見出し画像

牛だって

赤い夕日が西方に立ち並ぶマンションの影に沈んでいった。
窓から差し込む赤い光は徐々に短くなり、やがてなくなっていった。
「チクショウ。さみいがや」と熱い風を噴出しているストーブの前で男は叫んだ。彼女も家族もおらず、友人もいるのかいないのか分からず、男は心が寒かった。ぶるっと体が震え、両腕で自分を抱えた。
ふと気がつくと、目の前に牛がいた。茶褐色の、小型で華奢な牛が、黒い大きな目で男を見ていた。
人の家に勝手にあがりこむなんて、不貞な野郎だな。男は牛の顔を叩いた。太くて短い毛は堅く、ごわついていた。わき腹のあたりに、JUNICHIと毛が刈り取ってある。
「お前、純一っていうのか」
それに答えるように牛は鳴いた。
一息の長い声を聞いているうちに、なんだか自分がこうなることを望んでいたような気がしてきた。そこで、空き室をひとつ、牛にあてがってやることにした。男が背中を押してやると、牛はされるがままに北の部屋に入った。尻尾を振りながら、部屋の匂いを嗅いで回った。どこから入り込んだのか、蝿が牛の周りを飛び交っていた。それを尻尾で器用に追い払った。一周した牛は隅に寄り、手足を折り曲げて寝てしまった。
次の日、男は水が勢いよく流れる音が聞こえてきて目が覚めた。七時半を回っていた。隣室を見に行くと、牛は座っていた。戸を開けた途端、臭さに吐き気がした。牛は潤んだ目で男を見上げた。
男は臭い糞尿にまみれているうちに、欲しかったと思っていたのは勘違いだったような気がしてきた。牛に抱きつき、筋肉質のその身体に顔を埋めるが、やはりしっくりこないのである。じゃあ何を求めていたのかと言えば、それは人のぬくもりだった。
「俺は行くよ」
牛はしゃくれた顎の関節を器用に動かしながら喋った。唇が開くたびに、頑丈そうな白い歯が覗いた。
「お前には俺は必要ないんだ。お前は俺を望んじゃいなかったんだ。じゃあな」幾分、牛の表情が曇った。
「それと。俺はジョニーだ。純一なんてだせえ名前じゃねえ」
牛は尻尾を手のように使ってドアを開けると出て行った。活動し始めた町を、人に紛れてのっしのっしと歩いていく。建物の隙間に青い空が広がっている。
牛がいた部屋の糞はいつのまにか綺麗に片付けられていた。ビールの空き缶がひとつ、床に放置してあった。中から煙が湧き出ていた。覗くと、煙草のシケモクの先が赤い火でちらついていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?