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ベビーカー

駅のホームに女が立っている。猛暑のなか、女は黒いダウンジャケットを羽織ってフードを深くかぶっている。ホーム内は寒いくらいに冷房が強く効いているが、女は汗だくだった。

女は鞄の中からペットボトルのお茶を取り出し一口飲む。口に入ってきたのがお茶ではなかったので、女はぺっぺっと唾と一緒に吐き出す。電車が、女を乗せずに発車する。

女の顔は不幸で満ちていて、口が捻れて醜かった。あまりにも深い卑屈さが女の背骨を不気味に歪めていた。女は瞬きをせず目を見開き、どこともなく視線を漂わせている。視線は下に向けられたまま彷徨っている。他人と目が合うのを恐れているのだ。

女は鞄の中からペットボトルのお茶を取り出し一口飲む。口に入ってきたのがお茶ではなかったので、女はぺっぺっと唾と一緒に吐き出す。

女から少し離れたところにベビーカーが止められている。母親とその友達は、長い時間、立ち話をしている。電車がホームへ入ってきて、警笛を短く鳴らす。女はベビーカーにゆっくり近づくと、母親からベビーカーを奪って走る。母親と駅員が追ってくるが、女は捕まらない。女の得意なことは走ることだった。

誰にも見つからない場所で、女はベビーカーを止めた。1歳になったばかりの女児が眠っている。女児の顔を見ながら、女は子守唄を歌う。随分と長い間、声を出していなかったので、かすれた細い声しか出てこない。女は弱々しい声で何度もなんども繰り返し繰り返し歌い続ける。腹を空かせた女児が目を覚まして隙間なく泣き叫び続けても。

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