人間のいない町
駅を出発してしばらく経つと家々は急に少なくまばらになっていき、遠く離れた向こうで屋根は群れを成している。それらの上で高速道路は東西に伸び、時折、車が走っているのが見えた。
名古屋へ向かう急行列車の窓に、カタツムリが張り付いている。腹は白い液体にまみれてみずみずしく光っている。町子が座ったまま頭を傾けて覗くと、殻が欠けているのが見える。制服姿の町子が景色に薄く重なって窓に映っている。
前方に立ち並ぶ電柱はゆっくりと近づいてくるが、目の前で急に速度を上げるとあっというまに通り過ぎ、またゆっくりと去っていく。
線路の脇に広がる田畑に囲まれた高校のテニスコートに、ラケットが一本転がっている。ボールがコートを跳ねるときの、空気が抜けるような音が町子の頭の中で鳴る。
畑からは煙りが上がっている。薄い灰色の雲が空一面に広がっている。
電車は橋を上る。広い池が下に広がる。水は黒ずんでいる。亀が岩の上で首を伸ばしながら、ささやかに、陽に当たっているのが見える。
しばらくして電車の速度が落ちる。町子は背中を押されたように前に傾いた。景色の流れ方が遅くなっていき、商店街と隣接した駅で、電車は止まった。
おかめみたいな女が乗ってくる。色が白く、顔は下膨れている。眉は手入れがされておらず、黒々とした毛が広がっている。まぶたの上の鮮やかな青いアイカラーが変に目立つ。町子は目の前の背もたれ越しに女を見た。
姉によく似ていた。
わずかばかりの客を乗せた列車は出発する。町子は右の腕をさすりながら目をそらした。窓のカタツムリはいつの間にか消えていた。
三年前の、六つ離れた姉の誕生日の翌日だった。深夜番組を見ていた町子を、姉は突然竹刀で打った。
「分かったか! 分かったか!」姉は町子の右腕を何度も叩いた。町子の手の中からテレビのリモコンが落ちた。リモコンはちゃぶ台を外れ、姉の足元で止まった。町子はどうして叩かれているのか、訳が分からなかったが、痛みを感じるたびに頷いた。見下ろす姉の目は充血し、細かな血管が浮き上がっていた。もともと白い肌が余計に青白く見えた。
次の日、町子が中学校から帰ってくると、家じゅうにルールが書かれていた。電気のスイッチには「節電を」と大きな文字がマジックで書かれてあった。玄関の靴箱には「家族である者は出入りするとき施錠をすること」。エアコンのリモコンには「夏は25℃、タイマーは三時間で切。設定をいじるな。冬は使用禁止」と。
「使用後はガスの元栓を締める」
「他人から貰った果物、野菜、お菓子を入れるな」
「クソをほじった手で触らない。ティッシューで拭き、銀色のゴミ箱へ捨てること」
「末っ子は自室で食事を取ること」
町子一人きりの食事は静かだった。音楽をかけたが、心に重くのしかかってくる何かを感じ、耐えられず消してしまった。ダイニングから姉の声が聞こえてくる。穏やかな笑い声。町子はほっとする。ルールに反することをすれば、姉は「分かったか!」とムキになって暴力を振るった。竹刀を隠しても、椅子や踏み台、目覚まし時計など、家にある物は何でも人を殴る道具になった。両親も姉に脅えていることが、町子には分かっていた。「狂ったか」と父が一人泣いているのを見たことがあった。床を睨んだ父の目も充血して真っ赤になっていた。
開け放しになった窓から、町子の部屋に電車の音が入ってくる。音が家を少し揺らす。ガタタタタ、タン、ガタタ、タタタン。町子は、車輪が線路を走るそのたどたどしい音が聞こえてくると、車内にいる自分の姿を次第に思い浮かべるようになった。その姿は日を追うごとにはっきりしていった。
ある日、母は今晩のおかずを何にするか、スーパーの生鮮食品売り場で食品を眺めながら、隣にいる町子へ向かって言った。
「おねえちゃんは昔から優しかったから、何も文句を言わなかった。溜まってたんだろうね。でもね、でも、たった一人の姉妹なんだからね」
(優しいからは理由にならんよ)
腕をさすりながら、町子は黙って頷くと、母は満足そうに笑った。
急行列車は、小さな駅を通り過ぎる。ホームで携帯電話を触る人影が見えた。
線路脇の国道は車の行き来が多い。国道に隣接する駐車場は満車だったが、人の姿は見えなかった。
列車はやがて名古屋の地下へと潜っていった。先にホームの明かりが見える。振り返れば、線路は家の前まで続いている。
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