桃
かれのカバンのなかには、銀座の露店で盗んだ桃がひとつ入っている。他には何も入っていない。財布も定期券も、クリーニングされたスーツの内ポケットに収められている。
かれは桃が潰れてしまわないように優しく、だが、誰にも奪われぬようにしっかりとカバンを両手で抱える。家の最寄り駅でおりると、家とは反対の道を歩いていた。
このまままっすぐ家に帰ってはいけない、桃は駅のゴミ箱に捨ててしまえばよかったのだ、と思った。しかし、戻ることなく、どこへともなく足を進める。
かれは後悔をしていた。腹が減っていたわけではない。特別なものだったわけでもない。
なのに、なぜ盗んだのか。かれ自身もわからなかった。たったひとつの、言葉通り、簡単に握りつぶせてしまうほど熟れた桃ひとつに、かれは人生を壊されてしまうのだと恐れていた。
街灯の下を歩きながら、支えていた片方の手を動かし、カバンの表面をそっと撫でる。と、同時に背後でカラスが鳴いた。道路の脇に伸びる塀の向こう側で木がざわめき、羽が震える音が聞こえた。何羽もいるようだった。
かれの手は緊張で震えていた。カバンの中は空っぽすぎて、すべてが何も起きていないようだった。まるで若さゆえに緊張しているかのように思えるのだった。
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