助が言っていた。
「知っているくせに、蛍燈さん。うまいなあ、とぼけちゃって」
「そのお方に、お菊ちゃんという……」
「ああ、あの、子供みたいな、こ~んなにちいさな女房な!」わざとらしく、膝(ひざ)の下まで手をおろしてみせた。
「そんな……、まさか……」蛍燈は雷にでも打たれたかのような衝撃(しょうげき)を受けていた。
七さん。七さん。七さん。七さん。七さん……。
それからの、蛍燈は、明けても暮れても、そのことばかり。
七助は本当は何者なのか?
彼女の知らぬ間に、彼はどんどん前へ進んで、いまや立派な呉服屋の若旦那になっていたなんて!
まるで、頭の中に、うるさい蚊(か)が一匹、飛びまわっているようだ。耳ざわりな音が、しつこく彼女を追いまわしている。
憎たらしいのは、もちろん、あの女房のことである。七助の畜生(ちくしょう)め、商売を成功させた途端(とたん)に、べつの女と夫婦(めおと)になるなんて……。
「叩きのめしてやりんす!」畳の染みの黒く蚊(か)のように汚れているのを、蛍燈はバシッと平手打ちしてみせた。
嘘で塗り固められた、吉原遊郭――。
ここに真実などないことは、蛍燈だって、百も承知(しょうち)の上である。
けれども、彼女は、だれよりも、その嘘を知りつくしてきたはずである。
遊女の世界のなんたるかを、それこそ幼いころから、この身でしっかりと覚えてきた。
彼女なら、どんな男だって、偽(いつわ)りの愛で、溺れさせるし、酔わせてしまえる。
相手を自分に夢中にさせる、蛍燈は「まこと」を思うがままにできた。それは、「手練手管(てれんてくだ)」といわれるものかもしれない。なんにしても、彼女はお客を骨抜きにする。遊女の中の遊女なのだから!
そんな蛍燈が、よもや、お客に惑(まど)わされようとは……。
「主(ぬし)が、一枚上手(うわて)でありんした」あまりの口惜(くちおし)さに、胸が張り裂けそうになる。声にならない声で、彼女は、何度も何度も、自分を責め立てていた。
「真実の恋」が、いままでどれほどの女たちを狂わせていったことか――。
蛍燈は、そんな哀(あわ)れな姉さんたちをみながら、自分はけっして落ちまいと決めていた。
ましてや、男のために死ぬような、そんな恋や愛なんぞは、知りたくもないと思っていた。そんなものにあこがれるから、最後はぶざまな姿をさらしてしまうのだ。
「朝顔の花というのは、晩にはしぼんでしまう。だから、いっしょになって、これを眺めるというのは、一晩を居続けて朝までともに過ごすことだよ」七助はそう言っていた。
思い返せば、おめでたいのは、それを信じた蛍燈である。
乙姫のことで頭がいっぱいな、浦島太郎とばかりに、彼をやすやすと受け入れてしまった、まぬけな遊女の自分である。
竜宮城(りゅうぐうじょう)での、夢のようなひとときのあとで、開けてみれば白髪の老人になってしまうという、あの玉手箱(たまてばこ)を渡されたのが、この自分の方だったとは……。
吉原遊郭の遊女は、大門(おおもん)の外へ出ることは、一歩も禁じられていた。
年季が明けるか、身請(みうけ)けされるか、死んでしまうか、それだけしか、ここから出ることはゆるされない。
もちろん、出入り口である大門には、監視(かんし)の見張りが、しっかりと目を光らせている。
その他、ここを囲む塀の外側だって、お城のような深い溝(みぞ)の堀(ほり)がめぐらしてあるし、遊女たちはどこからも逃げられやしなかった。
それでも、男の格好をしたり、荷物の中に紛(まぎ)れたり、味方してくれる人を雇(やと)ったり……、あらゆる手だてをつくして、「足抜(あしぬ)け」しようとする者もいた。
足抜けというのは、借金をのこしたまま逃亡(とうぼう)をすることで、もちろん、それが簡単にできるほど甘くはない。たいていの場合、途中で捕まえられてしまう。
そして、捕らえられた遊女は、見せしめのために、それこそひどいお仕置きを受けた。ときには、死んでしまうくらいの、本当にむごい仕打ちでる。足抜けの罰を思えば、苦界(くかい)といわれる吉原でも、辛抱しているほうがよいと思われるのであった。
しかし――。
蛍燈は、大門をくぐって、吉原の外へと来てしまっていた。なんと、「足抜(あしぬ)け」をしてしまったのである。
行き交(か)う人たちの中で、あまりにも目立つ遊女の姿……。つめたい視線が、彼女を取り囲んでる。
吉原遊郭は、幕府公認である。
苦界といえども、さまざまな身の保証が与えられてもいる。
外へ出てきた遊女なら、思い知らされるにちがいない。それらのすべてを失うことが、いったいどういうことなのかを。
早朝だったから、どの通りも、昼間ほどのにぎわいはない。この時間帯だけは、蛍燈の味方をしてくれていた。
そして、最も命拾いしたことは、彼女があの名高い花魁、「おぼろうさぎの蛍燈太夫」だと、だれにも気づかれずにいることだった。
それを知られることだけは、まったく耐えられない屈辱(くつじょく)であろう。蛍燈本人もそうだけれども、天下の吉原遊郭としても、である。
絢爛豪華な花魁からは、想像もつかない格好をしてきたのがよかったのかもしれない。
仲之町の大通りでよく見かけるような、ありきたりな遊女に扮(ふん)していた。おかげで、そうした最悪の事態はまぬがれていたのだろう。
それでも、突き刺さるような、野次馬(やじうま)たちの、露骨(ろこつ)な嘲笑(ちょうしょう)にされされてはいる――。
花魁道中での、羨望(せんぼう)のまなざししか受けたことのない蛍燈にとって、それは生まれてこのかた経験したことのない、みじめさを感じるには十分すぎるものといえよう。
「……!」そして、いま、蛍燈は、ことばもなく、茫然(ぼうぜん)と立ちつくしていた。
ここは、馴染みのお客の新左衛門が、以前に語っていたところ。
近ごろ評判の呉服屋の、若旦那というお人のお屋敷の前である。
そこで、彼女を待ち受けていた景色は、あまりにもよくある、あまりにも惨(むご)いものであった。
あの、「めでてぇ朝顔」がいくつもいくつも咲いていたのだ! まぎれもなく、七助がくれた、おなじ朝顔が!
丹精(たんせい)こめて世話された、まさしく紅白のたれ幕みたいな朝顔たち……。それらは、蛍燈の持っている、ちいさな鉢植えとはくらべものにならない。たくさん、咲き乱れているせいか、圧巻(あっかん)のうつくしさであった。
朝顔たちはみんな、このお屋敷の立派な垣根に、堂々とからみついて、しあわせそうに、のびのびと、朝一番の日の光をあびている。お天道様(てんとうさま)のしたで、新鮮な空気をいっぱい吸って、赤も白も、より鮮(あざ)やかに花ひらいている。
しかし、蛍燈を凍りつかせた光景は、こうした朝顔たちではない。
お屋敷の中庭で、赤ん坊を抱きながら、かわいらしい女房と笑いあう七助の姿だった。
紅白の、めでてぇ朝顔たちに囲まれて、なにひとつ欠けるもののない、若旦那の顔がそこにあったのだ!
「七さん……」蛍燈の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
遊女を待ち受ける現実なんて、こんなものだとわかっていたはずなのに……。いざ、目の当たりにしてみると、想像をはるかに超えてすさまじい。
深い絶望と孤独のふちに、彼女は容赦(ようしゃ)なく立たされた。そして、なすすべもなく、あっという間に突き落とされたのだった。
ただ、ただ、打ちのめされるしかなかった。
なぜ、こんな報(むく)いを受けたのだろう?
蛍燈は罪を犯したのかもしれない。そうでなくても、いま、こうやって罰を受けている。だれも助けてはくれないし、なんの救いもなかった。
吉原の妓楼(ぎろう)、おぼろうさぎに戻った蛍燈は、もはや抜け殻のようになっていた。
自分で歩いて帰ってきたようだが、そんなことでさえも、彼女は思い出せない状態だった。
いまをときめく、蛍燈太夫――。
おぼろうさぎの旦那さんや女将さんたちは、話し合いのすえ、お客のとれない女にしてしまうのは、もったいないだろうという結論にいたった。騒(さわ)ぎになる前に、さっさと戻ってきたところが、よかったのだろうと思われる。
それに、花魁というのは、めったにいない逸材(いつざい)なのだ。蛍燈が金のなる木だということも、もちろん彼女を命拾いさせた。
そうなると、旦那さんや女将さんにとって、気がかりなことはただひとつ。いまや、蛍燈太夫のかがやきが、完全に失せてしまっていることである。
一刻も早く、あの高嶺の花をみせてほしい。そればかりを、みんな願っていた。
けれども、蛍燈は、一日中、ぼーっとしていて、なにを考えているのかわからない。話しかけても、返事もしない。どこを見ているのか、もはや視線さえもさだまらないのであった。
めでてぇ朝顔だって、ほったらかしだから、どこかにいってしまった。けれども、それを探すこともない。なにもかも、どうでもいい、そんな感じだ。これでは花魁どころか、いちばん下っ端の遊女にだってなれやしないだろう。
おぼろうさぎの、あの名高かった蛍燈太夫は、いったい、いつになったら帰ってくるのか――。
蛍燈は、失ったものが、あまりにも、おおきすぎたのだ。
もちろん、七助のことであろう。
けれども、それ以上に、彼女は「真実」をなくしていた。
「嘘」しかない世界で、この先、どうやって生きていけるだろう……。
あふれ出る涙だけが、蛍燈の、絶望的な心情をうつしているのだった。
夜9ツ(午後零時)の見世じまいのとき。
仲之町の大通りを、拍子木(ひょうしぎ)を打ってまわる音が、蛍燈の部屋にも聞こえてきた。
しかし、これも、どうせ嘘なのだ。どうせ、ごまかされた時刻なのだ。
それに、いまが何時であろうと、蛍燈には、もはや、どうでもいいことである。
彼女の手には剃刀(かみそり)があった。
「おめでてぇ人生でありんしたなあ……」まったくの無表情で、蛍燈はそうつぶやいた。一筋の涙が、彼女の蒼白(そうはく)の頬をつたう。
その剃刀の刃を、彼女はそっと首筋にあてた――。
そのとき、女将さんの声が聞こえた。蛍燈の名前を呼びながら、こっちに向かってくるようである。
「……!」彼女は、とっさに刃物を持つ手を袖(そで)にかくした。
「七さんだよ~!」女将さんは、障子(しょうじ)を開けると、うれしそうに目配(めくば)せをしてみせた。
「七さん?」
「そうだよ‼ いつまでも辛気(しんき)臭い顔してないで。ほら、その目でたしかめてごらん!」そう言って、さも愉快(ゆかい)そうにしている。
女将さんが行ってしまうと、七助が、なんということもなく部屋に入ってきた。あいかわらずの、すがすがしい男っぷりである。
しかし、蛍燈の知っている、しがない物売りの、あの七助の格好ではなかった。
はやり、大門の外でみた、見知らぬ呉服屋の若旦那の姿であった。
「かわいそうに! 足抜けしたって? 本当にすまねえことをしちまったな……」そう言いながら、蛍燈の育てていた、めでてえ朝顔の鉢を両腕にかかえている。
「……!」
「こいつまで見捨てて~!鈴音ちゃんが、かわりに面倒みていなかったら、枯れちまうところだったよ」
「主(ぬし)さん、どうして?」
「主さん?」
一般的に、遊女はお客のことを、主(ぬし)と呼んでいた。蛍燈は、彼のことを、以前のように、「七さん」と、呼ぶ気にはとうていなれなかった。
「ほたる、やっぱり、どこか頭でも打ったんだな~。まさか、足抜けして、やられたのがよっぽど悪いところだったかい? すべては俺のせいだよなあ」七助は、両手をあわせて、「ごめんよ、ごめんよ」と何度も詫(わ)びている。
「……」蛍燈は、おおきな石のごとく、だまって座っているだけだ。
そんな彼女にむかって、七助は、一方的にしゃべっていた。
「聞いちまったよ、みんな女将さんから。鰹(かつお)なら頭から尾っぽまで、俺でいえば、頭は、頭のままで、それと、この足の爪の先っちょまでかなあ~? 恋わずらいってやつも恐ろしい。天下の蛍燈太夫が足抜けしちまう。まあ、しちまったもんは、しょうがねえよ。でもな、まさか、俺なんかのために、そこまでするとは思わなかったんだよ。ほたるが、まさか、足抜けしてまで、この、この、この俺に会いたがるなんてよ~! だって、また、こうして会いに来るって、話していたじゃないか? 年季だって、来年には明けるんだし……」
「――」
「それにだよ、ほたる。どう考えたって、この俺が、呉服屋の若旦那のわけがねえだろう? まあ、それも、そう見えちまったもんは、しょうがねえよ。猿も木から落ちるっていうし。弘法(こうぼう)さまだって筆を誤(あやま)るらしいからな。しばらく顔もみせねえで、情の薄いありさまだったし。それに、俺の着物が、こんな上等なものに変わっちまっていたから。見まちがえても不思議はねえよ。だけど、これは、俺のじゃないんだ。いや、俺のなんだが……。つまり、呉服屋の若旦那っていうのが、俺じゃなくて他にいる。そいつが、俺にくれた着物なんだよ。行商時代の、俺の兄貴分で、と言っても、年は親子ほど離れているが、又吉(またきち)兄貴って、そう呼んでいるんだ。その、又吉兄貴が、いわゆる、本物の若旦那なんだよ!」立て板に水で、七助はそう語った。
「……⁈」
そもそも、このたびの騒動は、どこからはじまったのか――。
まず、七助の通いがめっきり減っていた。
ようやく、会いにきてくれたと思ったら、あまりにもよそよそしい態度である。蛍燈の女の勘からしても、彼が以前とちがっていることを、感じずにはいられなかった。
そう疑(うたが)った目でみていると、案の定(あんのじょう)、彼が嘘をつくときにする、お決まりの癖をしているではないか。あの、鼻の頭を人差し指でかく、というものである。
彼のことを、あやしいと疑っていた蛍燈は、これで、ますますその疑念(ぎねん)を強めていく。
さらに、お菊ちゃんという女もことも加わって、あれこれと気になりはじめたから、蛍燈の不安はどんどん増していくばかりだ。
そんなとき、お江戸の町内にくわしい、信用のおける馴染みのお客から、若旦那の話しを聞かされる。その内容は、まるっきり七助とかさなるものであった。もしや、ふたりは同一人物なのではないか?
七助本人とはまったく会えないし、蛍燈の気持ちは、ますますつのるばかり……。
そこで、思い切って、確かめに行ってみると……、非常に残念なことに、彼女の心配はすべて的中してみえたのだ!
その呉服屋のお屋敷に、おなじめでてぇ朝顔があって、若旦那の格好の七助もいて、となりにはお菊ちゃんまでいたのだから。どうのこうの、もはや言いわけも聞きはしない。すべてが、はっきりとしてしまったのだ‼
ところで、蛍燈の女の勘は当たっていた――。ちゃんと、七助は、彼女に嘘をついていたのだ。
ただし、彼のついた嘘の中身が、彼女の想像とは、ちがっていたのだ。
ここまでややこしく、ねじれさせたものがあるとしたら、ここに見いだせるだろうと思われる。
七助の嘘――、それは、めでてえ朝顔のことであった。
「俺が品種の改良したというのは、まったくの嘘っぱちでさあ。それに、名づけも俺じゃねえ」彼は鼻の頭をポリポリと、細長い指でかきながら、ついに白状をした。しかも、あの種にいたっては、勝手に持ってきてしまったというではないか!
「じゃあ、盗んできたんじゃありんせんか?」 蛍燈は、あんぐりと口を開けるかたちで、ようやく自分を取り戻しはじめた。
「盗人(ぬすっと)みたいに言うのはひどいよ。 ちゃ~んと、ご本人さまの了解ずみなのよ~。なんだって、めでてぇ朝顔が、どうぞ、どうぞ種でもなんでも持っていってください、というんだから」
「あれ、まあ。朝顔の了解(りょうかい)でありんすか?」
「品種の改良は、又吉兄貴。そんで、名づけの親も、やっぱり、又吉兄貴。だけど、毎日、水をやったり、育てているのは、この、俺だから。めでてぇ朝顔の方だって、そりゃ、俺になついていて。近ごろじゃ、又吉兄貴なんかよりも俺の方が、よっぽど頼りにされているんだ」
「へえ、へえ。そりゃ、よう、おざんした」
七助は、ちょっと前に、ひどく腰を痛めてしまって、歩くのがやっとという状態になっていた。
そのときには、もちろん古着を肩にかついでの行商などできるはずもない。長屋の人々がよくしてくれたおかげで、なんとか日々をしのいでいたのだ。
正直、言いたくはないが、女を抱くことなんて考えられもしなかったのだ。
「どうにも格好がつかねえから、言わずじまいだったのよ。い、いまは、よくなったから……」彼は顔を真っ赤にしながら、はにかむように言った。
ろくに稼いでいないのなら、懐(ふところ)の具合が悪いのも、納得というものである。それに、腰の痛いのを悟(さと)られまいとしていたから、蛍燈に対して、よそよそしい態度になってしまっていたのだった。
めでてぇ朝顔の品種改良の嘘。
それから、嘘というには気の毒な気もするが、腰痛のことも隠していたわけだ。
「そりゃ、災難でおざんしたなあ」蛍燈は、ほっと胸をなでおろした。他にいい女ができたわけじゃなかったのだ。あとのことなら、いくらでも、なんとでもなると彼女は思った。
心底、惚れちまった女の弱みだろうか。こんな、ざっくりとした内容でも、打ち明てくれたなら、それだけで、もうはっきりとしてしまう。やっぱり、彼は、蛍燈の、かけがえのない間夫(まぶ)なのだ。
それで、七助を見かけなくなった又吉兄貴が、心配をしてお見舞いにきてくれた。
呉服屋の商いが繁盛するにいたった彼は、3番目の後添(のちぞ)えもむかえていた。年若い、お菊ちゃんである。
彼女は、はじめての赤ん坊の世話に目をまわしていた。いや、赤ん坊だけならまだしも、又吉兄貴には前妻たちの子供のうるさいのが15人もいるのだとか。悲しいことに、2度も死別であったから。
なかには、いたずら坊主の手にあまるのもいて、又吉兄貴も気がかりではあったらしい。
いきなり、肝のすわった母親になれるわけもない。さらに、子供はよく風邪をひくから、一概(いちがい)に手を焼くといっても、そういう看病の大変さもあったのである。
七助は、評判の子供好きだし、ちょうど働きもできないでいる。
とんとん拍子で、その15人と、ときには赤ん坊の面倒をみてやる話しがまとまった。
やらせてみると、七助は、期待以上によくできた。
子供をあやすのが得意とは聞いていたが、それにしても、又吉兄貴の、ごちゃごちゃした子供たちが、すっきりとまとまってよい子になってくれたのだ。
七助としては、水を得た魚というものだろう。
持ち前の、人の好さもあって、だんだんと子守の時間はのびていく。病気がちの子もいたために、朝から晩までいっしょにいてやることもしばしばであった。
お菊ちゃんの生まれた日が、ちょうど七夕の日ということもあり、この晩、子供たち全員で歌を披露する宴(うたげ)を開いたときには、さすがに、彼女だけでなく、又吉兄貴も泣いてよろこんだものである。
そうなってくると、もちろん晩飯はご馳走になるし、又吉兄貴とは夜通し酒を酌(く)み交(か)わすこともあった。
他人の女房、お菊ちゃんの、お酌(しゃく)というくだりは、こういう流れがあってのことだったのだ。
人には、強欲で、けち臭い商売人のように言われている又吉兄貴。しかし、七助にとっては、まったくちがう顔をみせていた。
弟分として、かわいがるだけあって、着物も気前よくくれるし、髪結いだって頼んでくれる。
ときには、呉服屋の店先に立つこともあったから、七助の身なりを正すことは、又吉親分の商いのためという見方もできたけれども。
「今回の一件でも、俺はしみじみ、いずれは寺子屋(てらこや)が開きてえと感じたよ。読みでも書きでも、いまからでも覚えてさあ……」
「さすが、七さん!」蛍燈は、ポンと彼の肩をたたいた。
「それなのによ~」七助の顔が、夕立のごとく、にわかに曇りはじめた。
「……?」
「めでてぇ朝顔のことは、つい、魔がさしちまった。これで世間(せけん)さまの信用をなくしちまっても、文句はいえねえ」彼は神妙な面持ちで言った。
「そんなん……」
「そんなんで、狂っちまうのが、人生ってやつだろう? 盗みを犯すような人のところに、大事な子供を預ける親はいないよ~。それにな、又吉兄貴っていうのは、ああ見えて怖いお人でもあるんだよ」
「……」
「恩を仇で返したとなれば、人斬(き)りだって雇いかねない」
「人斬りでありんすか?」
「ああ。あの人は、そういう裏の顔をお持ちなんだよ」七助のからだが、すこし震えている。「それでも、すっかり打ち明けてみるか。大人が正直にならないといけないからな」七助がつぶやいた。その瞳はうるうると、うるんできていた。
「それで、ゆるしてもらえるでありんすか?」蛍燈も、なんだか恐ろしくなってきた。
「わからねえな。ことによると、打ち首、獄門(ごくもん)かもしれねえ。お宝みてえな、大事な種を持ってきちまったんだ。俺を番所に突き出すくらいのこと、あの又吉兄貴ならやるだろう」七助の声は小さく、いよいよ、か細くなるばかり……。
「あちきは嫌でありんす!」
「そうだなあ。命があっても、島流しとかになったら、もう、ここには来れねえ」
「……!」
ふたりは、思わず、身震いをして、また、黙りこくってしまった。
なぜそんなことをしてしまったのか。いまでは、後悔してもしきれない。犯したあやまちの重大さに、ただ、ただ、打ちひしがれる、七助なのであった。
部屋の外では、鈴音(すずね)が、日本酒や新鮮なお刺身のお造りなどを、女中に持たせてやってきていた。彼女は障子の戸を開けようとしたところ、深刻なやり取りが聞こえてきたため、しばらくそのままで待つことにしたのだ。
ふたりの様子を、思いがけず、窺(うかが)うことになった鈴音。どうやら、ことの経緯(いきさつ)を、ほとんど知ってしまったようである。
「蛍燈姉さん、よう、よう、こうやってお戻りくださんしたなあ! あちきは、ほんにうれしいでありんすよ‼」そう言いながら、彼女は部屋に入ってきた。
「鈴音! お前には、ずいぶんと心配をかけてしまいんしたなあ……」
「七助兄さんもおひさしぶりでありんす! 蛍燈姉さん。七助兄さんも。あちきは、ここで、おもしろおかしい話しを聞かせてもらいんした!」鈴音は、そう言って、くすくすと笑った。
「なんでえ? 盗人したのが、そんなにおかしいのかい?」七助は、やっぱり暗い顔で言った。
「ほんに……。その朝顔は、お外の垣根にござりんしょう? それなら、もう、だれでも持っていけるものではありんせんか? あちきには、すぐにわかることでありんす!」
鈴音の言葉に、思わず、ハッとして顔を見合わせる、蛍燈と七助であった――。
はたして、めでてぇ朝顔は、七助が盗まずとも、すでにあちこちに広がっていた。
風が運んだか、鳥が持っていったか、人がそうしたのか、外の垣根にあるのだから、まったく鈴音の言うとおりである。
それを大人のふたりが気がつかなくて、子供の彼女に指摘(してき)されてしまうとは……。まったく、おめでたい、今宵の蛍燈と七助である。
もしかすると、こういうことは、渦中(かちゅう)の者よりも、端(はじ)で聞いている者の方が、冷静に判断できるものなのかもしれない。
そして、この晩、七助は、蛍燈の部屋に居続けた――。
ようやく、甘い夜を、ゆっくりと過ごせたのである。
翌朝には、紅白のたれ幕のような、めでてぇ朝顔が咲くのを、いっしょに眺めることもした。
偽りだらけの吉原遊郭で、めずらしくもある真実の恋。
半年と、すこしばかりの後、ふたりは晴れて夫婦(めおと)となった。
その昔、吉原遊郭で、蛍燈太夫と呼ばれていた。
ほたるにとっては、読み書き、算盤……なんでもござれというものである。
七助は、その彼女をお手本にして、あれこれ見習いながら、どんどん学んでいった。
彼が寺子屋「とびうさぎ」を開くと、江戸で評判の学びの場、遊びの場として、庶民的に親しまれるところとなった。もともと、子供に好かれる性分(しょうぶん)の七助であったから。
さらに、ほたるの方でも、書道だけではなく毛筆画を。また、和歌や茶、生け花、碁や将棋など、いろいろ子供たちに手ほどきをしてやりもする。ここまで幅広く、気さくに教えてもらえるとなれば、人気が出るのも当然のことかもしれない。
しかし、彼女は、どんな大人が相手であっても、たとえば、武家の奥方や大商人の女将たちに対してでも、さまざまな種類のお稽古(三味線、小唄、日本舞踊、絵筆など)をつける技量がある。もちろん、ほたるは、いわゆる趣味の芸事全般のお師匠としても、寺子屋とはべつに活躍をしていったのだった。
後に、ふたりは4男3女に恵まれて、さらに、親のいない子を10人むかえて、19人の家族となる。
庭もある一軒家をみつけて、そこを住まいと寺子屋、さまざまな芸事の稽古場とした。
家屋は屋敷というよりは道場という感じ。台所に専用の井戸があるのがよいところだ。庭も、お寺の境内のような雰囲気であった。
そこで、鶏(にわとり)5羽、犬2匹、猫3匹、うさぎ4羽も飼ったし、親とはぐれた狸(たぬき)の子1匹も保護してくわわったりもした。
寺子屋の子供たちも、自ら進んで、「童心岡っ引き隊」なるものを結成して、町内の御用聞きなどをつとめたりもした。
ときには、恐ろしい人殺しの一件を落着させることもある。
「そんな危険なことに首を突っ込むんじゃねえ!」七助の声が響くのも、この寺子屋の名物になってしまった。
さらに、そんな気持ちとは裏腹に、なぜか、七助自らも、「童心岡っ引き隊」の隊長として、謎を解くはめになったりもした。
そんなこんなで、寺子屋「とびうさぎ」は、難事件を解決するため、本物の岡っ引きたちも出入りする場所となっている。
ちなみに、あの鈴音は、のちに、吉原の最上位の花魁(おいらん)となった。「おぼろうさぎの鈴鳴太夫(ずずなりだゆう)」である。彼女の洞察力(どうさつりょく)は、この「童心岡っ引き隊」をたびたび助けることになったため、ここにつけ加えておくものである。
夏ともなれば――。
垣根いっぱいに、めでてぇ朝顔が咲いてみえる。紅白のたれ幕のような縁起のよい色柄。あのときの鉢植えの子孫たちである。
井戸からくんだばかりの新鮮な水をもらって、さえぎるもののない太陽の真下で、赤も白も、そりゃあ、光るばかりにうつくしいものだ……。
以上が、ほたると七助の、めでてぇ朝顔にまつわる話し。
ふたりの縁結びの赤い糸であった、というくだりである。
めでたし、めでたし。
おしまい。